来住 千保美 Chiomi Kishi
第280回定期プログラムより
(2007年10月24日)

22. 『パヴァロッティの死、ギュルツェニヒ管150年』

★《『テノリッシモ』、パヴァロッティの死》

 9月6日、ルチアーノ・パヴァロッティが亡くなりました。71歳でした。パヴァロッティは去年ガンの手術を受け、今夏に入り容態が危ぶまれていました。  >>>パヴァロッティのサイト

 パヴァロッティの名はクラシック音楽に興味のない人でも知っています。『三大テノール』の一人としてもちろんのこと、パヴァロッティのイタリア民謡などのCDは常に全米ヒット・パレードで上位にランクされ、クラシック音楽がポップスを制したという伝説的な状況を生みました。

 パヴァロッティはイタリアのモデナに生まれました。父親はパン屋で、アマチュアを集めた市立合唱団のテナーでもありました。パヴァロッティは最初教職につき、その後歌手になる勉強を始めました。デビューは1961年、モデナ・オペラでの《ラ・ボエーム》のロドルフォ役でした。パヴァロッティはその後世界の有名オペラハウスに登場、そのたびに観客を興奮のるつぼに落としいれました。たとえば1988年2月にベルリンで行われた《愛の妙薬》でネモリーノ役を歌ったときは拍手が67分も続くという記録を作っています。

 死後、再放送されたインタヴューでは、パヴァロッティは飾らない発言をしていました。たとえば、三大テノールの話は実は長い間断り続けてきたこと。しかし友人のテノール歌手ホセ・カレーラスが白血病から立ち直ったことをお祝いする意味で承諾したこと。いざ引き受けてみると、コンサートではたくさん歌わなくてよく、負担にならないこと。その割にギャラが良い、等々を正直に話していました。また歌う前はとてもナーヴァスになり人に会いたくないこと。健康のために外出は極力避けていること。そして教師時代にはいじめっ子に手を焼いたこと。子供は純真無垢ではなく、子供と付き合うには膨大な知恵と努力、忍耐が必要なこと等、誠実に淡々と答えていました。

 パヴァロッティは数々のオペラで名唱を残しました。しかしパヴァロッティといえば、《オー・ソレ・ミオ》、《サンタ・ルチア》などイタリア民謡が頭に浮かびます。アメリカに新天地を求め移住したイタリアの貧しい人たちが、故郷を偲んで歌ったこれらの曲とパヴァロッティは切っても切り離せません。美しいソットヴォーチェからいきなり力強いフォルテに立ち上がる爽快さは南イタリア特有の青く澄んだ空と紺碧の海を思い出させます。20世紀が生んだ最高のテノールの一人、パヴァロッティは帰らぬ人となりました。

 

  
今日のソレント港。「帰れソレント」は、絶壁にたつ黄色い外壁のホテル(写真中央)のコマーシャルソングとして使用された。
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ナポリの美しい劇場、サン・カルロ劇場正面。
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《ケルン・コンサート協会創立180年、ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団創立150年記念コンサート》

 ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団は今年で創立150年を迎えました。ギュルツェニヒ管を創立したのはケルン・コンサート協会でした。この組織はオーケストラより30年前の1827年、ケルンの富裕市民が中心の音楽愛好家たちが創立しました。彼らはオーケストラと団員の経済基盤を保障し、コンサート・プログラムをつくり、作曲家と密接な関係を築き、彼らの作品をギュルツェニヒ管に演奏させました。ベルリオーズ、チャイコフスキー、メンデルスゾーン、ブラームス、ヴェルディ、マーラー、R.シュトラウスなどケルンと切っても切り離せない関係にあります。自分たちの意志で自由に音楽支援活動を行うというこの協会なしには今日のギュルツェニヒ管、そしてケルン市民の音楽生活は成り立たなかったことでしょう。


ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団創立150周年記念コンサートから。
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 ギュルツェニヒ管は戦後、ギュンター・ヴァントをギュルツェニヒ・カペルマイスター(主席指揮者)に迎え、ヴァントはケルン市音楽総監督も兼任し、長期間にわたりケルン市の音楽シーンに貢献しました。現在のギュルツェニヒ・カペルマイスター兼ケルン市音楽総監督はマルクス・シュテンツ(42歳)です。

 さて、9月9日に創立150年記念のガラ・コンサートが行われました。プログラムはベートーヴェン《ヴァイオリン協奏曲》とブラームス《交響曲第2番》でした。ソリストはケルン在住のフランク・ペーター・ツィンマーマン。このプログラムは実に良く考えられています。両方とも輝かしい調性のニ長調で、ガラにはぴったりです。またベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲はこのジャンルに記念すべき新しい一歩踏み出した作品です。ブラームスの交響曲2番も交響曲という伝統に立脚しながら新しい可能性を探った創造的作品です。『温故知新』と『創造』は創立記念ガラ・コンサートにぴったりのコンサート・ドラマトゥルギーです。

 またシュテンツ指揮ギュルツェニヒ管のコンサートには毎回『第3幕』という名の『びっくり箱』がついています。その日のプログラムにちなんだ10分前後の短い曲を紹介するものです。ガラ・コンサートでの『第3幕』はJ.S.バッハの《2つのヴァイオリンのための協奏曲》(ニ短調)でした。ヴァイオリンはフランク・ペーターと息子のセルゲ(16歳)のツィンマーマン父子でした。ガラ・コンサートにはノルトライン=ウェストファーレン州首相も顔を見せていました。この州では「子供すべてに楽器を」というプロジェクトがスタートしましたが、次世代を担うヴァイオリニストの一人としてのセルゲの登場は、このプロジェクトにとって象徴的なことです。ついでながら『3B(バッハ、ベートーヴェン、ブラームス)』というプログラムに聴衆は大満足、スタンディング・オーヴェーションで記念すべきガラ・コンサートを閉じています。

 
今やティーレマンに続く、ティーレマンよりレパートリーが多いドイツの若き大スター指揮者、ギュルツェニヒ・カペルマイスターのマルクス・シュテンツ(ソリストの背中はF.P.ツィンマーマン)。
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アンコールの第3幕に父親に伴われて登場したセルゲイ・ツィンマーマン(左)。
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