グスタフ・マーラー:交響曲第10番から第1楽章アダージョ


許 光俊

 井上喜惟はグスタフ・マーラー(1860−1911)を深く愛する指揮者である。マーラーを大事にするあまり、来るべき日が来るまでマーラー作品は演奏しないと公言し、「巨人」や「復活」が安売りされる趨勢に異を唱えてきた。
 そんな彼がとうとうというか、意外にも早く第6番を指揮したのは一昨年である。ベルティーニに私淑し、テンシュテットやバーンスタインの最上の演奏を知る彼はいかなる第6番を演奏したのか?それはいまだかつてないユニークな解釈だった。彼がめざしたのは、ベルティーニが奏でるような耽美的な歌でもなければ、テンシュテットが繰り広げるような凄惨な地獄絵図でもなく、なんとラヴェルのように透明でフレーズや音色がくっきりと浮かび上がったガラス細工のような、それでいてブルックナーのように各声部が同時に進行して重なり合っていくという第6番だったのである。その結果、マーラー特有と信じられている大げさなまでの劇的な葛藤や、生々しい感情の吐露は姿を消し、代わりに抑制された洗練された響きの神殿が現前したのだった。ジョージ・セルですら、こんな静謐なマーラーを演奏しようとはしなかった。部分的にはまるで武満のようではないかとも思われたが、むろん、たんなる感覚的美しさの追求に終始していたわけではなく、全体に何か「真夏の夜の夢」めいた虚無感が漂うのだった。
 推測するに、交響曲第10番第1楽章は、こうした井上の方法論がもっとも成功する音楽であろう。この作品は、1910年、最晩年のマーラーが完成を待たずして逝ったため、現在では第1楽章のみ、あるいは他の者が補筆完成させた全曲版が演奏される。しかし、いくら作曲家が遺した資料が存在するとはいっても、後者は事実上創作にも近いものであり、マーラーを大切なレパートリーとする指揮者たちの中には、これを認めない者も多い。
 アダージョと題されたこの楽章は、詠嘆調の息の長い旋律で開始される。この旋律は、マーラーが完成した最後の交響曲、第9番フィナーレから連続している雰囲気を持つ。その後、諧謔的な部分、回想的な部分といった、すでにマーラーの音楽に繰り返し登場しわれわれにおなじみになった諸要素が現れる。とはいえ、晩年の作品だけに皮肉や悲嘆はいくらか和らぎ、猛り狂ったかのような切迫感の代わりに、寛大な諦年が感じられる。
 冒頭に登場した主題は中程でいっそう感情を込めて何度も繰り返されるが、非常に印象的なのは、およそ2/3が経過したあたりで突然鳴り響く金管楽器のコラールである。このコラールはそれまでの音楽を断ち切るかのように響きわたり、他のすべてを制圧してしまう。短いがマーラーの遺した音楽の中でももっとも衝撃的な部分であろう。そして、やはり交響曲第9番曲尾のような、だが一層浄化されたかのような終結部に達する。マーラーにしては奇妙なほど穏やかに聞こえるが、このあと、彼は酷薄な音楽を続けようとしていたのである。その真意はなんだったのだろうか。作曲者はわらわれに大きな謎を遺して死んでいったのである。

(*本稿は第2回定期演奏会パンフレットに掲載されたものです。禁無断転載)

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