マーラー:交響曲 第6番 イ短調「悲劇的」

(演奏時間:約90分)

I.作曲の経緯−全交響曲中の位置づけ
 グスタフ・マーラー(1860-1911)が生涯に完成させた交響曲は、番号付きが9曲、それに、大規模な交響的歌曲集ともいうべき「大地の歌」と、未完成ながらデリック・クックの補訂完成版で有名な交響曲第10番、の2曲を加えると全部で11曲となります。第6番はまさにその真ん中の作品に当たるわけです。
 マーラー研究者の中には、この第6番が彼の創作力のひとつの頂点と考える者も少なくありませんが、それは波乱万丈であったマーラーの生涯のうち、この交響曲が完成された1905年は、まさに彼にとって幸福の絶頂期であったこととも無関係ではないかもしれません。 1897年にウィーン宮廷歌劇場の音楽監督のポストを得たマーラーは、1902年3月にアルマと結婚。同年11月には長女マリア、翌6月には次女アンナが生まれる平穏で幸福な時期にこの交響曲の作曲は行われています。
 それなのに、マーラーがなぜ「悲劇的」なテーマにこだわったのか、はたまたこの曲になぜ「悲劇的」という呼称が付いたのか、その理由は実はよく分かっていません。 初演以来3回目の演奏となった1907年1月のウィーン初演の際には、配布されたパンフレットに「悲劇的」の文字があったということですが、出版されたいずれの版のスコアにも「悲劇的」という名称は印刷されていないのです。 実はこの後1907年には、マーラーの身には本当に3回の運命の打撃が襲ってしまいます。まずはウィーン宮廷歌劇場からの解雇、次には長女マリアの急死、そして最後にマーラー自身の心臓疾患の発病。 この交響曲が未来予知的な、あるいは運命論的な作品として論じられる所以は、まさにこうした実生活での不幸への急落が一つの暗示となっていることは間違いありません。

II.交響曲第6番「悲劇的」特有の問題点2題
(1)「アンダンテ楽章」と「スケルツォ楽章」の順序
 マーラーは、第2楽章と第3楽章の順序を、(1)エッセン世界初演(1906年5月27日):アンダンテ→スケルツォ、(2)ミュンヘン初演(1906年11月8日):アンダンテ→スケルツォ、(3)ウィーン初演(1907年1月4日):スケルツォ→アンダンテ、と順序を変えて演奏しており(マーラー自身の指揮はこの3回のみ)、これらの事実を踏まえ、1963年に刊行されたマーラー協会による全集版の総譜でもこの順序は、スケルツォ→アンダンテとされていました。 ところが、2003年10月に、マーラー協会は、エッセンでの世界初演でのマーラーの選択を重視し、アンダンテ→スケルツォが正しい演奏順序であると公式見解を発表し、総譜にもその旨の注意書きを挟み込むという修正を施したという経緯があります。 本日はこの修正見解に即したアンダンテ→スケルツォの順序で演奏を行いますが、この解釈を採ることにより、第1楽章から第3楽章までの連関が自然となり、第4楽章での悲劇の爆発との対比が一層明瞭な構成となるのではないかと考えられます。皆様のご感想はいかがでしょうか。
(2)ハンマーの打音回数
 第4楽章で振り下ろされるハンマーの回数については、マーラーは最大5回の想定を行っていましたが、やがて悲劇的な英雄という「シンボル的」な意味を持たせた1・4・5回目を順次カットしていき、新たな事件発生の契機を示す2・3回目の2回を残します。 しかし、初演においてはハンマーは3回(3回目は当初の5回目に当たる個所)叩かれたことを推定させる記録もあり、以来、ハンマーを2回叩かせるか3回叩かせるか、指揮者によってその解釈が分かれる事態となりました。さて、本日の演奏会では何回かご注目下さい。

III.楽章毎の解説 −本日の聴きどころを中心に−
第1楽章:アレグロ・エネルジコ・マ・ノン・トロッポ 激しく、だが腰のすわったテンポで
 典型的なソナタ形式を踏襲した楽章ですが、まず曲頭の低弦が刻む行進曲風のリズムに注目して下さい。この曲をすでにCDや実演で聴かれた方にとってはおそらく愕然とするテンポで始まることと思います。 しかし、これは決して演奏の誤りではありませんし、スタンドプレー的な小細工でもありません。 楽譜の指示を丹念に正確に読みこんで、マーラーの意図を再現する。 その結果としての指揮者の確信の一つがここにあり、まさに世に溢れるマーラー演奏の「常識」に捉われない「真実」への模索が我々のオーケストラの確固たる課題でもあります。
 曲は、死への行進曲をイメージする戦闘的な第1主題から、やがて「アルマの主題」と呼ばれる歌謡的な第2主題に移行しますが、注意深くと聴くと、第2主題の中にも行進曲のリズムが入り込んでいることが分かります。 不気味な死のイメージを唯一払拭するのは展開部後半のチェレスタとカウベルによるのどかな牧歌的部分。 しかし、曲は終盤再び悲劇性を取り戻し、安らぎを得ることなく楽章を閉じることとなります。

第2楽章:アンダンテ・モデラート
 第1楽章の展開部で幻影のように見えていたのどかな平和が一時現実のものとなる、「仮の安らぎ」の楽章と考えることができます。 2つの主題の変奏の間に3回の挿入部が挟まれるという、マーラーの特徴的な作曲技法でもある複変奏曲的な構成で書かれています。 「亡き子をしのぶ歌」の第3曲「お前の母さんが戸口から入ってくるたびに」との関係も指摘され、牧歌的な雰囲気の中に子守歌や祈りを思わせる旋律が入り混じる楽章です。

第3楽章:スケルツォ重みを持って
 スケルツォといっても、「軽快さ」や「陽気さ」とは全く様相を異にした重圧感のある楽章です。 主部は、まるで工場の機械の歯車が、重く軋んでいやいや回転しているような重い曲想が続くのに対し、中間部で八分の三拍子と八分の四拍子が複雑に交錯する部分では「よちよち歩きの子ども」の姿を表現したものとマーラーの妻アルマは回顧しています。 しかし、これに続く「この幼児的な世界もやがて怪奇的な動機に乗っ取られ、子どもたちの声も最後には小さなすすり泣きとなって消えてゆく」というマーラーの実生活を暗示する分析に至ると、これがマーラー自身の作曲意図と本当に合致していたのかどうかについては、懐疑的な見方の方が主流のようです。

第4楽章:アレグロ・モデラート−アレグロ・ エネルジコ
 この楽章だけで演奏時間30分以上を要する壮大な楽章ですが、序盤のコラール風の主題を経てまたもや戦闘的な行進曲に突入し、その後テンポを落としてカウベルや鐘が鳴る静かな部分の後に再び盛り上がりの絶頂に達したところで第1のハンマーが振り下ろされる。 そして、このハンマー直後に混乱した楽想が再び秩序感を取り戻して大きな収束に向かうかと思われたところで第2のハンマーが叩かれる。 平穏と安定をいくら目指しても運命の一撃が世界を悲劇の場へと連れ戻す。 そんな劇的ドラマをこの楽章では是非お楽しみになって下さい。

IV.〈資料〉第4楽章のハンマーをめぐる故ガリー・ベルティーニ氏と金子建志氏との対談(一部引用)
〔注:ガリー・ベルティーニは、当団の音楽監督である井上喜惟の師事した指揮者でもあります〕
B(ベルティーニ) 私自身は、この音について2つのイメージを持っています。一つはギロチン、もう一つは原爆。妙な取り合わせですが、2つに共通するのは、最終的なもの、非常に頑強なもの、一瞬で、何の余韻も持たないものであることです。
K(金子建志) 1度目のハンマーがギロチン、2度目が原爆ということですか?
いいえ、ハンマーから2通りのイメージを受けるという意味です。ギロチンというのは正に最終的な手段であり、一瞬にしてその刃が落とされた後は何も残りません。 そして、更に想像してみて下さい。もしもフランス革命時の十万倍のギロチンがあったとしたら ……そして我々の「世界」の首を斬ってしまうとしたら ……そういった意味で、私はギロチンというイメージを持っています。 原爆というのも、同じ発想から来るものなのです。
我々の世界を一瞬にして破壊してしまうもの、ということですね。
正にその通りです。2つに共通な「終焉」という事が言いたいのです。 ギロチンは一人の人間の命を一瞬にして断ち、原爆は人類という「存在」の首を斬る事によってこの地球までも破壊してしまう。 スコアをよくご存じでしょうが、2回目のハンマーの後には叫び声のようなパッセージがあり、1回目の方は、何かが爆発したように新しいテンポに切り替わるポイントになっています。
ギロチンなら〈幻想〉の4楽章《断頭台への行進》の終わりも……
聴いた感じは良く似たイメージですが、根本的な違いがある。 ベルリオーズが、個人的な悲劇に結びついてああいう音楽になったのに対し、マーラーの場合は、全人類の運命に関わる悲劇という視点からあのような音楽が生まれたのです。
(原典:『レコード芸術』音楽之友社・1991年4月号)

(曽雌裕一/オーボエ)

(*本稿は第7回定期演奏会パンフレットに掲載されたものです。禁無断転載)

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