初めてマーラーの第9交響曲に出会ったのはいつ頃だっただろう。 初めて聞いた演奏はバーンスタイン指揮の録音だったか・・・。 1975年のクーベリック指揮バイエルン放送交響楽団の来日演奏は記憶に残っている。 しかし、本当にこの作品と出会ったと言えるのはウィーンに留学してからだろう。
初めて借りた、古めかしいウィーンのアパート。 スーツケースの荷物以外、ほとんど何も持ち合わせていない最初の日、 古ぼけた木製のクローゼットの棚に何とマーラーの交響曲第9番の指揮者用大型スコアがあるではないか! だれかこの部屋に住んでいた指揮者がいたのだろうか?この時の驚きと喜びは今でも言葉で言い表せない。 翌日、早速中古のLPプレーヤーを買い、長らく聞きたいと思っていたワルター指揮ウィーンフィルのLPも購入した。 その日から、何日もワルターの録音を聞きながら貪るように第9のスコアを懸命に読んだのを今でもよく覚えている。
バーンスタイン指揮ベルリン・フィルの生放送にラジオの前で衝撃を受け、その後、多くのマエストロたちの洗礼を受けてきた。 でもやはりこの作品は私の中では師匠のベルティーニとはどうしても切り離すことができない。 彼の指揮する第9の演奏はケルン、シュトゥットガルト、ウィーンを含め様々なオーケストラで数え切れないほど接してきた。 しかし、最も強烈な印象が残る演奏は、1988年ケルン放送交響楽団との初来日公演の際、 大阪国際フェスティバルホールで行なわれたものだろう。 聴衆を含めて完全に何かに取り憑かれたような演奏で、最後の音が消えてからの余韻の長さは未来永劫続くのではと思われた。 私自身、まったく拍手をすることも忘れ、終演後しばらく座席から立ち上がることすらできなかった。 その後、楽屋のマエストロを訪ねたのだが夫人が、「今、部屋には入れないわよ!」と。 部屋の扉を少し開いて中の様子を見てみると、マエストロは完全にトランス状態になっていて、 誰も近寄って声をかけるような雰囲気でないことはすぐ理解できた。 その後、小一時間ほどして、ようやく楽屋の扉が開いた。 そこには満面の笑みを湛えたいつものマエストロの姿が。 あの一時間、いったいマエストロは何を考え、感じていたのだろうか・・・・。 いわば、あの日起きた事は何か奇跡的な瞬間だったと今でも思っている。
マーラーの第9はどうして、ここまで人を惹きつけ、魅了し、深い感動を与えるのだろうか。 今まで、作曲家のベルク、シェーンベルクを含めたマーラーの信奉者たち、研究家、 そして指揮者たちがこの作品について様々な意見を残している。 「生への告別」、「白鳥の歌」、「交響的な葬送歌」。指揮者のメンゲルベルクはこんなメモを残しているそうだ。 「彼が愛したすべてのものへの、そして世界への告別である ・・・第1楽章「彼が愛した者たちへの告別(妻と子供への)−(最も深い)悲哀!」、 第2楽章「死の舞踏」(お前は墓に入らねばならない!)お前が生きていることによって、お前が滅びる、恐るべきユーモア!、 第3楽章 絞首台のユーモア(引かれ者の小唄)・・・労働、創作、すべては死を免れようとするむなしい努力!!、 第4楽章 マーラーの命の歌・・・彼は感じ、そして歌う、「さらば」「わが弦のつまびきよ」。(*1)
しかし、おそらく第9の構想を練っていた時期と思われる1909年初頭、 ニューヨークに滞在中のマーラーがワルターに送った書簡の中に、よりこの作品を理解する手立てとなると思われるものがある。 『私はかくも活動のさなかにあるから、突如新たな肉体を得たと気づいてもなんら不思議に思わないかもしれません (さながら最終場面でのファウストのように)。 今までになく生きることに飢え、「この世に生きているという当たり前のこと」が、かつてなく甘美なものに思われてきます。 こうして生きている日々は、「シビュラの書」(*2)のようです。日ごと自分の重みが減っていくのに気がつきます。(中略)
いったい我々の心の中では何が考えているのでしょうか?何が行っているのか?
妙です!音楽を聴いていると・・・指揮している最中でも・・・しばしば私のこの問いかけに対する返答が聞こえてくるのです・・・ すると、何から何まではっきりと確実にわかってくるのです。 あるいはそもそも、それがなんら問題とするに当たらないものであることが、はっきり感得されるのです。』(*3)
今日、2012年6月24日は交響曲第9番がマーラーの愛弟子ブルーノ・ワルター指揮ウィーン・フィルにより初演されてから (初演は6月26日)ほぼ100年目に当たる。
本来、昨年7月に予定していた演奏会は3月11日の大震災によって崩壊したミューザ川崎シンフォニーホールから会場も変更し、 本日に延期されていた。メンバーも私も今日を迎えられるのを心待ちにしていた。 私はこの作品には人智を超える不思議な力が宿っていると思ってる。 様々な思いをこめて、メンバー全員ステージに上がることだろう。 私自身もこの作品と正面から向き合い、皆さんと一緒にこの作品の素晴らしさを体験できればと願っている。
(*1) アルフォンス・ジルバーマン著/山我哲雄訳「マーラー事典」(岩波書店)より
(*2) 「シビュラの書」シビュラ(巫女)の神託をまとめたとされる古代ギリシアの六脚韻の詩集。
「シビュラの書」は、疫病・戦争といった困難や、落雷などの凶兆に際して参照された。(Wikipedia より)
(*3) マーラー書簡集(ヘルタ・ブラウコップ編/須永恒雄訳/法政大学出版局)より
(1)「第9」を巡る都市伝説
ベートーヴェンの完成させた交響曲が9曲で、しかも「第9」として知られる生涯最後の交響曲第9番「合唱」が、ご存じのような音楽史上革命的な音楽であったこととも相まって、9曲目の交響曲を完成させると、それが人生最後の交響曲となる…つまりは「交響曲第9番の完成」=「死の告知」ともいうべき運命的な恐怖に多くの作曲家が怯えていた、という音楽史上の「都市伝説」は、はたして信じるに値する事実なのでしょうか。
確かに、偶然なのか運命なのか、交響曲を9曲しか作ることのできなかった有名作曲家には、ベートーヴェンの他に、シューベルト、ドヴォルザーク、ブルックナーなど挙げることはできます。しかし、シューベルトやブルックナーには「未完成」でありながら1曲と数える作品も含まれていますし、ドヴォルザークに至っては、生存中最初の4曲は出版されずに番号すら与えられていなかったという事実もあります。また、生涯4曲の交響曲しか作曲しなかったブラームスや6曲(番号なしの作品を含めると7曲)の交響曲しかないチャイコフスキーなどは、そもそも「第9」の恐怖に怯える段階に達してもいなかったことになります。そんな中で、マーラーの交響曲第9番も「死」という言葉とともに語られる場面が過去にあまた存在してきました。しかし、これは作曲家自身の真実の心の叫びなのでしょうか。マーラーは本当に「死」や「彼岸の世界」をこの交響曲の中に自ら見いだしていたのでしょうか。いくつかの視点から、この曲を聴くのに参考となりそうなポイントを再検討してみましょう。
(2)作曲していた頃のマーラー
マーラー(1860〜1911)が交響曲第9番の作曲をほぼ完成させたのは1909年の夏休みでした。1909年というのは、マーラーがそれまで30年ほどもずっと関わり続けてきたオペラ指揮者としての仕事から完全に解放され、次のシーズンからニューヨーク・フィルの指揮者へ転じる重要な節目の年でした。オペラ指揮者からコンサート指揮者への変化は、その後のニューヨーク・フィルとの精力的な活動を見るにつけ、マーラーにとっても期待に胸躍らされる出来事だったことが十分予想できます。熱狂的なマーラー・ファンの方も、マーラーの指揮者としての生活は意外に見落としがちではないかと思いますが、マーラーが生涯に指揮したオペラ公演は、少なくとも2,025回に上ることをご存じでしょうか。マーラーは作曲家として以上に、当時大活躍していたオペラ指揮者であったのです。その一大業績をとりあえず卒業し、次なるコンサート指揮者としての本格デビューを前にした1909年の夏は、マーラーにとって最も平穏な夏休みであったと考えられます。そんなマーラーの精神状態が「自分の死と向き合いつつ」とか「死の恐怖と戦いながら」といった境地とよほど遠いところにあったという分析は、最近のマーラー研究でもしばしば論じられているところです。
(3)当時の有名人によるマーラーの交響曲第9番評
上記の傍証として、マーラーの交響曲第9番を「死の恐怖」とともに重ねて解釈することへの疑問を表した当時の有名人の分析を2つ挙げてみましょう。まず、アドルノの言葉。
「マーラーの第9番に押し付けられた、ばかばかしくてものものしいだけの、『死が私に語ること』などという言葉は、第3番が話題にされる時に、花々や動物たちが挙げられること(中略)に比べると、大変にひどいものであって、真実を著しく歪めてしまうものである。」また、シェーンベルクは、プラハで行ったマーラー追悼講演において「彼の第9はきわめて異様です。そこでは作者は、もはや個人としては語っていません。この作品にはマーラーを単なるスポークスマン、代弁者として利用している隠れた作者がいるに違いない。作品を支えているのは、もはや一人称的なトーンではありません。この作品がもたらすのは、動物的な温もりを断念することができ、精神的な冷気の中で快感を覚える人間にしか見られないような種類の、美についてのいわば客観的な、ほとんど情熱を欠いた証言です。」
と評しています。マーラー自身が「死の恐怖」に怯えていたとすれば、こうした客観性・冷徹性なる世界には達していなかったはずだという解釈に繋がる分析です。
(4)本日の聴衆の皆様へ
マーラーの交響曲第9番をめぐって作曲者自身が「死の恐怖」に取り付かれていたという事実は、かくのごとく資料的に証明されるものではないというのが今日大勢を占める分析です。しかし、演奏する側がこの曲をどう捉えて、どう表現するか、あるいは聴く側がこの曲に何を求めて、何を感じるか、これは資料分析と全く別の問題であることは言うを待ちません。本日の演奏に「死との凄惨な葛藤」を聴くも「終息を知らぬ爛熟の美」を感じるも、ご自由です。本日の指揮者の師ガリー・ベルティーニのマーラー交響曲第9番の実演は、それはそれは想像を絶する感動的なものでした。本日の演奏会でも、必ずや「常軌を逸した」何かが会場に舞い降りてくることをご一緒に待ち望みましょう。
(5)楽章毎の解説
第1楽章:アンダンテ・コーモド
拡大されたソナタ形式と見ることもできますが、もはや定型的な形式原理に当てはめることは難しい楽章です。冒頭、バーンスタインが心臓の不整脈になぞらえたチェロとホルンの応答動機がこの楽章の重要な鍵となるリズム主題です。続いてハープが奏でる単音の動機は、ワーグナーの「パルジファル」に由来するものと言われています。マーラーがワーグナーの作品から引用を行うパターンは第2番「復活」や第7番の曲目解説でも言及したところです。6小節目から第2ヴァイオリンが奏し始める第1主題は、前作「大地の歌」の第6楽章「告別」で《永遠に》と歌われる部分の音型を再び用いたもの。この後第1ヴァイオリンに第2主題、金管が加わった第3主題、ヴァイオリンと木管による第4主題などが続き、クライマックスの後にマーラーの交響曲では「必須」の葬送行進曲風の場面を迎えます。この後しばらくしてニ長調に戻って再現部となりますが、ある解説書にある「この楽章にはもはや『再現部』はなく、あるのは『崩壊部』だけである」(村井翔「マーラー」)という指摘が的を射ています。にもかかわらず、マーラーの全交響曲の中でも最上の完成領域に達した芸術遺産ともいえる楽章であり、マーラーの交響曲に音楽的必然性を認めず生涯演奏することのなかった指揮者のチェリビダッケが、唯一、プログラムに載せようとした事実のある交響曲がこの9番であったことはまさにその象徴でもあります。
第2楽章(ゆったりとしたレントラーのテンポで。いくぶんぎこちなく大いに粗野に)
マーラーの全ての交響曲に必ず登場すると言っても過言ではない民謡性を備えた舞曲の楽章です。スケルツォに相当する楽章とも考えられます。構成的には、(1)冒頭9小節目から始まるハ長調の田舎風舞曲、(2)90小節目以降のホ長調による若干テンポを増したやや卑俗なワルツ、(3)218小節目に現れるテンポの遅い哀愁を帯びたヘ長調のレントラー舞曲、この3種類の舞曲が事実上ランダムに入れ替わりながら進行する手の込んだ構造になっています。二番目のワルツの終盤が、例によってマーラー特有のカオス(混乱)に陥ったり、各部の接合・転換が極めて唐突であったり、マーラーの交響曲を聴き慣れた方には「やはりね」と思わせる独特のいたずらっぽさがちりばめられています。
第3楽章:ロンド・ブルレスケ
第2楽章にスケルツォを配した場合、通常であれば第3楽章はアダージョ、第4楽章はテンポの速いフィナーレとなるべきところですが、この曲ではこの順序が逆です。このアイデアは、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」をヒントにしたものと言われています。全体を通して激しく駆り立てられるような曲想の連続ですが、352小節からトランペットで奏される静謐な主題が次の第4楽章の中心主題として扱われている、すなわち、この部分が第3・第4楽章の重要な橋渡しとなっていることには注目すべきです。
第4楽章:アダージョ
チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」第4楽章と同様に、この楽章が文字通り「死に絶える」ように終結することから、この曲と「死」すなわち「生との告別」の関連性が議論されてきたと思われますが、少なくとも、交響曲第3番終楽章のように楽章冒頭から安らぎに満ちた音楽が開始されるわけではありません。冒頭の主題はワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」との関連が指摘されているようにまだまだ生との葛藤を感じさせる要素が残っています。また、第1・第2楽章と比べてテンポ指示等がやや曖昧になっていることも指摘されるところですが、これは、反面、この終楽章をどのように表現するかはまさに指揮者の独壇場ともいえる結果をもたらしています。本日の演奏についてもどのような終息が音楽にもたらされるのか、誰にも予断はつきません。
(6)最後に
交響曲第9番が初演されたのは、マーラーの死後1912年6月26日、ウィーンにおけるブルーノ・ワルター指揮ウィーン・フィルの演奏によるものでした。すなわち、マーラー自身は、この曲が鳴り響く音を実際に聴くことができなかったわけです。マーラーは指揮者として自作を何度も演奏する機会があったわけですが、実際に鳴った音を聴いては、細かい修正を楽譜に加えていたと言われます。交響曲第9番についても、ニューヨーク・フィルの指揮者としての活動の合間にかなりの修正を施していたようですが、しかし、それらは実際の音を聴いた後の作業ではありませんでした。ですので、もしもマーラーがこの曲を実際に自分の耳で聴いていたら、あるいは今われわれが聴く曲とは何かしら違った変更が加えられた可能性がゼロではありません。ということは、マーラーの交響曲第9番は、未だ最終形を見せていない未完の大曲であるということもできることになります。マーラーが最終的に目指した交響曲第9番の姿はいかなるものだったのか、思いは尽きません。
(*本稿は第9回定期演奏会パンフレットに掲載されたものです。禁無断転載)
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