瀬戸川道男メモリアルコンサート

当日のプログラムパンフレットより抜粋


コンサートのご案内


本日の演奏会は当合奏団の創始者であり、育ての親であった故瀬戸川道男先生のメモリアルコンサートです。
この「メモリアル」という言葉に託したものは、単に瀬戸川先生を追悼するということだけではありません。実は、この演奏会は瀬戸川先生ご自身がタクトを振られる最後の演奏会となるはずでした。「今回だけは我侭を言わせてくれ、僕の好きな曲だけをやりたい。」こうして選曲は一気に決まりました。ソロパートも誰々に弾いて欲しいと言い残されています。更に、コダーイの問奏曲では編曲を途中まで作り上げられていました。
この遺志を継いで、残された私達で実現させようとしているのが本日のメモリアルコンサートです。
幸い私達は、瀬戸川先生が長年在籍されたNHK交響楽囲の第二ヴァイオリン首席奏者として活躍されている村上和邦先生を、音楽監督およびコンサートマスターとして迎えることが出来ました。本日は村上先生の奏でるヴァイオリンと,団員として瀬戸川先生の音楽を学んできた指揮者の立石洋介さんと、私達全員の力で天国にいらっしやる瀬戸川先生に昔楽をお届けする日です。皆様の温かい拍手と共に、この贈り物が先生に届けられるなら、これに勝る喜びはありません,


想い出


先生は弟子にご自身のような太く熱い音を出すことを躾けられたが、同時に、先生の模倣ではなく自分の音を探すことにこだわることを喜ぱれた。これ無しに先生と本音の対話はできなかったし、今では自分の内にある先生と話をする唯一の術となってしまった。
 音を出す。ふと先生の声が聞こえてくる
「それは達うな。」
「そう、その音だ。」
先生の感性に共感した人達の内には、先生が生き続けている。そういう人達にとっては、思い出を「語る」必要がないのが潮戸川先生なのだろう。

Cb畑中宏之


“この地に弦楽合奏団を作りましよう”という潮戸川先生の呼びかけを新聞で知ったとき、こんな近くにこんなすてきなことを考えているひとが居て下さったんだ、と感激し、ひそかに待ち望んでいた時が来た喜びに、胸をときめかせながら(そして、技術は問いません、音楽を創る喜びを共に楽しみましようという言棄にすがりながら)初めての会合に出かけて行ったのです。
それから十数年間、プロの知識と技術を惜しみなく与え、烏合の衆であった私たちを育て続けてくださいました。大ぎな目に見つめられると、その期待に応えられないつらさをひしひしと感じる恐縮の練習でもありました。
御病気の後、痛々しくも大切な工ネルギーど時間を私たちの指導に注がれる姿は、音楽への情熱と愛と前向きに生きる立派な勇気を見せてくださいました。
たくさんのすばらしい音楽と仲問との出会いをくださった先生に、お礼の一言も申し上げないうちに旅立たれてしまいました。先生と同じ時に生き、ご縁があった幸せに感謝しています。

Vc黒瀬匡子


一番忘れられない事は、聴かせどころのメロテイーをつまらなそうな顔をして弾いていると先生に怒られた事である。演奏者が気持ちを込めないで聴きてに感動を与える事はでぎないという事を教えていただいた。
今考えるとそうではなくて、こんなすばらしいメロディ一をつまらなそうに弾く事自体がもったいなくて信じられない、という気持ちからだった様に思える。演奏技術とは違う次元の、大切な華を教えて頂いた様に思う。

Vc長岡義礼


先生、ありがとう、
これからも、ありがとう。

Vc平林陽助


ppは指板の近く、弓をねかせてピツチ力一トは左の押え7、右が3、開放弦は右手の圧力を加減して。
私の楽譜の余白に、そんな先生の指示や教えが書き込まれています。楽譜に向かい合う時にこのようなメモに出会うと、その時の練習の内容や空気が浮かんできて、とても新鮮な思いがします。
ピツチカートというと、プリテンのシンプルシンフオニ一の第二楽童のことが特に思い出されます。先生は私のチェロを手にされて「こういうふうにやるんです。」と、太いC線の弦を人差指と中指の2本の指を使ってバン、バンバンとの音を出してみせて下さいました。
「いい音がするじやないか。」
この夏はチヤイコの弦セレを汗と斗いながら練習しました。いい音楽作り、めさして。

Vc佐々木誠


瀬戸川先生との出会いは、今から12年前。この12年の間に先生は音楽の本当の楽しみ方、遊び方、味つけの仕方、本番の醍醐味を教えて下さいました。演奏会の折り、先生が指揮をしながら感動のあまり、目にいっばいの涙を浮かぺて指揮をされていた姿はとても忘れられません。指揮するというよりも団員とともに血の通った良い音楽を創っていこうとされている姿は、参加している私達にはとても心地よいものでした。
私達二人とも先生の人柄、音楽の魅力に引かれ、12年間、生の音楽に触れることが出来ました。本物の音楽が持つ豊かな世界を私達に経験させて下さいました。これからも先生の陰の声を聞きながら、一生音楽を楽しみたいと思います。見守っていて下さいね。

Va武田充弘
チエンバロ武田順子


ピーピーピー
「ちがうちがうもっとよく聞いて!」
わからないながらも いろいろさぐってゆく・・・。「そ!その音だよ!」先生の顔がほころぶ。私達の緊張もふとほぐれる。
だけど素人の悲しさ次の練習にはもう忘れてしまつている。何度も何度もやり直してなんとか曲の形が出来てくる。
先生は又、お話がおもしろくとてもお上手だつた。練習の合間にオランダ時代、N響や神奈川フイルでのエピソートをおもしろく聞かせて下さつた。
瀬戸川先生 楽しい練習とお話をありがとうございました。

Vn内田眞理


一見、恐そうなお顔ですが、笑うと大変可愛らしい表情をなさり、ポンポンおっしゃるけれど、心の中は、とてもおやさしいのではないかと思つておりました。
私がぐずぐず云つておりますと、「あなたの人生でしよう。もっとがんばりなさい」とおっしやられた事が、大変印象に残つております。
まだまだ御指導頂きたいと思っておりましたので、本当にさみしい思いがいたしますが、皆の心の中に生きておられ、励まして下さっている様な気がしております。

Vn高橋美奈子


先生に初めてお会いして今年で10年目でした。先生が一貫して私達に教えて下さつたのは”音楽には心がある”という事でした。
先生は指揮をなさる時、楽しい曲には笑顔で、そして美しい曲、哀しいメロディには、どこか遼くを見つめるかのように涙を流されることもありました。ここまで人の心をも動かす音楽の力とは、本当に素晴らしいと思います。
私の音楽に携わつて下さつた先生方は、本当に音楽を愛した方でした。たから私も音楽が、ウァイオリンが大好きです。
沢山の感動と、言棄ではない音楽の大切な事を教えて下さった先生に本当に感謝しています。

Vn竹内絵美


先生とは、あまり親し〈言葉を交わす機会もないままにお別れすることになって、とても残念です。
2年前に肩痛で半年以上ヴァイオリンを弾けなかつた時に、突然先生がらたくさんのビタミン剤が届いて、お礼の電話をしたら「体調を整えてゆっくり治しなさい」と言つて下さったあのさりげないお心通い・・・・忘れません。

Vn番匠由紀子


湘戸川先生へ
無事、天国に着きましたか。先生の同僚の方々が「寄り道するなよ。真直ぐに天国へ行くんだよ。」と大声で遺影に向かつて叫んでおられたのは聞こえたのですね。
ところで、緑Heaven弦楽合葵団の結成準備は進んでいますか。今からしっかり「さらって」おきますから、その時も参加させて下さい。天国で鍛え直して頂ければ、私だって先生のおっしゃる「イイ音」で弾けると思います。
寂しいというのは、こういう事なのですね。

Vn中野晶子


私たち夫婦が緑弦楽合奏団に入団したのは、今から3年ほど前でした。子供がまだ小さく、演奏会には子供をペビーシッターに預けて二人とも出演していましたが、練習には交替で出席したりして、瀬戸川先生にはいろいとご迷惑をおかけしたことと思います。
瀬戸川先生との思い出はいろいろあります。いつかの演奏会の直前だったと思いますが、先生の髪が黒々として若々しいどいう話をしていたときに、先生が「これまで自分の嫌なことは一つもやってこなかった」どおっしやいました。自分の好きなこどをとことんまでやり、それを極めた者の自信と誇りが感じられて、とても羨ましい気持ちになったことを思い出します。
また、先生の音楽に対する純粋な情熱、暖かい気持ちは誰にも真似のできないものでした。ある演奏会で「チャルダッシュ」のソロを安部さんが弾かれました。その情熱のこもっだとても素晴らしいソロを聞かれた、指揮をしていた先生の本当に喜しそうな顔。真つ赤になりながら、顔全休を笑顔にして、目はキラキラと輝いて、まるで少年が森の中で大きなカプトムシを見つけた時のようでした。
団員の一人ひとりが、それぞれ先生との思い出をたくさん持っています。今日は、そんな思い出を音符の一つひとつに乗せて、皆さんに、そして先生にお届けいたします。

Vn三田村忠芳 真紀子


瀬戸川先生はどても頑張り屋さんで根気強い方です。大変な病魔と戦いながらも最後までプロのコントラバス奏者として現役を貫き通されました。未熟者の私を根気よくこの緑弦楽合奏団にとどめて下さいました。
いつの間にかアンサンプルのレバートリーがたくさんになっていました。それもとても美しい曲ばかり・・・・。
これらは私の恩い出深い貫重な心の宝物となりました。先生がよくおっしゃっていた「美しく、良い音楽」を弾いていると感動で心が一杯になつて涙が溢れそうになります。
いつかのあの時の先生と同じ様に・・・・・。
瀬戸川先生長い問本当にお疲れ様でした。そして、本当にありがとうごさいました。

Vn森島さと子


指揮棒1本だけで音楽の総てができあがると思ってはいけないよ。その人の全人格、人生の深みと音楽を心から愛することができなければ音楽を指揮することなど到底できないのたから。。”指揮音は歌を持っていないと、そしてソリストは音を持つていないと。。”うんあれは本当に美味いんだ。今度喰わせてやるからな。。”どうだ?それはうまいだろう。今度作り方教えてやるからな。。”そのテンホじや速すぎる。もっと遅くやらなきゃ。。”ちょっと指揮棒貸してごらん。いいか?こうやるんだぞ。。‘やはり私にとって先生は間連いなく師であり父でもありました。
そして昨年12月6日演奏会打ち上げの席で、来年春先の早いうちに皆と又演奏会をやろう。少し練習を休むと思うけど、その時は立石君頼んだよ。−−−−−
先生練習は引き受けましたが、本番まで引き受けるとは約束しませんでしたよ。これからも遠いところからいつまでも我々に指揮をして下さい。先生ありがとうごさいました。

指揮Vn立石洋介


シェーネ ジーレ
中島省三〈在鹿児島)

先生と私との出会いは32年前のN響の鹿児島公演の時でした。演奏が終わって,舞台袖に行きますと、先生がちょうど楽器を大きなハードケースに仕舞われたところでした。他の団員の方はほとんどいらっしゃらなくて、先生だけがいらっしゃいました。おそるおそる「すいませんが、コントラバスを教えていただけないでしょうか。」とたずねました。すると先生は「ちょうど今楽器を仕舞ったところなので、手紙を書くように。」とパンフレットの後ろに住所を書いていただきました。
当時、鹿児島大学の2年に在学中でしたが、学生の図々しさで先生に鹿児島の状況を手紙に書きました。当時の鹿児島には楽器はあったのですが、誰もチューニングの方法も分からない状況でした。そうすると、数日後にシマンデルの教則本と,ペッツの松ヤニが2個(夏用、冬用)、ピラストロの弦が1セット送られてきました。それにはただただ感激しました。もちろん鹿児島には松ヤニも弦もない時代でした。
お会いした翌年に、品川のN響の練習場で基本から詳しく教えて頂きました。まさに私のコントラパス人生は先生にお会いしたときから始まったのです。
その後、手紙や電話でも気軽にレッスンをして頂き、有名な曲にはフインガリングとボウイングを付けていただきました。20曲以上になるかと思います。それ以来、電話やお手紙でレッスンをして頂きました。また,九州に仕事でいらっしゃる時は、必ずと言っていいほど、時間を取ってわざわさ鹿児鳥まで来て頂き、レッスンをして頂きました。本当にありがとうございました。
昨年3月には奥様と一緒に鹿児島を旅行されました。ご夫婦とゆっくりお話ができて素晴らしい時間を過ごすことが出来ました。
その後、先生の2度目の入院の時、病院から電話を頂きました。その時「僕はシェーネ ジーレ(美しい魂)を人生の信条としてきた。」とおっしやいました。先生の太く充実した生き様はシェーネ ジーレと共にあったと思います。音楽以外のことでも、先生と電話で話をしていると不思議と元気が出てきました。今となっては電話でお声を聞くことはできませんが、先生が残された手紙やテーブピデオなどで思い返しながら、また、先生愛用の楽器(カルロ・コルシー二)と共にシェーネ ジーレを胸に刻み込み、音楽とコントラバスを愛する人生を送りたいと思います。