日本対どこかのサッカー中継をテレビで見るのが好きじゃないのは司会者が、解説者が「日本が」「日本が」「日本が」ばっかりしか言わないからだ。画面から目を離してしばらく聞いてみるといい。いまどんな試合が展開されてるかなんててんで判りゃしないから。試合そのものを楽しみたい、という人が冷静に聞けば司会者はきっと公私の別も見えなくなるほどの日本代表ファンなのだ、ということだけがテレビから聞くことのできる唯一の情報と言って間違いなく、つまり司会も解説もここでは何の役にも立っていない。その贔屓の倒しぶりは公共の電波を使って行われる盛大なおのろけである。あなたは例えばいい歳こいたおっさんが場末の年増キャバクラ嬢について延々とのろけるのを聞きたいだろうか。そして、そういうのを実際に聞かされてしまうのがサッカー中継なのだ。アナウンサーが中山が、高原が、小笠原がと連呼する姿はまるで小学校の運動会で我が子の名を連呼する母親であり、その脇でシュートの切れの悪さや相手チームのDFの強さを指摘する解説者はさしずめ父親といったところ。ところでご両親、お子さんが出場された徒競走で一位になったのは何組の誰ちゃんですか?「強くなってきた」といつだって自賛されるチームが今日もあっさりパスを奪われ、ぼろくそにゴールを決められちゃったのはどうしてでしょうね?
日本の番組なんだから日本を応援して当然だ、という主張は正しくない。これはまずサッカーの試合だ。そしてサッカーは日本のために発明された競技ではない。そもそもスポーツとは専ら日本人が、日本人としてのアイデンティティの依り所を確認するために行われるものじゃないのだ。もちろん欧米圏には自国チームが負けると暴動起こしたりする連中がいることは知られているのだけれども、すべての欧米人がサッカーの試合ごとにフーリガンと化すはずはないし、日本人の司会者が日本が、日本の、日本に、日本を、と端から見れば日本チームヲタクにしか見えない偏狂を電波に乗せるとき、そこにあるのはスポーツの熱狂に扇動された一部欧米人の暴動行為よりはるかに陰湿な、その対象がサッカーであろうがたとえ戦争であろうが関係のない集団同一性に根差した自己陶酔だ。試合の流れより日本の方がそこで優先するとき、昂奮する司会者の絶叫からはチームプレイによってピッチに繰り広げられるダイナミスムのかわりにまるで大本営発表を読み上げるかのような全体主義的な熱狂しか伝わってこない。そして、他者が見えなくなるそんな隙をついてやすやすとボールは奪い取られていくように見える。もちろん日本代表陣の面子はそんなこと考えて球を追い掛け回しているわけじゃないけど、ブラウン管を通してテレビの向こうで放送を聞いている視聴者には、サッカーというのはそういうものだということしか伝わらないように思う。そしていつだって選手たちはスタジアムの芝の上に置き去りにされている。ジーコという人はつくづく忍耐強いと思う。それくらいねちこくなければサッカーなんて出来ないのだろうけど。
だったらそんなもの見なければいいのに、と言われるかもしれないが全くそのとおりである。もちろん、テレビがない身は普段はそういった中継とは無縁である。たまたま、立ち寄ったそば屋の店内で日本対アルゼンチンの前半終盤が放送中だっただけだし、そば屋の親父がそば茹でる手もおろそかに真剣に画面を眺めていたから勝手にチャンネルをいじることもできなかったとだけだ。相も変わらずボールのまわりにおだんごになってしまう日本代表チームを見ながら、こういうチーム相手ならアルゼンチンの監督は戦略立て易かっただろうな、と思っていた。抗日パルチザンに苦しめられた日中戦争もこんな戦い方だったのではなかろうかとふと想像してしまう。満鉄によって結ばれた点と線からなる支配、パスの連鎖からなる細い道筋。そしてその間を埋める広大なフィールドはいつだって敵陣営のものだ。相手ゴール前まで易々とボールを持っていかれてしまう度に玉砕していたのではいずれ体力的限界がくるのは明らかなのだ。太平洋戦争は実際、そうやって負けたのだから。実況中継という場で大本営発表しか続けることができない報道体質のもとで日本のサッカーはあと四年、保つんでしょうかね。