川響オフィシャルウェブ
楽譜係のおしゃべり

楽譜係のおしゃべり No.7(1999/5/17 掲載分)

#♭♪ フェルマ〜タの効能 ♪♭#

新保 邦明

■「停める」か「延ばす」か?

 イタリア人にフェルマータ(fermata)と言うと、まず思い浮かべるのはバスの停留所。つまり彼らにとって、この単語は「停止」を意味するのだ。しかし、私たちは音楽の授業で「音符や休符を延ばす印」と教わらなかっただろうか。変だなと思い、白水社の図解音楽事典を調べてみると、「Fermate (独) (伊:corona) 、停止記号。音符や休符を任意に延ばす」と書いてある。ちなみにcoronaというイタリア語は英語のcrown、つまり王冠を意味する。なるほど、フェルマータ記号は帽子のような形をしているぞ……。ほほうと感心はしたものの、どうも腑に落ちないので辞書を引いてみることにした。郁文堂の独和辞典には「Fermate:[音楽]フェルマータ、延長(延声)記号」とだけ書いてあり、それ以外の意味はない。それに対して小学館の伊和中辞典では「fermata:1. 停留所、駅;2.(立ち)止まること、停止、休止;……;4.[音]フェルマータ(記号)、延声記号(イタリアでは通常coronaと言う)」となっている。どうやら音楽用語としての「フェルマータ」は、厳密にはドイツ語で定義されていて、どちらかと言うと「停止」よりも「延長」のイメージが強いようだ。それならドイツ語的に「フェルマーテ」と和訳するのが正解ではなかったか、などと余計な心配をしてしまう。イタリア人の音楽家にしてみても迷惑な話だろう。自分たちの「fermata」には本来「延ばす」イメージが希薄なのだから、ドイツから逆輸入された「Fermate」は使いたくない。混乱のもとである。そこで、誤解を避けるために別の単語「corona」を持ってきたというわけだ。

 しかし、よく考えてみると、「延ばす」ことは「停める」ことと無関係ではない。例えばベートーヴェンの第5交響曲冒頭を見てみよう(譜例1)。叩きつけるような運命の動機が、何の前置きもなしに突然提示される。ここに大胆にもフェルマータを付けたのが、ベートーヴェンの天才たる所以である。イメージ通りの時間だけ「延ばす」ことを要求するのなら、2分音符をいくつか連ねてタイで結べばよい。そのほうが正確に伝わるし、指揮者も苦労しないで済む。ところが、彼はそうはしなかった。「数えないで」延ばしてほしかったからである。つまりここでは、どれだけ延ばすかという表面的なことよりも、演奏者と聴衆に何かを感じ取ってもらうための余裕を与えるという内面的な目的こそが重要なのだ。いきなり現われる基本動機があまりに過激なので、聴衆が動揺するのは必至。全曲の構成細胞であるこの音型の緊張感をしっかりと心に刻み込んでもらうには、拍子を停めて「感じる余裕」を与えなければならない。彼はそう考えたのだ。

 「田園」の冒頭にもみごとなフェルマータがある(譜例2)。この動機は穏やかではあるが、全曲を凝集した密度の高さにおいては「運命」のそれに引けをとらない。ここのフェルマータがなかったらなんと味気ないことだろう。これがあるおかげで、のどかな田舎の風景と澄み切った空気、小川のせせらぎ、小鳥たちの歌声……そういったものを私たちはイメージすることができる。音が延びているほんのわずかの間、私たちの心は拍子の束縛から解放されて、自由な想像の世界に遊ぶのだ。指揮者もその解放感を十分に味わってから次の動きに入ることができる。ベートーヴェンはその絶大なる効果を知り尽くしていて、確信を持ってここにフェルマータを付けたに違いない。優れた作曲家は、一級の心理学者でもあらねばならないのだ。

  このように考えてくると、音符にフェルマータを付ける手法は、文学作品を朗読するときに「間」を取るのとよく似ていることに気がつく。有名な作品で説明してみよう。

 吾輩は猫である。名前はまだ無い。(夏目漱石「吾輩は猫である」冒頭)

 小説の主人公はふつう人間だろうと誰でも思っている。そこへ突然、自分は猫だと宣言される。これは「ダダダダーン」と同じくらいインパクトのある出だしだ。だから「猫である。」と言った後、適当な間を設けるのが上手な読み方である。

 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。(川端康成「雪国」冒頭)

 これも「雪国であった。」と言ってからしばらく間を置くことによって、景色と空気が突然別世界に転じたその瞬間のイメージを、ありありと想像してもらうことができる。「田園」のフェルマータと似ていないだろうか。それにしても名作というものは、ジャンルを問わず冒頭から工夫が凝らされているなあとつくづく感心させられる。

 さて、最後にフェルマータの意味をもう一度整理してみよう。「心に停める」という目的を達成するための手段として「音(または休み)を延ばす」。こういうことなのだと思う。先へ急ぐ前に、ちょっと立ち止まって感じてほしいことがある。そういう作曲家の意図が込められている印だと受けとめたい。ふと立ち止まってよーく考え、次に備える。いいことではないか。私たちは、忙しい忙しいと言って周りも見ずに突っ走り、後で振り返ってみると無駄なことしかやっていなかった……というようなことをよく経験しないだろうか。放っておくと、むやみに忙しくなりがちな人生。要所と思う所には、自分で意識的にフェルマータを付けられるようになりたいものである。

 

川響楽譜係(Tp新保)

 TOPページへ  楽譜係のおしゃべり目次へ