■与太話のような前置き
■付け足しのようは曲目解説
●[第1部]第1楽章(葬送行進曲:正確な歩みで、厳格に、葬列のように)
●[第1部]第2楽章(嵐のように激動して、より大きな激しさで)
●[第2部]第3楽章(スケルツォ:力強く、早すぎずに)
●[第3部]第4楽章(アダージェット:非常にゆっくりと)
●[第3部]第5楽章(ロンド・フィナーレ:アレグロ)
今年の5月30日、足掛5年に及んだマーラーの権威ガリー・ベルティーニ指揮による東京都交響楽団のマーラー交響曲全曲演奏シリーズが、第9番をもって終了し、同時に彼の都響音楽監督としての活動にも終止符が打たれました。その演奏会場は、奇しくも本日の演奏会とおなじこの横浜みなとみらい大ホール。事実上のベルティーニ音楽監督退任公演とはいえ、チケットは早々に完売。終演後の会場は怒号のようなブラボーと拍手の渦に包まれたのでした。
マーラーという作曲家の交響曲は、なぜか日本で絶大な人気を誇っています。交響曲第1番「巨人」や本日演奏される第5番など、独唱や特殊楽器の入らない、彼の作品としては比較的シンプルな曲はもちろんのこと、非常に大規模な楽器編成や合唱団を要する第2番「復活」とか第3番といった90分から100分を超える大作さえも、日本の国内オーケストラのプログラムにはしばしば上ります。ハイドンやモーツァルトの交響曲が取り上げられるよりも、むしろ頻度が高いと言って良いほどの印象さえあるのですが、一体、どうしてマーラーはそんなに人気があるのでしょう。
著しく改良された現代楽器を備えたオーケストラと常にエンターテインメント性を求められる現代の指揮者がその音楽性と名人芸を披露するためには、もはやベートーヴェンやブラームスではなくマーラーを演奏するしかないことが明らかになってしまった、という趣旨の解釈が村井翔氏の「作曲家◎人と作品マーラー」(音楽之友社)に紹介されています。もちろん、これは一つの比喩であって、ベートーヴェンやブラームスでも、すぐれた指揮者にかかればとてつもなく斬新な名演が生まれることは、もしもチェリビダッケやギュンター・ヴァントの指揮する生の演奏会をかつて一度でも聴いたことがある方なら、何の異論も挟まれることはないでしょう。
ただし、フル・オーケストラの大音響や連続する高難度のパッセージに魅せられて、マーラーに果敢に挑戦する傾向というのは、今や、むしろアマチュア・オケにそのままあてはまる現象だということは確かなことかもしれません。今月上旬には、わずか4回のリハーサルでマーラーの交響曲第9番を演奏したアマチュア・オケもあったと聞きます。マーラーが生きていたら、まさに驚天動地の思いだったことでしょう。
いや他人事ではありません。我々のオーケストラも、まさにそのマーラーを演奏するために創られました。10年以上かけて交響曲その他の作品を全部演奏する遠大な計画の本日はまだたった3回目です。かつて、指揮者のレナード・バーンスタインが「交響曲はマーラーで終わった」と語った意味を改めてかみ締めながら、交響曲史の頂点に上り詰めたマーラーが交響曲第5番の楽譜に書き込んだそのすべての思いのたけを本日、渾身の力をもってご披露させていただきたいと思います。
グスタフ・マーラー(1860年生〜1911年没、ボヘミア−現在のチェコ共和国−の生まれだが、活動の大半はウィーンであったため、一般的にはオーストリアの作曲家として通っている)は、生涯で9曲の交響曲(「大地の歌」を除く)を完成させましたが、42歳のときに作曲された交響曲第5番は、独唱も合唱も伴わない純粋な器楽交響曲としての要素(ソリストや合唱団の調達が不要という演奏のしやすさ)も手伝い、交響曲第1番「巨人」と並んで演奏頻度の非常に高い、マーラー中期の代表作です。初めて聴くという方でも、第4楽章「アダージェット」をお聴きになれば、ああこの曲かと思わず納得されるはずです。三部構成全5楽章で、今日の演奏時間は約80分を予定しています。ちなみにこの曲の作曲中にマーラーはアルマと結婚しています。
トランペットの葬送を告げるファンファーレで始まり、中間部までは一貫して沈痛な旋律に支配されます。その後の第1中間部は突然のような激情の嵐。やがて訪れるユダヤ人大虐殺の予見がここにあるとする哲学者アドルノの言葉もあるほどです。最後は、暴徒のファンファーレがフルートで悲しげに奏でられ、葬送は終結します。
静寂の後の大嵐。怒涛のようなオーケストラの咆哮が一段落すると、木管楽器の刻む打音的なリズムの奥に第1楽章第2中間部で現れた主題が哀愁を帯びたチェロによって再現されます。楽章の後半では全曲の終わりを感じさせるニ長調の明るいコラールが登場しますが、それもつかの間、再度の嵐の中に光は消し飛んでしまいます。
ウィンナ・ワルツのオマージュとも言うべき、どことなく田舎風の長大なスケルツォです。この楽章では、オブリガート・ホルンと指定されたソロ・ホルンが全編妙技を聴かせる協奏曲的な要素も見逃せません。
映画監督ヴィスコンティの名作「ベニスに死す」で使われたこの楽章が、まさにこの曲の運命を変えたと言ってもいいかもしれません。弦楽器とハープのみで演奏されるマーラー畢竟の美しさに満ちた12分間です。
官能の第4楽章から一転、どこかいたずらっぽい音楽の遊びで開始される最終楽章ですが、主部に入るとバッハ風のフーガ、二重フーガ、三重フーガに際限なく増え続ける対位旋律と、モーツァルトの「ジュピター」交響曲第4楽章を4次元的に拡大したようなパッセージの輪廻状態となります。そして、金管による壮大なコラールの頂点が今度こそ明快なニ長調で築かれた後、狂気のような速度で一挙にフィナーレになだれこんでいくのです。
(*本稿は第3回定期演奏会パンフレットに掲載されたものです。禁無断転載)
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