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楽譜係のおしゃべり

楽譜係のおしゃべり No.24(2000/10/23掲載分)

#♭♪ 優しさのテンポはアンダンテ ♪♭#

新保 邦明

■シチリアでの体験

列車のままフェリーに積まれてメッシーナ海峡を渡り、憧れのシチリア島に第一歩をしるしてから二日目。私たち夫婦は、まだ6月に入ったばかりだというのに真夏のような太陽が容赦なくギラギラと照りつけるシラクーサの町に降り立ちました。古代ギリシャ時代には、シチリア最強の都市であったシラクーサ。その無敵の軍事力を支えていたのは、浮力の発見で有名なアルキメデスが考案した数々の最新鋭兵器だったそうです。またこの町は、太宰治の短編「走れメロス」の舞台としてもよく知られています。

駅から出て、前日に予約したホテルへ直行しようと思ったのですが、いきなり道に迷ってしまいました。持っている地図が簡略すぎたせいか、持ち前の方向音痴が遺憾なく発揮されたせいか、どちらとも判定しがたいのですが、ぐるぐる回っているうちに人通りの少ない路地に迷い込んでしまい、自分たちがどこにいるのかさえ把握できなくなってしまったのです。こうなったら、助けを求めるしかありません。幸い、日傘をさしてゆっくりとベビーカーを押している女性が通りかかりましたので、勇気を出して尋ねてみることにしました。背が高く、優しいまなざしが印象的な若いお母さんでした。彼女はベビーカーを止めて、私のたどたどしいイタリア語を理解しようと、いやな顔ひとつせずに耳を傾けてくれました。最初はよく分からない様子でしたが、私がホテルのある通りの名前を言うと、

「ああ、それならわかった。行きましょう」

とにっこり笑い、何事もなかったかのようにまたベビーカーを押し始めました。前と同じようにのんびりとした調子で……。炎天下なので、バテないうちにホテルへ辿り着きたかったのですが、こうなってはしかたがありません。私たちは彼女のペースに合わせてぶらぶらと付いていきました。そうやって10分くらい歩いたでしょうか。やっと見覚えのある通りに出ましたので、あとは言葉で教えてもらおうと思いました。彼女だって行き先はあるはずだし、やりたいこともあるだろう。暑い中、いつまでも外国人の道案内をやっていて楽しいはずがない。それで、きっかけをつかもうと顔色をうかがったのですが、彼女の悠然とした態度がそれを静かに拒んでいるように感じられました。なおも歩きつづけること10分、ベビーカーを止めて満足そうな笑みを浮かべた彼女が、ようやく口を開きました。

「さあ、ここがあなたの言っていた通りです。これをまっすぐ行けばホテルに着くでしょう」

 なんとそこは道に迷う前、確かに一度歩いた場所でした。正しい通りへ出ていたにもかかわらず、私たちはホテルと正反対の方向に歩いて行ってしまったようです。丁寧にお礼を言って別れると、彼女はまた何事もなかったかのように、ベビーカーの中で眠っている子供に話しかけながら、今来た道を戻って行くのでした。

 私たちは狐につままれたような気がして、お互いに顔を見合わせ、

 「なんて親切な人なんだろうね」

と驚くばかりでした。シチリアの人はとことん親切だと、ある本に書いてはありましたが、実際にこういう体験をしてしまうと神秘的なものさえ感じてしまいます。スケールが違うのです。この土地では時間がゆったりと流れているので、人々には、すぐに何かをやらねばならないというような強迫観念がないのかもしれません。ですから、どんなときでも時間を惜しまず人に優しくすることが、当たり前なのでしょう。

 「心が亡い」と書いて「忙しい」と読む……。ごく親しい人にさえ十分な優しさを与える余裕のない自分が、恥ずかしくなってしまいました。頭の中では、パラディスのシシリエンヌ(シチリアーノ)が、優しくゆったりと、いつまでも鳴り続けていました。

人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。(ルカ6:31)

 

■推薦CD

●ジャクリーヌ・デュ・プレ「チェロ・リサイタル」(HMV:copyrightはEMI)

シシリエンヌ(シチリアーノ)とは、「ターンタタン、ターンタタン」というリズムに優雅な旋律を乗せた8分の6拍子の舞曲です。昨年のファミコンで演奏したフォーレの名曲、今練習しているレスピーギのものなどいろいろありますが、このアルバムの冒頭に入っているパラディス(Maria Theresia von Paradis)のシシリエンヌは、素朴な美しさが実にいい。デュ・プレは最初のスタジオ録音でこの曲を採り上げたそうですから、お気に入りの一曲だったようです。

 

川響楽譜係(Tp新保)

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