(1)作曲の経緯
現在では、クラシック音楽定番の人気曲となっているマーラーの交響曲第1番《巨人》もまた、数々の変遷を経て現在のような形に至っています。
この曲の原型をマーラーが作曲し終わったのは1888年のことで、ブダペストで自身が指揮して初演したのが1889年11月。しかし、このときは2部5楽章からなる「交響詩」というのがこの曲に与えられた形式でした。初演は大失敗。次の2稿に当たるのがいわゆる1893年のハンブルグ稿。2〜5楽章に手が加えられましたが形式はやはり「交響詩」。実は《巨人》という副題が付されたのは、この稿が演奏された2回だけなので、現在の曲を《巨人》と呼ぶのは、実は作曲者の意に反しています。
この後、1896年にベルリンで初めて4楽章の交響曲(「花の章」を削除)として演奏された第3稿、1906年に出版された総譜(修正第3稿)と続いて、1967年にマーラー協会全集版として出版された楽譜が、今日われわれの聴く《巨人》の全体像となります。
ただし、マーラーは、生涯を通じて、演奏のたびに譜面に細かな修正を加えていったので、《巨人》を若書の習作的な作品と単純に位置づけるとするとそれは大きな間違いです。後の交響曲第9番にも匹敵するような深遠な情感や感性に満ちた箇所が第4楽章などには明らかに見て取れるので、その点を軽視したアプローチによる演奏は、マーラーがこの作品に何度も何度も手を入れた真意を見誤ってしまうものと言っても過言ではないでしょう。
(2)本日演奏する総譜
国際マーラー協会全集版のスコア(Universal Edition UE13820)(Verbesserte Ausgabe改訂版・1992年刊)を使用します。なお、同協会刊行の旧版(1967年刊)との異同については、前述の金子建志著『マーラーの交響曲』(音楽之友社・1994、pp.40-52)をご参照下さい。
(3)楽章毎の解説(特に《さすらう若人の歌》等の初期歌曲との関係に注意して)
第1楽章:ゆっくりと、ひきずるように、自然の響きのように-常にきわめてゆっくりと
序盤部分は、弦楽器のフラジオレットや木管楽器の静かな下降音型、クラリネットや舞台裏のトランペットによるファンファーレ等々、いわば不安定な断片素材が漠とした輪郭の中に連続的に登場するという、極めて捉えどころのない音楽になっています。冒頭の響きは、後の前衛音楽におけるトーン・クラスターの先駆けという分析まであるほどですが、それだけに、正確な音程やリズム感・音色感がないと混沌のまま終わってしまう可能性があるので、演奏者側にとっては非常に緊張を強いられる数分感です。
しかし、チェロによる第1主題が62小節目から始まると、明快で分かりやすい曲想となります。それもそのはず、この主題は歌曲集《さすらう若人の歌》の第2曲そのもので、誰でも口ずさみたくなるような明るいメロディだからです。曲は、展開部・再現部と続いて、一応ソナタ形式のような形をとってはいますが、重要な第2主題というべきものもなく、4度下降の動機と第1主題が自在に展開するマーラー独自の様式と考えることもできます。
第2楽章:力強い動きで、しかしあまり速過ぎないように-トリオ まさにゆったりと
全体に活力が満ち溢れた三部形式のレントラー舞曲。8小節目から木管楽器によって奏される第1主題は、歌曲集《若き日の歌》の第3曲「ハンスとグレーテ」からの転用ですが、この曲の原曲は、マーラーが20歳のときにイーグラウ(現在のスロヴァキア共和国領)の郵便局長の娘ヨゼフィーヌ・ボイスルに捧げた歌曲「草原の5月の踊り」で、しかも彼女はマーラーの初恋の相手だったとも言われていますので、まさに青春の思い出が込められた楽章とも言えます。中間部はゆっくりしたウィンナ・ワルツで、シューベルトへのオマージュと見る評者もいます。
第3楽章:厳粛かつ荘重に、ひきずることなく
非常に独創的な発送による「葬送行進曲」。ティンパニの刻むリズムに乗ってコントラバスに現れる特徴的な旋律は、当時誰でも知っていた俗謡の「マルティン兄ちゃん」から採られています。この部分は、コントラバスの首席奏者に超絶技巧を求めるソロ演奏最難関箇所として有名ですが、本日使用する1992年改訂版では、このソロは「グループで弾く」との新しい指示が付されています。その学問的評価にはここでは触れませんが、この指示にも関わらず、現在でも、従来通りソロ奏者1人に演奏させる例の方が多数派かもしれません。ちなみに本日の演奏会では、譜面の趣旨を尊重し、コントラバス奏者4名のユニゾンにより演奏される予定です。なお、やや明るい楽調に変わる中間部で登場する旋律は、《さすらう若人の歌》第4曲からの転用です。
第4楽章:嵐のように激動して
激烈な全強奏の助奏部、ミリタリー・マーチといわれる第1主題、一転して陶酔的で朗々とした第2主題など様々な要素を取り込みながら、自由で大胆な形式を取って長大な楽章を展開していきます。指揮者のチェリビダッケは「マーラーには始まりはあるが終わりはない」として一連の交響曲(特に終楽章)を常に批判し、生涯に一度も演奏することがありませんでした(例外的にマーラーを演奏したのは、歌詞に意味があるとした《亡き子をしのぶ歌》のみ)が、ブルックナーの重層的な様式感とまるで対極にあるようなマーラーの自由奔放な情熱のほとばしりが、交響曲の枠を飛び越えた共感を逆に呼んでいるということもできるかもしれません。
お薦めCD・DVD
《巨人》のCDは膨大にありますが、必ずしもマーラーが得意ではないのに有名曲なので録音した(あるいは録音させられた)著名指揮者の演奏もたくさんあるので要注意です。一応、ベルティーニ、インバル、テンシュテット、ギーレン、バーンスタイン、ワルターといったいわゆるマーラーに一家言を持つ指揮者たちの演奏を選べば、それぞれ違った聴かせどころを持っているので、聴き比べたときの面白さは確かにありますが、全曲を通して「いやはや参りました」というほどの名演奏にはなかなか出会えないのも《巨人》という曲の不思議なところです。
ここでは、骨太でスケールの大きな演奏としてコンドラシン生涯最後の演奏(CD)と、映像としても大変面白いテンシュテットのライブDVDを参考として挙げておきましょう(もちろん、決定版というわけではありません)。
●[CD]キリル・コンドラシン指揮ハンブルク北ドイツ放送交響楽団(輸入盤:EMI5628562)
●[DVD]クラウス・テンシュテット指揮シカゴ交響楽団(輸入盤:EMI3677439)
(*本稿は第5回定期演奏会パンフレットに掲載されたものです。禁無断転載)
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