来住 千保美
第278回定期プログラムより
(2007年7月20日)

20. 『ボン、そしてベートーヴェン』

 ドイツ連邦共和国の首都はベルリンです。しかし1949年から90年まではボンが首都でした。ボンは東西のドイツが統一した後、99年まで政府官庁所在地として首都機能を保持していました。しかしベルリンへの首都完全移転後、ボンはさま変わりしました。首都機能が移転したあとには国連などの国際機関や民営化された旧郵政・逓信関係のドイツ・テレコム、ドイツ・ポスト、ポスト・バンクなどが本拠を構え、町の体面を保持しています。現在の人口は31万人です。この町の歴史は2000年前の古代ローマ帝国時代にさかのぼります。

 

 一方ボンは歴史的にも静かな町で、今日では大学の町、そして音楽ファンにはベートーヴェンの生まれた町として世界中に知られています。ロベルト・シューマンはこの町で没し、妻クララと共にボンの墓地に眠ります。ブラームスはボンの南でシューマン夫妻と運命的な出会いをしました。

 1770年、ルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェンはボンで生まれました。ベートーヴェンの生家は現在ベートーヴェン・ハウスとして一般に公開されています(http://www.beethoven-haus-bonn.de/)。ここにはベートーヴェン関係の楽譜、資料等が集められ、ベートーヴェン研究の中心的な施設です。

ベートーヴェン・ハウス室内楽ホール
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ニコラ・アルトシュテットのチェロ・デュオ
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 1989年にはベートーヴェン・ハウスに隣接してKammermusiksaal(室内楽ホール)が完成しました。座席数199、素晴らしい音響を備えた小ホールです。ここではホール主催の室内楽コンサートの他、民間にも貸しています。また一般の会社などがホールを借りて非公開コンサートをすることもあります。そんな一例、6月4日に行われたコンサートを特別に参観させてもらいました。コンサートはチューリッヒ保険会社の社員研修の一環で、テーマは『成長』というものでした。そのコンセプトにふさわしく、ベルリンから20代の若い優秀な音楽家が招かれました。チェロのニコラ・アルトシュテットとピアノのサム・ヘイウッドによるデュオ・コンサートでした。アルトシュテットは現在注目されている若手チェリストの1人です。昨年は指揮者の兄がつくったオーケストラの日本ツアーにソリストとして同行しています。ボンでのプログラムは社員研修のためとはいえ、ベートーヴェン《ソナタ、op.102、Nr.2》、シューマン《ファンタジー、op.73》、そしてブラームス《ソナタ、op.99》という本格的なものでした。この3人の作曲家はもちろんボンに関係しています。若いビジネスマンたちは若い音楽家の演奏を静かに聴き入っていました。彼らの中には音楽に造詣の深い人もいて、手違いからプログラムと実際の演奏の順番が換わっていたことを指摘した人もいました。


拍手に応える高橋礼恵
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 ところで、2005年12月にボンで第1回国際ベートーヴェン・ピアノ・コンクールが開かれました。このコンクールで第2位、そして21世紀音楽賞を受賞した高橋礼恵(たかはし・のりえ)が6月8日、ボンでリサイタルを開きました。これに先立ち、高橋礼恵は5月26日にケルン・フィルハルモニーでもベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番を弾き、スタンディング・オーヴェーションの大成功を収めています。

 8日のリサイタルはボンのコレギウム・レオニヌムにある旧礼拝堂を改造したホールで行われました。コレギウム・レオニヌムはシューマン夫妻やベートーヴェンの母親、ワーグナーに関係の深いマティルデ・ヴェーゼンドンクが眠るボン中央墓地(Altfriedhof)の向かいにあります。かつての神学校を改修し、現在はホテル、レストラン、老人ホームなどを含む施設となり、バンケット、セミナー、各種会議等の施設ともなっています。ここのホールには長さ3mを越える世界最大級のグランドピアノ、イタリア製の『ファツィオーリ』が置かれています。このピアノの共鳴板にはストラディヴァリも使ったという東アルプス産のトウヒ材が使われています。このピアノを使用する『ピアノ・プルス』というリサイタル・シリーズに高橋礼恵が招かれ、ハイドン、ブラームス、ベートーヴェン、デュティユ等の作品を演奏しました。


モダンなベートーヴェン頭像とベートーヴェン・ハレ入口
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 ボンには他に平土間で大パーティーなどにも使われる多目的ホール、ベートーヴェン・ハレ(Beethovenhalle)があります。毎秋開かれる『ベートーヴェン・フェスト』(http://www.beethovenfest.de/)の現在のメイン・ホールです。現在の、といったのはボンではコンサート専用ホールの建設が現実化してきたからです。


拍手に応えるアンドラーシュ・シフ
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 今年のベートーヴェン・フェストは8 月24日から9 月23日まで開かれます。これに先立つプレ・コンサートとして6月13日にスター・ピアニスト、アンドラーシュ・シフのピアノ・リサイタルがありました。プログラムはオール・ベートーヴェンで、ソナタ12番、13番、14番、15番でした。チケットはもちろん売り切れ、聴衆はスタンディング・オーヴェーションで大きな拍手を贈っていました。

 シフが演奏するピアノは、彼自ら選んだドイツ製スタインウェイを彼が信頼するイタリア人が整音、調律したものです。ピアノにはこの人の名が入れられています。東京のオペラシティ・ホールにはシフが選んだ1台があります。


シフのリサイタルのために整音する調律師
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ファンと話しながらサインに応えるシフ(中央)
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 このコンサートの翌日、ベートーヴェン・ハウスから《ベートーヴェンのピアノ・ソナタと解釈、すべての音に言葉を見つける》(邦題訳・筆者)という本が出版されました。これはスイスの《ノイエ・チュルヒャー紙》文化部長であるマーティン・マイヤーが、ベートーヴェンのソナタについてシフにインタヴューし、これをまとめたものです。内容は深く、分量もかなり多く、決して片手間に読める本ではありません。また本の出版と並行して、シフのベートーヴェン・ソナタ・チクルス演奏のライブ録音CDも新しく出始めています。