岸 浩 Co Kishi
第302回定期プログラムより
(2010年7月21日)
第302回定期パンフレットより
44. 『スター歌手たち、そして最近のスター歌手たち

 4月末、ニュージーランド生まれのスター・ソプラノ、キリ・テ・カナワがケルンでヨーロッパのさよならオペラ公演とリサイタルをした。オペラは≪バラの騎士≫のマーシャリン役だった。彼女を初めて聴いたのは72年か73年のことで、ヨーロッパ大陸のデビューだった。当初から声の大きい歌手ではなかったが、独特のオーラのある人だった。ちなみに彼女とほぼ同時期に、ブルガリア生まれのアンナ・トモワ=シントウもケルンにデビューした。

 この2人の前、70年代初頭にはイギリス生まれのマーガレット・プライス、ハンガリー生まれのユリア・ヴァラディもケルンにデビューしていた。これら4人は当時のケルン・オペラ音楽総監督、指揮者のイシュトヴァン・ケルテスが連れて来た歌手だ。4人とも40年代初めの生まれだが、今日ときおりステージに立つのはトモワ=シントウだけになった。テ・カナワは来年アメリカでステージ生活を閉じると伝えている。

 69年からヨーロッパでさまざまな歌手を聴いてきたが、女声ではスウェーデン出身のビルギット・ニルソンは忘れられない。彼女は60歳前後でまだワーグナーのイゾルデを歌い、クリスタルのような透明度の高い強靭な声で、超人的ワーグナー歌手だった。20世紀に名を残した巨人だ。巨人というと、マリア・カラスは残念ながら聴けなかった。では歌手はいったい何歳まで歌えるのだろう?女声では長い人でもだいたい65歳前後でステージから引退している。

 スター歌手のうち高年齢になっても歌っていたニコライ・ゲッダ、アルフレード・クラウスも忘れられない。スウェーデン出身のゲッダは25年生まれ、オーストリア系スペイン人のクラウスは27年生まれだが、この2人とも60歳代後半に聴いている。歌唱技術と表現力で秀でた歌手だった。先日はテナーのルネ・コロがケルンで新作オペラに登場し、まだ現役歌手であることを見せつけた。彼は72歳だ。プラシド・ドミンゴはまもなく70歳、彼も現役だ。ドミンゴの秀でたところはプッチーニ、ヴェルディにとどまらず、ワーグナーもそのレパートリーに入れていることだろう。

 最初にドミンゴを聴いたのは69年か70年のハンブルクで、その後70年代前半にはミュンヘンで、プッチーニやヴェルディを何回か聴いた。ドミンゴの30歳頃だ。当時既にスターとして知られてはいたが、その後の大きなホールを満たす声の力はまだなかった。

 これら高年齢まで歌った歌手に共通するのは、歌う基本ができているということだろう。ドミンゴは例外としても、どの歌手も30代の前半までは作品ごとに発声技術の基礎をみっちり身体に覚えさせている。これまで名の出た歌手はソプラノとテノールだが、バリトンやバス歌手も頑張っている。フィンランド出身のマティ・サルミーネンは65歳だが、まだまだ現役だ。みな若いときの努力が実っているようだ。サルミーネンもケルンでスタートした人だ。つまり20代の終わりから聴いてきたことになる。

 スター歌手は次々に誕生し、次々に消えてゆく。現在のスター歌手というとロシア出身のソプラノ、アンナ・ネトレプコ(38歳)、ラトヴィア出身のメゾ・ソプラノ、エリーナ・ガランチャ(34歳)、メキシコ出身のテノール、ロランド・ビリャソン(38歳)といった人たちをまず思い出す。これらの人たちは主にイタリアの作品を歌っている。

 ガランチャはドイツの地方劇場マイニンゲンでスタートし、フランクフルトを経ているので、本来モーツァルトからビゼーまで、レパートリーは広いはずだ。いまの彼女ならワーグナーも歌える。というよりドイツ物のほうが向いているように思う。またソプラノに転向する可能性もある。今後が楽しみだ。

 ドイツの小さな劇場でスタートしたというとドイツのスター・テノール、ヨナス・カウフマン(41歳)も忘れられない。ザールブリュッケンでスタートし、シュトゥットガルト等でキャリアを積み、それから10年、いまやヴェルディからワーグナーまで広いレパートリーでスターに仲間入りした。立ち上がりのよい突き刺すような声で、ドイツ物のテノールではトップだろう。

 スター歌手といってもオールマイティな人などいない。イタリア出身のメゾ・ソプラノ、チェチリア・バルトリ(44歳)はレパートリーが限定されるが、その独特の歌唱技術で独自の世界を築いている人だ。ペルー出身のテナー、ホアン・ディエゴ・フローレス(37歳)もレパートリーは非常に限定されるが、非凡な才能を見せるスターだ。

 楽譜の表面を撫ぜるだけの美声歌手は多いが、名歌手の高みに達する人は少ない。周囲のサポートで早々とスターの座に就いたネトレプコもそんな一人だろう。20年後も歌っているだろうか?現実は名声に内実が伴っていない。

 こうして見てくると、イタリアものに限定すればマリア・カラスは類まれな20世紀の大歌手だった。

 と書いてきたところで、歌曲の世界を忘れかけた。ドイツ歌曲の世界では既に引退しているが、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウの功績は忘れられない。彼も20世紀に名を残す歌手だ。このあとを継ぐいまの歌手というと、クリスティアン・ゲアハーアー(43歳)だろう。美声に溺れず、歌曲分野で素晴らしい後進を育てながら独自の世界を築き上げている。

 実は現在商業主義に乗ってスター歌手と騒がれる一部歌手より、もっと歌のうまい素晴らしい歌手は何人もいる。それが歌手を聴く楽しみだと思うのだが・・。