Wienerische Ensemble Kyoto


〜 ディヴェルティメント「音楽の冗談」ヘ長調 K.522 〜


scene
作曲年代 1787年6月14日、ウィーン

楽器編成 
ホルン2、ヴァイオリン2、ヴィオラ、コントラバス(当アンサンブルではチェロも演奏に加わります)

1楽章 
アレグロ ヘ長調 4分の4拍子
2楽章 
メヌエット・マエストーソ ヘ長調 4分の3拍子
3楽章 
アダージョ・カンタービレ ハ長調 2分の2拍子
4楽章 
プレスト ヘ長調 4分の2拍子

歳の頃にして姉を真似てクラヴィーアを弾きたがり、放っておくといろんな和音を試して弾いて遊んでいたが、3度や6度の和音に特別の興味を示し、ドとミやミとソ、などを鳴らしてはうっとりした表情を示していたとか、5歳の頃には最初の作品を書いた、などの逸話が残るように、生まれながらに並外れた音楽的才能や感覚を持っていたと思われるモーツァルトですが、さらにモーツァルトにとって幸運だったのは、自らの父親が当代屈指の優れた音楽教師で あったことに加え、当時最高レベルのヨーロッパ中の音楽家・作曲家から直接教えを受けてその才能を磨くチャンスを与えられた事(それを実現するために努力した父親の熱意に感謝。でも他面どこかの国の宮廷作曲家として息子を就職させるのが目的だったからという打算的な面が大きかったようです。また幼いモーツァルトにとって健康面への影響が決して小さくは無かったヨーロッパ各地への何度もの大旅行を伴うものでした)、それだけでなくモーツァルト本人がたゆまない努力を続ける事によって天与の才を飛躍させる事に成功し、ただの神童に終わらなかった事で、モーツァルトが古今の作曲家の中でも飛びぬけた評価を受けているのはみなさんご存知のとおりです。

ーツァルトが作曲家として超がつく一流になり得たのは持って生まれたそうした才能(の芽)に加えその後の弛まぬ努力があったればこそという研究結果が専らで、

1)本当に音楽が好きだったので、普通なら耐え難いと思われる作曲の修行や楽器の練習をことごとく吸収して行ったこと(直感に優れ理解力もあった=飲み込みが早かった、のでしょうね)、
2)また、その努力をずっと継続できた事(飽きなかった、嫌いにならなかったこと)、
3)聴衆が喜ぶ音楽とはどういうものかを即座に理解し即応できる能力があったこと(この才能は努力だけでは得られませんが)だと分析されているようです。

て、映画「アマデウス」をご覧になった方は思い出してみてください。サリエリが同じシーンに登場するのでおそらくヨーゼフ2世の御前演奏のシーンだったと思われます。宮廷楽長サリエリが呻吟してこしらえたモーツァルト歓迎のための「平凡なメロディ」をそれこそ魔法のように巧みに料理してモーツァルトがあっという間に活き活きとしたメロディに作り変えていく(技巧的には主題作者に敬意を表し、変奏なんでしょうが、映画の都合上最終的にはフィガロの有名なアリアになっていてびっくり!)エピソードがありました。この挿話は映画向けに創作されたものだと思われますが、近い話はあったに違いありません。素晴らしいメロディを作る才能に自らが恵まれていた上に、与えられた素材を上手に生かすテクニックを身につけていた作曲家だったのではないでしょうか。

ーツァルト自身の作った作品カタログに「音楽の冗談」と記録されており、別名「村の楽士の六重奏曲」とも呼ばれるこの作品は一風変わったスタイル、雰囲気を醸し出しています。この頃、30歳を越えあらゆるジャンルで円熟した作品を世に送り続けていた時期に当たり、前年の1786年にはピアノ協奏曲第25番ハ長調や交響曲第38番「プラハ」を、そして1787年になると、この「音楽の冗談」の前には弦楽五重奏曲ハ長調K.515、ト短調K.516、以後には「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」、オペラ「ドンジョバンニ」などの傑作を作曲していた時期にあたります。そんな中で、この「音楽の冗談」に限っては作曲意図がよく分かっていません。曲の構成はメヌエットおよび緩徐楽章を含む4楽章からなる交響曲のような形態になっていますが、いずれの楽章にもモーツァルトだったらきっとこんな事はしないよ、という音楽的な誤りが巧みに用いられており、何も知らないくせに交響曲の作曲ができると自惚れている自称作曲家に対する揶揄を表現しているという解釈が有力とされています。曲の構成を見てみるとまず各楽章の規模のバランスの悪さが指摘されます。普通なら作品中で最も重要な
位置づけになり作曲家が最も力を入れるはずの第1楽章が他の楽章に比べ一番短いこと、全曲の締めくくりであるフィナーレも次いで短いのに対して、2楽章メヌエットと3楽章アダージョが極端に長くバランス感覚の無さを表しています。この作品と対比される完璧な構成を持つ作品がほとんど同じ時期に作曲されたアイネ・クライネ・ナハト・ムジークです。作曲理論的にも、5度の並行やアダージョ冒頭の誤った音、不必要に自己主張するヴァイオリンのカデンツァ、フィナーレのフーガや各自ばらばらの調性で一気に終わる終止、等が誤った作曲手法とさ
れています。ホルン奏者の立場から付け加えると、メヌエット楽章のホルンの不協和音やフィナーレの変なトリルなど、当時の楽器いわゆるナチュラルホルンできちんと作曲家の意図どおりに演奏するのはさぞかし大変だっただろうなと思います。

の曲が完成されたと言われる6月の少し前1787年5月28日モーツァルトは良き教育者であり保護者でもあった父レオポルトの訃報に接します。ウィーンへ単身移り住み独立する前後から父親との仲がうまく行ってなかったモーツァルトは故郷ザルツブルグで営まれた葬儀に出席する事もありませんでした。音楽の冗談は父レオポルトが作曲した「シンフォニア・ブルレスカ」や「農夫の結婚」などとの共通性を指摘されるように、父親の死が作曲の動機になんらかのきっかけ・影響があったのではないかと思います。

の直前にモーツァルトが病状篤い父親あてに書き送った手紙にはこう書かれています。「私は何ごとにも最悪のことを考えるのが習慣になっています。死は私達の一生の真の最終目標なのですから、人間のこの真の最善の友と親しくなって、その姿が何も恐ろしいものでなくなり、私にはむしろ多くの安らぎと慰めを与えるものとなっています。そして神様が私に、死が真の幸福の鍵だと知る機会を幸いにも恵んで下さったことに感謝しています。私はまだこんなに若いのですがもしかしたら明日はもうこの世にいないのではないかと、考えずに床につくことは一度もありません。それでいて、私を知っている人は、誰も私の交際で不機嫌だったり憂欝だったりすると言う者はあ
りません。」この時点でモーツァルトが自分自身の余命を感じていたかどうかは知る由も有りませんが、亡くなるまでの約4年間に3大交響曲、歌劇「魔笛」、 当日もう1曲演奏される「クラリネット五重奏」などのたくさんの傑作を世に残しています。

(Shin-ichi Mori/ 2nd Whr)


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