来住 千保美 Chiomi Kishi
第282回定期プログラムより
(2008年2月8日)

24. 『バイロイト』

 ドイツ南部、バイエルン州のバイロイトで毎夏開かれる『リヒャルト・ワーグナー祭』(http://www.bayreuther-festspiele.de/)はとても特殊なフェスティヴァルです。リヒャルト・ワーグナーの作品の中でも《さまよえるオランダ人》、《タンホイザー》、《ローエングリン》、《トリスタンとイゾルデ》、《ニュルンベルクのマイスタージンガー》、《ニーベルングの指環》、《パルジファル》だけを上演します。上演するのは毎年7月下旬から5週間で、バイロイトの祝祭劇場で上演します。期間中、稀に特別コンサートが行われることもありますが、ワーグナーの他の作品は上演しません。開催期間中以外は、フェスティヴァル前のリハーサル時期を除き劇場は閉鎖されます。世界一チケット入手が困難なフェスティヴァルであり、チケット申し込みから入手まで10年待ちは普通のようです。

 現在の支配人はウォルフガング・ワーグナー(88歳)です。彼はリヒャルト・ワ−グナーとコジマ(フランツ・リストの娘)の息子ジークフリートの次男で、作曲家の孫にあたります。

 ワーグナー祭は、1973年5月、公も加わる財団組織に改編し、ワーグナー家の家族経営を離れました。88年改訂の現財団規約によると、財団評議会の決定は24票の投票結果で決めます。投票権はドイツ連邦政府、バイエルン州政府がそれぞれ5票、ワーグナー家が4票、バイロイト市が3票、バイロイト友の会(ワーグナー協会)、オーバーフランケン行政区、バイエルン州財団がそれぞれ2票、そしてオーバーフランケン財団が1票を持っています。財団事務局長はバイロイト市長が務めています。


第282回定期パンフレットより

 01年、ウォルフガングは支配人を辞任したいと述べ、後任に2番目の妻グドゥルンを据えようとしました。ところが財団評議会はグドゥルンには後継者になる権利はないとし、ウォルフガングの先妻の娘エファ・ワーグナー=パスキエ(62歳)を後継支配人に決定しました。ウォルフガングはこの決定に不服で、財団規約が終身支配人を保証していることを盾に辞任を撤回し、今日に至っていました。それから6年、高齢のウォルフガングの健康状態への疑問符は大きくなるばかりで、この秋、後継者問題が再燃しました。

 後継者として一番に名乗り出たのは、グドゥルンとの娘カタリーナ(29歳)です。最近ファッション・モデルのような写真やインタビューでメディアに派手に登場し、07年のバイロイトの新制作≪マイスタージンガー≫では演出家としてバイロイト・デビューも果たしました。カタリーナはドイツの若手スター指揮者クリスティアン・ティーレマン、夏のザルツブルク・フェスティヴァル前支配人ペーター・ルジチカと組み新バイロイトを率いたいと宣言しました。

 これに対し、エファは「私の若い妹は、母親の操り人形という嫌疑を晴らすべきだ」と述べ、グドゥルンに対しては「彼女は1976年、先妻の子供である私と弟を突然家から追い出した。私たちは非常に傷つき、母親は破滅に追いやられた。立ち直るのに何年もかかった」とも述べていました。

 もう一人の候補者ニケ・ワーグナー(62歳)はウォルフガングの兄ヴィーラントの娘で、現在ワイマール芸術祭支配人を務めています。彼女も父ヴィーラントの死後、母・兄弟と共にウォルフガングからバイロイトを追われました。ニケも「バイロイトにとって重要なのは権力ではなくリヒャルト・ワーグナーの芸術だ」と批判し、9月末にエファと共同で運営を引き受けると、次期支配人立候補を明らかにしました。

 この立候補に、カタリーナは腹違いの姉エファと従姉妹のニケに対し「二人共60歳をすぎ、バイロイトの将来を担うには歳をとりすぎだ。年金生活者として余生を送るのが適している」と、品位と尊敬に欠ける発言をし不評をかっていました。

 11月6日、注目を集めた財団理事会には予想通りウォルフガングは欠席し、彼の代理人として2人の弁護士が送り込まれました。結局、後継者問題はいっこうに進展せず、後継者問題も来春まで持ち越されました。

 ところが11月28日、グドゥルンが急死するという予期しない展開になりました(享年63歳)。グドゥルンはまずバイロイトの広報スタッフとなり、バイロイトの広報部長だった音楽学者のマックと結婚・離婚、76年にウォルフガングと再婚、78年カタリーナを生みました。グドゥルンが芸術面や人事面に大きな影響力を持つ『影の支配人』だったことは周知の事実です。01年、彼女は財団理事会で自身が支配人の座を得られないと知ると、ウォルフガングに即座に辞意を撤回させ、娘の成長を待ちました。そして今年、娘をバイロイトで演出家デビューさせ、ティーレマンとルジチカとのトロイカ体制をつくらせ『ウォルフガング後』を固め、自分の影響力をより強固にしようとした矢先のことでした。

 ワーグナー家では女性の影響力が伝統的にとても強いのです。リヒャルトの妻コジマはリヒャルト没後、ワーグナー祭をとりしきりました。息子ジークフリート死後はその妻ヴィニフレートがワーグナー祭をとりしきりました。彼女はヒットラーと親密な関係にあり、戦後、表舞台に出ることを禁止されました。

 ワーグナー祭は今日公の財団組織で運営しています。ですからワーグナー家の血脈が運営に関わる必要性には疑問をはさむ声もあります。しかしワーグナー祭にワーグナー家はその象徴的存在としてこれからも関わっていくことでしょう。そうであれば今後のワーグナー祭は、エファ、ニケ、カタリーナの誰が支配人になろうとも、表舞台に立つのは女性になります。