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楽譜係のおしゃべり

楽譜係のおしゃべり No.10(1999/7/19 掲載分)

#♭♪ 愛すべき1番括弧 ♪♭#

新保 邦明

■ブラ2の第1楽章は長いほどよい?

 オーストリアのペルチャッハと、ドイツのリヒテンタール。ブラームスが、第2交響曲を書き始めた村と、それを完成した村。私はその両方へ行ってみたくなり、汽車に乗りました。マインツに一人で住んでいた頃のことです。

 ペルチャッハは、南オーストリアのヴェルター湖畔にある避暑地です。確かに風光明媚ではありますが、今では湖畔にホテルやペンションがびっしりと立ち並んでいて、ちょっと興醒めでした。1877年当時は、もっと落ち着いた雰囲気だったのでしょう。いずれにしても、富士五湖のような風景とあの第2交響曲の田園的なイメージは、この曲の解説にしばしば記されているほどには、簡単に結びつくものではありませんでした。

 一方のリヒテンタールは、ドイツ中西部の温泉保養地バーデン・バーデンの外れにある山あいの農村。ここには、ブラームスが作曲に使っていた白亜の家が残っています。小高い丘の上に建っているので、2階の書斎から田舎ののどかな風景を思う存分眺めることができます。裏山はちょっとしたハイキングコースになっていて、散歩しながら楽想を練るにはもってこいの場所だなあと思いました。見晴らしのよいお花畑の真ん中に小さなチャペルがポツンとある風情など、ロマンティストにはたまりません。この土地は、文句なく第2交響曲の世界であると言えましょう。

 もうお分かりかと思いますが、私はこの曲が小さい頃から大好きなのです。低弦とホルンの穏やかな響きで始まる第1楽章は特にいい。できれば、この平和な喜びに満ちた音楽にずっとずっと包まれていたい……そんなふうに思うことがよくあります。ところが、その願いを少しだけ叶えてくれる仕掛けが、実はこの楽章には仕組まれているのです。提示部の繰り返しと、そのために設けられた1番括弧がそれです。「な〜んだ、そんなことか」と言わないでください。指示どおり繰り返すと、第1楽章の長さは20分近くにもなるんですよ。しかも、繰り返しを無視すると跳ばされてしまう1番括弧は、なんと8小節分もあるのです。

 古典的な交響曲の第1楽章には、提示部の終わりに繰り返し記号が付いているものが少なくありませんが、演奏では慣習的に無視することが多いようです。繰り返し記号の直前が1番括弧になっていても、普通は1〜2小節で、単にブリッジ的な役割しか持たない場合が多いため、いきなり2番括弧に入っても大した問題にはならないのです。ところが、ブラームスの第2交響曲第1楽章の1番括弧は特殊です。音楽的に極めて雄弁に書かれているので、ここを1回でも聴いた人は、繰り返しのない演奏に、たちまち物足りなさを感じるようになります。後半の4小節で、高中弦の和音が膨らみを持って変化していく中、低弦がドーシードーという基本動機をつぶやくように反復します。その最後のドーシードーが冒頭第1小節目と同じ「導入」の役割を果たすので、音楽は淀みなく第2小節目(ホルンの第1主題)に戻ります。哀しいまでに美しい経過句に心洗われた私たちは、さらに提示部をもう一度フルに聴けるという、望外の幸福に浴することができるのです。

 「ありがとう、ブラームス。あなたが残してくれた愛すべき1番括弧のおかげで、もうしばらくこの安らかな音楽に浸っていることができます」

 すると、天から声があった。

 「私もずっとリヒテンタールで暮らしたかった。田舎の空気と風景は、人を穏やかにするものなあ……」

 この繰り返しには、田舎をこよなく愛した彼の切ない思いが込められているのかもしれません。

 ところでこの曲は、最初に第1楽章が書き記され、続いてわずか3ヶ月の間に全曲が完成されたと伝えられています。そうすると、第1楽章はペルチャッハで作曲された可能性が非常に高い。しかしそう言われてみても、私がこの楽章を聴きながら思い浮かべるのは、リヒテンタールの風景……。実はこのギャップに悩みながら、複雑な心境でこの文章を書き始めたわけですが、あらためてスコアを調べてみると、不思議なことに気がつきました。問題の1番括弧の8小節には、小節番号が振られていないのです。これを発見した瞬間、私は満足げにうなずきました。

 「第1楽章の大部分は、確かに避暑地のペルチャッハで書かれたのかもしれない。しかし、少なくともこの美しい8小節と繰り返し記号だけは、山あいの農村リヒテンタールに移ってから追加されたものに違いない。のどかな雰囲気にずっとずっと浸っていたくなったブラームスが、感極まって仕組んだ繰り返しなのだ!」

 ここでやめておけば幸せだったものを、研究者の悲しい性で、念のために彼の第1交響曲第1楽章の1番括弧も調べてみた私は、愕然としました。なんと、そこにも小節番号が無いではないか。1番括弧に小節番号を振らないのは、常識だったんですね。ああ、これでまた私の悩みは振り出しに戻ったのです。

 

■推薦CD

 第1楽章の演奏タイムが19分以上のものは提示部の繰り返しをしていると思われます。そういうものを選んで購入すれば、めでたく1番括弧を聴くことができるでしょう。しかし問題は、この8小節が「かけがえのないもの」として大切に処理されているかどうかという点です。私が心から満足している演奏を、そっとお教えしましょう。

●ブラームス:交響曲2、ケルテス指揮、ウィーンフィル(LONDON, 1964)

●ブラームス:交響曲2/ハイドンの主題による変奏曲、マッケラス指揮、スコットランド室内管(TELARC, 1997)

 ただし忠告しておきます。どちらも2番だけでは済まなくなるに決まっていますから、初めから全4曲買ってしまうのが利口です。特に後者は、セットで買うとマッケラスのインタヴューCDが付いてきます。これがまた聞きもの! 美しいブリティッシュ・イングリッシュで、独自のブラームス演奏論を、音楽を交えながら楽しく語ってくれます。その上、1番の余白には第2楽章の初演版というのも収録されていますよ。

 

川響楽譜係(Tp新保)

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