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楽譜係のおしゃべり

楽譜係のおしゃべり No.25(2000/11/20掲載分)

#♭♪ 「感動」のメカニズム ♪♭#

新保 邦明

■秩序に感動する人間の本能

水に青インクを一滴垂らすとどうなるだろう。だんだん広がっていき、しまいにはグラス全体の水が薄い青色に染まるはずだ。ビデオに撮って巻き戻しでもしない限り、逆は絶対に起こらない。このように自然界は、放っておくと乱雑さが増すほうへと進むのだ……。「エントロピー増大の法則」というのを習ったとき、こんな例えにごまかされてフムフムと納得してしまった人はいないだろうか。

そんなことはない。自然現象でも、秩序が増すほうへと進む例はたくさんある。例えば、濃い食塩水を小皿に少し取って日向に数時間そっと置いておくとどうなるか。プリズムのような塩の結晶がみごとに析出する。わざわざそんな実験をしなくても、雪の結晶の規則正しい形やDNAの二重らせん構造を思い浮かべるだけで充分事足りるかもしれない。

さて、上に挙げたような自然現象を体験したり習ったりした場合、「感動」するのはどちらかと聞かれれば、ほとんどの人が後者だと答えるに違いない。インクが広がっていくのを見て「じ〜ん」とくる人は、あまりいない。それはなぜか? 目撃した事実の背後に「意志の存在」を感じないためである。それに対して、雪の結晶やDNAの構造は「誰かがデザインした」としか思えない。見れば見るほど美しく隙がないので、私たちは畏怖の念に打たれてしまうのだ。秩序正しく精巧に設計された自然物に対して人間が深い感動を抱く理由は、造り主の存在を認めて崇めたいという宗教的な本能に関係しているのではないか……。最近、本気でそう思うようになった。

秩序に感動する人間の本能。これは、私たちが「理論」、「思想」、「芸術」などの質を値踏みするときにも、無意識に働いている。つまり、単純明快な考え方を真理として受け入れ、形式の整った分かりやすい作品を名作とたたえて後世へ残していく傾向があるのだ。音楽作品で言えば、ベートーヴェンの「運命」がその筆頭に挙げられるのではないか。第1楽章に貫かれている完璧な秩序と全く無駄のない美しさは、クラシック名曲の中でも群を抜いている。「ジャジャジャジャーン」という基本動機は子供でも知っているし、その演奏を刻んだ金のレコード盤は、人類芸術の最高峰として米国の惑星探査機に載せられ、今も太陽系外の宇宙を旅し続けている。宇宙人へのメッセージとともに……。そう、この作品はシンフォニーの最高傑作であるにとどまらず、秩序を美と感ずる私たち人類の特徴を余すところなく表現した「地球人類の代表芸術」なのだ。そう思うと、次のシーズンにこの曲を演奏できる私たちはなんと幸せであり、また責任重大なのだろう。

秩序が命であるこの曲を無秩序に演奏することは、絶対に許されない。それゆえ団員の皆さんには、パート譜だけでなくミニチュア・スコアも必ず用意して研究し、全体の「構造」を頭に入れた上で練習に臨んでいただきたい。そうすれば、本番はきっと感動的な演奏になる。小細工などしなくてよい。余計な感情移入も必要ない。そのまま「秩序正しく」演奏しさえすれば自動的に「感動」を呼び起こせるように書かれているからだ。それだけよくできた作品なのである。作曲者への感謝、さらには彼にインスピレーションを授けた創造主への畏怖の念も、練習を進めるにしたがって自然に湧き起こってくるに違いない。

真の思想家はだれでも、思想をできるだけ純粋明瞭に、確実簡潔に表現しようと努めている。したがって単純さは常に真理の特徴であるばかりか、天才の特徴でもあった。(ショウペンハウエル)

 

推薦図書

●朝比奈隆+東条硯夫、「朝比奈隆ベートーヴェンの交響曲を語る」(音楽之友社, 1991)

 「ベートーヴェンの交響曲は聖書のようなものである。それは音楽という宗教への入口であると同時に、すべての偉大さの根源である」と言う朝比奈氏への、貴重なインタビュー記録。スコアや演奏上の問題点についても、実際の対処法を含めて丁寧に語られており、たいへん参考になる。

 

■推薦CD

 ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調「運命」のCDは文字どおり掃いて捨てるほどあり、各人の好みもさまざまだと思います。そこで今回は、リリース当時大きな反響を呼び、今も確実に売れ続けている名盤という観点からいくつか選んでみました。参考のため、冒頭に演奏タイムを付けておきます(3, 4楽章が分離されていないものもある)。

●フルトヴェングラー(指揮)、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(Grammophon, 1947/5/27, MONO)

 (8:04, 11:11, 5:50, 8:05) 戦後すぐ、廃墟のベルリンにおける感動の記録! 気合の入った「運命」の典型。

●フルトヴェングラー(指揮)、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(EMI, 1954/2/28-3/1, MONO)

8:33, 11:18, 15:45) これもテンションが高いが、完成度も相当のもの。録音もなかなかよい。

●クレンペラー(指揮)、フィルハーモニア管弦楽団(EMI, 1959)

8:55, 11:11, 6:13, 13:17) 楽譜に極めて忠実な、風格のある雄大な演奏。テンポは遅めで安定感がある。

●イッセルシュテット(指揮)、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(KING/LONDON, 1967頃)

8:15, 10:25, 14:55) 均整の取れた爽やかな演奏。テンポも中庸で、何回聴いても飽きない不思議な魅力を持つ。

ブーレーズ(指揮)、ニュー・フィルハーモニア管弦楽団(SONY, 1968)

9:18, 10:14, 9:52, 9:26) 基本動機の積み上げが際立つ「怪」演。テンポは超スローで分析研究に最適。

●カルロス・クライバー(指揮)、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(Grammophon, 1974

7:14, 9:54, 15:56) 流れに勢いのある超快演。テンポは速めだがけっして軽くない。1枚だけ選ぶならこれ。

●ジンマン(指揮)、チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団(ARTE NOVA/BMG, 1997)

6:49, 8:45, 7:19, 10:25) ベーレンライター新版による驚くほどスッキリした演奏。目(耳?)から鱗が落ちる。

 

川響楽譜係(Tp新保)

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