音楽よもやま |
「〜曲名、『ダッタン人の踊り』ってダッタン人じゃない?〜」 Sept 2019 Okazaki Nobuo モーツアルトのKV.525は勿論『アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク』、ein(不定冠詞)klein小さな nacht夜 musik音楽で、英語では”A little night music"日本でもかつて『小夜曲』とも呼ばれたが、今はアイネ・クライネ・ナハト・ムジークが 定着している。☆マリナーのアイネクのLPレコード。ジャケットには ”A Little Night Music” ウエーバーの『舞踏への勧誘』ドイツ語:Aufforderung zum Tanz,英語:Invitation to the Dance は、可憐な小品にしては、その曲名が重いということで、「ダンスへのお誘い」いう軽いのもあったが、これは定着せず、精々で ”勧誘”を”招待”や”お誘い”に置き換え、『舞踏への招待』『舞踏へのお誘い』なども使われている。 ボロディンの『ダッタン人の踊り』、 最近、『ポロヴェツ人の踊り』との表記を目にする。なぜ?以下はイーゴリ公について記載されたサイトからの 参照です。 ============================= 韃靼人とポーロヴェツ人 日本では「だったん人の踊り(と合唱)」として定着した曲の本来の名称は「ポーロヴェツ人の踊り(と合唱)」です。 上述の物語の通り、劇中に登場するのはポーロヴェツ人というトルコ系の遊牧民族であり、物語の舞台は、いわゆる南ロシア、現在のウクライナ共和国、 時代は12世紀末のことです。 ポーロヴェツ人についての詳細は、『イーゴリ遠征物語』をご覧下さい。 一方、東洋史に登場する韃靼人は明朝以降の北方民族(モンゴル系、ツングース系)を指し、 地理的にも時代的にも、トルコ系のポーロヴェツ人とは異なる民族です。 それでは、なぜ、「ポーロヴェツ人の踊り」が「だったん人の踊り」に変えられたのでしょうか? 『イーゴリ公』の物語の約20年後にチンギス・ハンが遠いモンゴル高原を統一します。 1223年にはカフカスを越えてモンゴル軍が初めてルーシに襲来し、ルーシとポーロヴェツの連合軍は破れ、いわゆる「タタールのくびき」の時代が始まります。 このタタールという言葉はロシアでの東洋系の異教徒、異民族の総称で、特定の民族を指すものではありません。 トルコ系もモンゴル系もみなタタールであり、後の時代から見れば、トルコ系のポーロヴェツもタタールになってしまいます。 ここから先は推測ですが、「ポーロヴェツ人の踊り」を日本に紹介する際、馴染みのないポーロヴェツ人の説明にタタールという言葉が使われ、 更にそのタタールが韃靼(だったん)という漢字に置き換えられたのではないでしょうか。 ========================== いずれにせよ、慣れ親しんだ。『ダッタン人の踊り』を今更『ポロヴェツ人の踊り』と言われても、しっくりしませんね。 音楽01:”舞踏への勧誘 (部分) バラーシュ・ソコライ - Balazs Szokolay (ピアノ) ====== 音楽02:”ポロヴェツ人の踊り(だったん人の踊り)部分(N. ソコロフによる4手ピアノ編) デュオ・ヤーテーコク ====== |