バンクオ−ストリア近くのウィーンシュタットパーク
MEOメンバーのNさんが日記ふうに綴ったウィーンの体験記です
演奏会:KULTUR MITTAG
場所:Festsaal Bank Austria, Gigergasse 8, Wien 1030
主催:Bank Austria
日時:1999年11月26日(金) 19:00開演
プログラム:
Pompose by Henry Purcell
Japanese Songs 'Sakura' 'Oedo Nihonbashi' arranged by Yoshiaki Fujiwara
Piano Concerto No.20 by W.A.Mozart
Crisantemi by Giacomo Puccini
Pieces by Franz Schubert
Nocturn No.2 by Frederic Chopin
Piano piece by Johannes Brahms
太字の演目がMozart Ensemble Orchestraによるもの。
指揮=藤原義章、独唱=中田留美子、ピアノ=マインハルト・プリンツ
◆◆◆
11月23日の夕刻、私達は貸しきりバスでウィーン入りした。
Wolfsburgで私達が雪に見舞われている時、ウィーンも同じような天候だっただろうに、
さすがに都会にはあまり雪が残っていなかった。道路には路面電車の線路が至る所に
敷かれており、石造りの重厚な建物を上品なクリスマスのイルミネーションが華やかさを
演出していた。
さすがは音楽の都、楽器のケースを抱えた人の姿が頻繁に目にとまった。
Wolfsbergとは異なり道行く人の数も多く、何と言っても街のスケールが広大なため、
演奏家としての私達の存在が、その街においては非常に小さな取るに足らぬ存在に思えた。
ホテルに到着してみると、私達が参加する音楽会‘Bank Austria Kultur Mittag'
の主催者Westerhof夫人より私達宛てに、歓迎のメッセージと一人に一本ずつのワインが
届けられていた。
私はそのボトルを手に、自分の部屋に入ると早速お礼の意を伝えるべくWesterhof夫妻宅に
電話をかけたが、残念ながら不在だったため後ほどかけなおすことにした。
数時間後、私は気を取り直して再びWesterhof夫妻宅に電話をかけると、夫人が出られた。
私はウィーンの印象やWolfsbergでの演奏会について話し、夫人の温かいメッセージと
ワインのお礼を告げると、彼女は「ウィーンは寒いので、是非そのワインを飲んで暖を
取ってください。」と、おっしゃった。
私は温暖な日本からやってきた私達に対する細やかな心配りに改めて感謝し、
「3日後に控えた演奏会では夫人の厚意に十分応えられるよう演奏するので
どうかお楽しみください」と結び、電話を切った。
まだ11月だというのに、確かにウィーンは寒かった。
CNNの天気予報によると同じ頃パリやロンドンは最高気温が摂氏7〜10度くらいだったが、
なぜかウィーンは3〜4度と、寒い日が続いた。
私達の滞在中には吹雪いた日もあった程だ。
そんな中、ワインで体を温めるというのは非常に名案だと思ったが、生憎私はアルコールに
強くないため、頂いたフルボトルの栓を開けても、4日間の滞在期間中に飲みきることが
出来ず無駄にしてしまうのが関の山だと思い、持ち帰ることにした。少々かさ張るが
良い記念になる。
演奏会までの2日間は自由時間で、私達はそれぞれ音楽会や美術館に足を運んだり
ショッピングを楽しんだり、また近郊の町へ観光に出かけたりして過ごした。
ゲネプロ
演奏会当日の朝、私達はゲネプロを行うため、宿泊ホテルから徒歩約2分の所にある
Bank Austriaへ移動した。
会場であるイベントホールは天井が低く、ステージもWolfsbergのそれよりもやや狭かった。
そのため私達の演奏位置も通常と異なり、客席から見て左から1stヴァイオリン、
2ndヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ、金管楽器、そして後列にコントラバスと木管楽器が並ぶ
というものだった。
藤原先生の編曲による日本の唄「さくら」と「お江戸日本橋」の楽譜も更に加筆され、
前回の演奏の時とは趣が異なっており、しかもこの2曲を切れ目なく連続して演奏する
ということになっていた。
様々な要素の変化に若干動揺を覚えたが、速やかにゲネプロはスタートした。
環境の変化と言えば、チェロやコントラバスの奏者は現地で拝借した弾きなれない
楽器で演奏をしなければならないのだから、尚更緊張したことだろう。
幸い今回借りた楽器には何の問題も無く、中にはむしろ上等すぎる物もあったということだ。
肝心の音だが、天井の低さのせいか残響が殆ど無い様に感じられた。
そのため私達は一音一音を通常よりやや長めに弾く努力をしなければならなかった。
ところが、弓を先まで一杯に使うとその狭い空間では右手が隣の奏者の体や椅子に
当たってしまうため非常に苦労した。
私はと言えば、席の真横には柱があったため弓を持つ右手が当たらぬよう、
椅子の位置をずらしてみようとも考えたが、生憎その範囲も限られており
不自然に体をひねった状態で演奏しなければならなかった。
藤原先生の加筆によって日本の唄の楽譜のピチカート部分と休小節が増加しており、
弓を動かすために右腕を伸ばさなくてはならない部分が大幅に削減されていたことは
少なからず救いだった。
また、ウィーンでの演目は日本の唄とピアノ協奏曲のみだったため、
このような環境においても集中力を持続することが出来そうだった。
昼頃にゲネプロは終了し、開演までの数時間は自由時間だった。
通常、演奏会前には異常に緊張する私も、この日ばかりはリラックスし友人と街へ出かけ、
国立オペラ座近くで昼食をとったり土産物を買ったりして過ごした。
ヨーロッパ一の品揃えを誇るという楽譜店 Doblingerに立ち寄ると、店内には
私達のオーケストラメンバーの何人かの姿があった。やはり皆、音楽好きなのだと
改めて実感した。
Doblingerの店構えは想像していたより小ぢんまりとしていたが、恐らく奥に
倉庫でもあるのだろう。
暫くの間、私は楽譜を物色したが、事前に日本で下調べをしなかったため、
どの楽譜が日本で入手困難であるのか見当がつかなかった。
また、楽譜の値段はさほど安くなかったため、無理に買い込む必要も無い
ということで適当に見きりをつけて店を出た。
ウィーンを訪れるのだったら、事前に購入すべき楽譜リストを作成しておくべきだ、
というのがここで得た教訓である。
コンサート
夜の演奏会は、複数の団体が参加し演奏を披露するというものだった。
他の演奏者はソロやカルテットで、大人数は私達だけだった。
会場は通常のコンサートホールとは違い、広い楽屋も無くまた客席にも
私達全員を収容するほどの余裕が無かったため、私達は終始ステージに座していた。
トランペットのファンファーレで会が始まり、続いて私達の出番である。
会場が満席だったため残響がさらに減少しており、独唱者やピアニストの持つ
豊かな表現が観衆に届いているのかどうか、非常に気になった。
私は右腕を何度も柱にぶつけながら演奏をしたが、それはそれで微笑ましい
思い出となった。
後で、客席で演奏を聞いていた人に聞いたところ、私達が心配していた程
音は萎縮しておらず適度にまとまっていたということだったので安心した。
私達の演奏が済むと、歌手やピアニストやカルテットが登場し次々と演奏を
披露して行った。
ステージ上に残っていた私達はそれらのパフォーマンスを後ろから鑑賞していた訳だが、
臨場感があり非常に楽しい時間を過ごすことが出来た。
全ての演目が済むと、締めくくりということで、私達はシュトラウスの「ウィーンの森の物語」を
披露した。Wolfsbergの時のように、曲の途中で拍手が沸き起こることこそ無かったが、
演奏後には満場の拍手が鳴り響き会は無事終了した。
ここでも、演奏者の女性には花束が、男性にはワインが贈られた。
ウィーン滞在中に聴きに行った演奏会でも同じような光景を目にしたことがあったが、
恐らくオーストリアでは演奏者にワインを贈るということが一般的なのだろう。
あるいは、パフォーマンスに対してではなく日常的にワインを贈り合うという習慣が
あるのかもしれない。
もしそうだとしたら、いかにもヨーロッパ的で洒落た習慣だなと思った。
振り返ってみると、ウィーン滞在中は緊張感も和らぎリラックスして
街そのものを満喫することが出来た。
幾つかの演奏会を鑑賞し、土地の人とも触れ合い、現地の聴衆の前で演奏を
披露することが出来たというのは、アマチュアの演奏家である私達にとって
非常に贅沢な経験だったと思う。
また演奏について言えば、現地の観客が、彼等とは異なる歴史的文化的背景を
持った私達の演奏をどのように受けとめるのだろうということを強く意識したために、
日本国内で演奏する時以上に自分達の音を客観的に見ることが出来たように思う。
このことは、この先私達が演奏を続けて行くうえで、大いに活かされて行くのではないかと思う。
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