ある日の朝刊に、僕にとって一つの残念な記事が載っていた。カルロ・マリア・ジュリーニの引退を知らせる小さな記事だ。 「私はたくさん指揮するということができません。なぜなら音楽はいつも全く新しい体験なのであり、大きな情感を要するからです。」
名匠の演奏を、もう生では聴けなくなった。
高校生の頃、僕はオーケストラ活動に夢中だった。年に一度の演奏会は、決まって日比谷公会堂で、10月10日だった。人生で初めての演奏会のことは、かつての音楽の殿堂の響きとともに、記憶のなかに鮮明に残っている。毎日チェロを弾き、その騒音に悩まされた英語の先生には 「おまえらは音高に来たんじゃないだろう」 と愚痴を言われ、練習が終われば喫茶店に流れて、一杯のコーヒーで2、3時間は入り浸っていた。そんな頃から熱烈に憧れていたのが、ジュリーニだ。
1982年5月14日、ロサンゼルス・フィルのチケットを手に東京文化会館に出かけた。この日のチケットを手にしたのはまだ寒い頃だったから、何ヶ月も前からこの日が来るのを待ちこがれていた。家をでるとき、「今日は帰ってこないかもしれない」 と、なかば真剣に言ったのをいまでも覚えている。 「鞄持ちでもいいからついていきたい」、そんな気持ちで僕のこころはいっぱいだった。席は1階3列16番。見上げれば、ジュリーニが立ち、指揮する姿を間近に見ることができる、絶好の席だった。プログラムは 「火の鳥」 「マ・メール・ロワ」、そして 「ブラ1」。ジュリーニはゆっくりとした足取りで登場した。その落ち着いた姿は、彼の音楽作りに対する姿勢そのものだった。
実は、この日の白眉は演奏会の後にあった。楽屋口でジュリーニの出て来るのを待っていると、長身で細身の姿が螺旋階段を上がってきた。たくさんのファンが待ち受ける中、ジュリーニは用意された机の前に腰掛け、一人ずつ丁寧にサインをはじめた。僕も列にならんだ。ずいぶん待ったが、とうとう順番がやってきた。サインを書いてもらおうと取り出したのは、シューベルトの 「グレイト」 のスコア。高校のオーケストラで取り組んでいた曲だった。 「どこに書いたらいいだろう」 そう聞かれたので、中表紙を希望すると 「作曲家の名前と自分のそれを並べることはできない」 と言いながら、表紙の裏に書いてくれた。スコアを受け取りながら交わした握手の感触は今でも手の中に残っている。大きな、しっかりとした、温かい手だった。
ジュリーニがやっと車に乗り込んだ時はすでに午後10時をまわっていたが、僕はその場を離れることができなかった。車が遠ざかっていくのを見送っていたそのとき、ジュリーニが後ろの席から僕に向かって手を振ってくれたのだ。あまりに突然のことで、恥ずかしさとうれしさのなかで僕も手をあげた。
ジュリーニが、もっとすきになった。
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