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楽譜係のおしゃべり

楽譜係のおしゃべり No.2(1998/12/21 掲載分)

#♭♪ 神はわれらを見放されたのか? ♪♭#

新保 邦明

■楽譜係のエッセイ

●第9の舞台裏より

 「皆さん、とうとう本番の日が来てしまいました。きょうまで付いてきてくださってありがとうございました」 マエストロは両手を胸の前で合わせ、静かに目を閉じた。

 「きょう、ここは川崎だと思わないでください。皆さんはウィーンにいるのです。シュテファン大聖堂の中で演奏すると思ってください。……あとは神に祈りましょう」

 なんという謙虚さ。なんと美しい励ましの言葉であったろう。私たちは、マエストロにこのような暖かい言葉をかけていただくに値するほどの努力をしてきただろうか。かくも敬虔な人のもとで第9交響曲を演奏する資格があるのだろうか。しかもこの人は、ベートーヴェンの頭の中で鳴り響いていた音楽を可能な限り忠実に再現するために「ベーレンライター版でなければやらない」ときっぱり言ったのだ。考えてもみよ。アマチュアオーケストラを聴きにきてくださるお客さまのいったい幾人が、版の違いなどを気にかけるだろう。やったって話題にものぼらないし、なんの手柄にもならないのは目に見えている。オケの中にさえ、疑問を抱いたままステージに乗ろうとしている人が実際いるではないか。なのになぜ……。私はとまどった。

 開演までの長く重たい時間、さまざまな思いが脳裏をよぎった。マエストロの意思をなんとか全員に伝えようともがいた私の努力も、たった数人の無理解な人たちのために水泡に帰すかもしれないのだ。やりきれない思いに押しつぶされそうになったまま、本番は始まった。しかし、第1楽章冒頭のホルンがきれいに決まり、同時に弦の6連符がはっきりと聞き取れたとき、マエストロの顔に一条の光が差したのを私は見逃さなかった。敬虔な人ほど自分の力を過信せず、神にすべてを委ねることができるのだ。

 「あとは神に祈りましょう」

 神は確かに見守ってくださった。第3楽章までは。しかしフィナーレが始まると、神は何人かの心をかたくなにされた。そして魔のレチタティーヴォはやってきた。そのあと起こったことを私たちは決して忘れてはならない。団員の中に「不和」を残したままで歓喜の歌を演奏する偽善を、神は忌み嫌い、審判を下されたのだ。練習でうまくいっても本番で失敗した本当の理由はそこにある。では、神は私たちを見放されたのだろうか。いや、断じてそんなことがあってはならない。神の知恵は偉大である。人間を正しく導くために、あえて「苦しみ」をお与えになることもあるのだ。そう。神は私たちを愛するがゆえに、この問題を早急に平和裏に解決することを強く望まれたのではないだろうか。

 幸いだ、平和を造り出す者たち、

 その彼らこそ、神の子らと呼ばれるであろう。(マタイ5:9)

 

■楽譜係の独断的第9解釈

●第1楽章の冒頭

 はじめに神は天と地を創造した。

 地は空漠として、闇が混沌の海の面(おもて)にあり、神の霊がその水の面に働きかけていた。神は言った、「光あれ」。すると光があった。神は光を見て、よしとした。神は光と闇の間を分けた。神は光を昼と呼び、闇を夜と呼んだ。夕(ゆうべ)となり、朝となった。第一日である。(創世記1:1-5)

 荘厳な出だしである。ホルンがAとEの音を無表情にどこまでも延ばしてゆく。第三音を欠くため調性は確定せず、不安な感じが醸し出される。たったこれだけの音で、聴覚を失った楽聖は「混沌」をみごとに表現した。弦が刻む6連符は「神の霊」の波動だ。だから秩序正しく聞こえてこなければならない。クラリネット、オーボエ、フルートと順に単音が重なっていくさまは、神のエネルギーがしだいに高まっていく過程を表わしている。それが絶頂に到達する第17小節で、光と闇が劇的に分かたれる。この一大事件によって混沌から秩序が生まれ、初めてニ短調が確定する。この第1主題冒頭が下降音型になっているのは、天の高みから発せられた「光あれ」の命令を表現したかったからに違いない。この部分は、後でそっくりそのまま変ロ長調に移して再現される(第51小節)。同じ動機を短調と長調で提示することによって、闇と光の対立を際だたせているのだ。同時にこれは悪と善、サタンと神の対立をも暗示している。そして、最後には後者が前者に打ち勝つという黙示録の壮大なテーマへと、着実につながっていくのである。

 この第9の冒頭部分が後世の作曲家に与えた影響は、計り知れない。マーラーの「巨人」、ブルックナーの第8、R・シュトラウスの「アルプス交響曲」、ショスタコーヴィチの第5……。これらの曲の冒頭は、間違いなくベートーヴェンの第9からインスピレーションを得たものである。聖書の冒頭にある創世記が多くの文学作品の源となったのと同じように、第9の冒頭も多くの名曲のルーツとなっているのだ。

●第4楽章のレチタティーヴォ

 第30小節から始まる先行各楽章の回想。これもベートーヴェンが発明した手法である。ここといい、第2楽章のティンパニの使い方といい、彼は相当のアイディアマンだったようだ。

 さて、それらの回想の間に必ず挿入されている低弦のレチタティーヴォであるが、何を言わんとしているのだろうか。一般には、直前の音楽を否定しているのだと説明されることが多いが、どうもピンとこない。そこで私は、それぞれの箇所に次のような言葉を当てはめてみた。

 (回想1)創造前の混沌に戻って人間なんかなくなってしまえば、悩みもなくなるだろうに。

 (レチ1)そりゃね、苦しいこともある。だけどね君、それじゃ負けだよ。それは言わないほうがいい。

 (回想2)それなら、酒に酔いしれ、現世の幸せをとことん追い求めようじゃないか。

 (レチ2)いや、いや、そうじゃないよね。んー、それだけじゃあまりに空しすぎる。

 (回想3)わかったわ。闇から目をそらして自己陶酔に浸りましょう。そうすれば心地よく幸せになれるわよ。

 (レチ3)ああ、そうだね。夢の中へと……。いや、どこまで逃げても闇は失せないぞ。

 レチタティーヴォの文句は、各々のメロディーでそのまま歌えるように創ってみたので、試してみてほしい。ベートーヴェンはもちろんドイツ語で考えたのだろうが、内容はこんな感じの「ひとりごと」であったと思う。ごく普通の何気ないフレーズだ。こんなひとりごとをつぶやくのに、誰が歌舞伎のように見得を切ったりするだろう。譜面にリタルダンドが書いてないのは当然である。マエストロが口を酸っぱくして「イン・テンポで」と言っていたのには、ちゃんと理由があるのだ。

 

川響楽譜係(Tp新保)

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