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楽譜係のおしゃべり

楽譜係のおしゃべり No.12(1999/9/20 掲載分)

#♭♪ 両翼配置の醍醐味 ♪♭#

新保 邦明

■作曲家が意図したステレオ効果

 客席から見て、指揮者の左側に第一ヴァイオリンを、右側に第二ヴァイオリンを並べるやり方を、両翼配置(または対向配置)と呼ぶ。戦後世代(私もですよ!)にはなじみが薄いかもしれないが、本来はこの配置が主流だったという。私たちが普通だと思っている配置、つまり両ヴァイオリンとも左側に置くやり方は戦後に始まったもので、意外と歴史が浅いのだ。したがって、モーツァルトからマーラー、ショスタコーヴィチに至るまで、ほとんどの名曲は両翼配置を前提として作曲されているといっても過言ではない。川響の皆さんは、前回のチャイ5を両翼配置で演奏したので、記憶に新しいと思う。思い出していただきたい。(聴きにきてくれた私の親友は、オケの配置にまずぶったまげたと言っていました)

 さて、一見むかし風のこの両翼配置。作曲家の意図したステレオ効果を忠実に再現しようと試みる人々の間で、熱い視線を浴びているのをご存じだろうか。「ステレオ効果って何のこと?」といぶかる人のために、身近な例から説明してみよう。じつは、いま練習しているブラームスの1番に、最も極端な例があるのだ。第4楽章24小節目からのヴァイオリンパートに注目してほしい(譜例1)。1stにはタカタッ、2ndにはタッタカと弾かせ、両方が揃って初めてタカタカと聞こえるように作られている。この不可解な処置は、両翼配置で演奏してみると、たちどころにその目覚ましい効果を発揮する。すなわち、タカタカという4つの音の聞こえてくる方向が中→左→中→右のように、デジタル的に変化するのだ。下に紹介するマッケラスの演奏で確認してみてほしい。これはまさにシンセサイザーを連想させる「ノリ」である。初演でも両翼配置であったろうから、この部分が聴衆にきわだって前衛的な印象を与えたことは想像にかたくない。

 しかしながら、ブラ1のこの部分が、ステレオ効果をねらった単なる「遊び」だとは、私にはどうしても思えない。慎重に推敲を重ね、40歳を越えて初めて世に問うた第1交響曲である。それにブラームスは、ドイツレクイエムを作曲するほどに熱心なプロテスタントだったのだ。大事な作品の終楽章、しかも開放感あふれるアルペンホルンの見せ場を直後にひかえて、無意味な遊びをするだろうか。

 私はふと思った。もしかしたらブラームスは、左右へのせわしない音像の移動によって、人間の迷いや恐れを表現したかったのではないか。最後の審判で、自分という人間は主のどちら側へ振り分けられるのだろう。右(天国行き)かそれとも左(地獄行き)か。それはもう確定しているのか、それともこれからの生き方によってどちらにでも転ぶものなのか。悩めば悩むほどわからなくなる。そして不安になり、苦しみが増し加わっていく。皮肉なことに、人生を真剣に考える人ほど、このような悩みの蟻地獄にはまってゆくものだ。しかし、苦しみが極限に達したその瞬間、すべてが劇的に変化する。答えの出ない悩みから解放される手段はただひとつ、神にすべてをゆだね、その声に聞き従うことだ。苦しみのどん底で与えられた単純明解なこの真理。それに伴う深いやすらぎ……。突然に霧が晴れたようなアルペンホルンの響きは、この「救いの瞬間」を描いたものに違いない。続くトロンボーンのコラールは、救いにあずかった人間の敬虔な感謝の気持ち。そしてそれは、神とともにあることの幸福を高らかに歌う「歓喜の歌」へと昇華していくのである。

 ステレオ録音というものがなかった時代、音像が左右に飛び交う醍醐味は、生の演奏会場でしか味わえない贅沢な体験であったろう。それゆえ、作曲家たちは競って、その手法を自らの作品に取り入れようとしたはずだ。単に「面白さ」をねらっただけの場合が多いかもしれないが、すべてがそうとは限らない。ブラームスのような天才の作品においては、特に注意を要すると思う。

 優れた魂は、より高い次元の世界にあこがれる。彼らは二次元の楽譜をしたためる際、固定したオケ配置を常に念頭に置くことによって、音の来る方向をも含めた三次元的なイメージを定着させようとしたのではなかったか。そう考えると、同じ楽譜を使っても、当時と同じ両翼配置で演奏するのとそうしないのとでは、大きな違いがあることになる。三次元までのファクターをできるだけオリジナルに近づけようとすることは、作曲家が描こうとした深い思想をより的確に表現するために、たいへん意味のあることではないだろうか。私たち演奏家は、演奏という行為によって、さらに一次元高い世界へのあこがれを表現し、それを聴衆と共有したいといつも願っているのだから。

 

■推薦CD

●ブラームス:交響曲1ほか、マッケラス指揮、スコットランド室内管(TELARC, 1997)

 

川響楽譜係(Tp新保)

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