来住 千保美 Chiomi Kishi
第279回定期プログラムより
(2007年9月21日)

21. 『バーデン・バーデン』

★バーデン・バーデン
 バーデン・バーデンはドイツ南西部のシュヴァルツヴァルト(黒森地方)の入口にあります。ここはヨーロッパでも有数の伝説的高級温泉保養地です。フランスとの国境にも近く、周辺地区も含め、超高級ホテル、3つ星レストランが集まっています。

 10年前、バーデン・バーデンに『フェストスピールハウス』が建設されました。入口やクローク、レストラン、チケット売場部分は旧バーデン駅の美しい駅舎を利用しています。とはいっても、この劇場は独自のアンサンブルもオーケストラも持たず、独自の企画で運営しています。観客・聴衆に富裕な保養客を集められるため、スター音楽家を頻繁に招き、ガラ・コンサートなどをよく行っています。たとえばゲルギエフ率いるサンクトペテルスブルクのマリインスキー劇場などはここの常連です。

 

 7月28日、ここで『バーデン・バーデン・ガラ』がありました。このガラ・コンサートはドイツ第2放送ZDFも録画中継しました。チケットは既に2月に発売しています。250ユーロ(約4万2千円)〜80ユーロ(約1万3千円)のチケットが発売から3時間で売り切れたそうです。クラシック界の『ドリーム・ペア』、アンナ・ネトレプコとローランド・ヴィリャソンの登場が理由でした。ところがローランド・ヴィリャソンが病気を理由にドタキャンし、代わりはラモン・ヴァルガスがつとめました。他にスター・メゾ・ソプラノ、エリーナ・ガランチャ、バリトンのルドヴィク・テジエという顔ぶれでした。バリトンも当初はメトロポリタンのスター、マリウス・キーチェンの予定でした。


バーデン・バーデンのフェストシュピールハウス

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 歌手のキャンセルは今夏のザルツブルク・フェスティヴァルでも大問題になりました。音楽家のキャンセル自体は珍しい話ではありませんが、今年は特に大スターのキャンセルが相次ぎました。ヴィリャソンだけではなく、バーデン・バーデンでは元気に歌ったネトレプコとガランチャの2人も、そしてヴェッセリーナ・カサロヴァもキャンセルしました。夏前にはニール・シコフもキャンセルを伝えました。表向きの理由はみな『病気』です。

 人は誰でも病気になります。しかし健康も芸術的レベルも考慮せず、稼げるときに稼げばよいとでも考えているのでしょうか、馬車馬のように次から次へと仕事をする音楽家、彼らに仕事をさせるマネージャーも多く存在します。

 誰しも健康第一ですが、とくに歌手の場合は身体が楽器です。歴史に残るような名歌手は生活を節制し、声のことを考え、レパートリーを慎重につくっていきました。スペインの名テノール、アルフレート・クラウスは、70歳で亡くなる直前までステージに立っていました。彼の輝かしい高貴な歌唱は唯一無二でした。クラウスと同年代のテノール、ニコライ・ゲッダの70歳頃のソロ・リサイタルを聴いたことがあります。長い間の努力の積み重ねでしか得ることのできない素晴らしいテクニック、そして芳醇な、内容豊かな歌唱には魅了させられました。ソプラノ歌手モンセラート・カバリエは1933年生まれ、まだ現役です。ルアナ・デヴォルも70歳近くになっても《神々のたそがれ》のブリュンヒルデや《エレクトラ》の題名役を余裕たっぷり、安定した感動的な歌唱を聴かせています。

バーデン・バーデン・ガラ
左からデジネ、ネトレプコ、ガランチャ、アルミリアート(指揮)、ヴァルガス
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 しかし今の聴衆や業界は、たとえばネトレプコが何をどう歌おうと構わないのでしょう。《ラ・トラヴィアータ》のヴィオレッタ役なら誰でも知っています。この役をネトレプコが歌えば話題沸騰、チケットを売るには鬼に金棒です。彼女の声がヴィオレッタ役にふさわしくなくても、技術が十分でなくてもいいのです。案の定、05年のザルツブルク《ラ・トラヴィアータ》ではチケットの争奪戦が繰り広げられ、プレミアムがつき数何千ユーロ、何十万円にまで釣り上がりました。誰も70歳の彼女には興味がありません。それより今のネトレプコを『見たい』のです。そして近い将来、『新ネトレプコ』が出てくるのは必至です。その時はより若い『新ネトレプコ』に乗り換えるだけです。


『ドリーム・ペア』ヴィリャソンとネトレプコ
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★国際音楽コンクール
 前述のことは音楽コンクールにも共通する点があります。ちなみにドイツではコンクールを特に重要視しません。メディアもARD(ドイツ放送連盟)主催のミュンヘン国際コンクールとブリュッセルのエリザベート王妃記念国際コンクール以外はほとんど扱いません。ムター、ツィンマーマンなど、国際コンクールとは関係なく輩出しています。優秀な音楽家を発掘し育てるのは、放送局やオーケストラ、コンサート主催者など、関係者たちの協力です。ですから、これらの人々のインサイダー情報はとても重要です。


ファストシュピールハウスのフォワイエ
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 この点では日本は事情がだいぶ異なるようです。著名な国際コンクールに優勝すると、国内メディアが話題にし、国内でのコンサートの機会が増えます。しかし外国での活躍とは無関係です。コンクールの入賞者は若い人たちです。まだまだ勉強をしなければならない時期にある音楽家の卵です。しかし、一時的な仕事の山に勉強の機会を失い、気がついたたら、もう30歳ということにもなりかねません。これでは10代では賞賛されても、30代では失笑を買うだけです。さらにコンクールでは次々に新しい優勝者、入賞者が出て、話題はどんどん新しい人たちに移ります。ソリストを目指し、一度スターの醍醐味を味わうと、今さらオーケストラに入ることもできません。30歳を過ぎ進路が見えなくなり、オーケストラにでもと思っても、簡単には受け入れてくれません。そんな悲惨なケースはドイツでも多々あります。

 『ネトレプコ現象』も『コンクール現象』も芸術の世界とは無関係、ショービジネスの世界のことではないでしょうか。