≪愛響とわたし≫
愛響はわたしの青春! 竹内 道(ヴィオラ)
昭和24、5年頃だったと思う。松山放送管弦楽団を母体に、オーケストラを作ろうと呼びかけがあった。当時は戦後日も浅く、今日では想像もできぬ物資不足の時代だった。硬質ペンが使えない様なやわらかい紙に、ハイドンの交響曲く驚情〉を手書きで写譜したのを覚えている。ヴィオラが手に入らなくてヴァイオリンで代用した事もある。随分な苦労をしながら、それでも音キチの集団が心を一つに合わせ“松山交響楽団”と銘打って、華々しく旗揚げし演奏会を開いたものだ。しかし一応成功はするのだが、どうしてか続かない。2、3回の公演で終わりになってしまう。この様なことを何度か繰り返して、とうとう消えてしまった。
この様な経験を持つ私は、昭和47年に愛媛交響楽団が誕生した時、正直言ってあまり期待しなかった。
ところが今度は本物だった。平成2年の現在まで脈々と続いている。その強カな牽引役は河野理事長夫妻と山田前事務局長であった。さらに幹部の方々の想像を絶する御苦労があった。又それにもまして愛響ファンの方々の絶大な支援があった。アマチュアオーケストラでありながら、初回からプロの指揮者・奏者に出演していただいて一団員の私としては、無料でレッスンを受けて上達していくようなもったいない気分だった。
創立当時より居座っている14、5人の方々の他は、メンバー構成も随分様変わりしたが、長い年月にはマンネリになった危機もあった。しかし“音楽が好きだ”を共通項にグループを大切にしたい和合の気打ちは、ずっと一貫している。
臨月でステージに立たれた桑原ちえ子さんのお腹に居たお嬢さんが、はや高校3年生で演奏活動をされているとは・…・。時の流れの早さには驚くばかりだ。メンバーとの出会いと別れ、いろいろ愉しいことやつらいことがあった。愛響の歴史を物語る曲がFMから流れてくる時、さまざまな想い出に浸ってしまう。
平素はライバル風に張り合う弦と管が、本番でお互いに成功を願い祈る気持ちになる時、しみじみオーケストラに参加して良かったと思う。
青少年の非行を耳にする時、私は若い方々に何でもいいから楽器を手にしてオーケストラに参加し、その調和の醍醐味、満足感を体験して欲しいと思う。
時代と共に愛響の在り方も変化していくことと思うが、理事長先生の暖かい御配慮のもと、中田事務局長、トレーナー、コンサートマスターを中心に、郷土のオーケストラ“愛響”をいついつまでも存続させたい。
「愛響はわたしの青春」これからも大いに愉しみたい。
オーケストラとともに 北川謙二(ヴァイオリン)
私がヴァイオリンを習い始めたのは宇和島の小学3年生の時でした。親の勧めがきっかけでしたが、ほとんど半強制的でした。はっきり言ってヴァイオリンは大嫌いでした。私が通っていた田舎の小学校でヴァイオリンなどを習っている子は他に一人もなく、なぜ自分だけがこんなものをやらなければならないのかつくづく疑問でした。日曜日にヴァイオリンのケースを待って歩いているのを人に見られるのはとても恥ずかしく嫌でした。日曜日はレッスンに通うよりも友達といっしょに野球をやりたかったのです。
そんな私が初めて生のオーケストラを聴いたのは中学1年生の時でした。あれは確か愛知教育大学のオーケストラだったと記憶していますが、学校の体育館でいろいろな演奏をしてくれました。その時の感動を今でも鮮明に覚えています。まず何と言っても圧倒的な音の追力、いろいろ音色の異なった楽器が次々とメロディーを奏でる面白さ、弦楽器の美しいハーモニー。大勢で弾いたヴァイオリンの音があんなにきれいだとは知りませんでした。楽器紹介もありました。その中で第1ヴァイオリンのトップはコンサートマスターといって、ヴァイオリンだけでなくオーケストラ全体をリードしていく立場にあるという説明もありました。『自分がやってきたヴァイオリンという楽器も案外面白いのかもしれない。そしていつかオーケストラでヴァイオリンを弾いてみたい。』と思いました。
私が実際にオーケストラの一員として練習に参加でさたのはそれから6年後、上京して大学生になったときでした。初めて見たオーケストラの譜面はとてつもなく難しく、全然弾けませんでした。オーケストラを続けていける自信は全くなく、いつやめても不思議ではない落ちこぼれの1年生でした。しかし尊敬する先輩の暖かい励ましもあり再びレッスンに通い始め、音階や運弓の練習をやり直しました。学生時代のオーケストラは楽しいことばかりではなく、弾けなくてつらかった思い出も多いけれど、生涯の親友にも恵まれ、充実した4年間を過ごすことができました。
卒業して就職のために愛媛に帰るとすぐに迷わず愛響に入りました。昭和56年春のことです。それから今年でもう10年目、その間毎年夏と冬の2回の演奏会に1度も休むことなく参加してきました。今私は練習に行くことがとても楽しいし、ヴァイオリンを続けてきて良かったと思っています。毎年サマーコンサートの前日、小学5年生を対象にして開催している「えひめこどものための音楽会」や、県内各地を巡る移動公演には何とか参加したいと思っています。その昔宇和島に来てくれたオーケストラヘのささやかな恩返しのつもりです。この中から何人かでもオーケストラに興味を持ってくれる人が出て、いずれ愛響でいっしょに音楽を楽しむことができたらといつも願っています。
今日のサマーコンサートに御来場下さったお客様のなかには最近楽器を始めたばかりの若い方がいらっしゃるかもしれません。またそういうお子さんをお持ちのお父さんお母さんもいらっしゃるかもしれません。どうか嫌になってもやめてしまわず、そしてできれば嫌にならず自然な形で楽しく続けていただきたいと思います。長く続ければきっといいことがあると私は信じています。たくさんの若い方々が愛響に参加して下さることをメンバー一同心からお待ちしています。
打楽器奏者の場合 花岡まり子(ティンパニ)
愛響の演奏会に行き始めたのは、中学生の頃だったと思う。ブラスにはない弦楽器の響き、オケの原曲に親しむと共に、打楽器の演奏や楽器の良さに心魅かれたものだった。当時、ペダル式(ペダル操作で音程が変わる)のティンパニは中学生にとって普通の楽器ではなかったからである。曲の途中で音程を変える時などは、8個のネジを全部手動操作しなければならないため、「いかにすばやく、回転数と音程の関係を把えるか」という技術(勘)を要求されたものだった。現在ではぺダル式ティンパニの使用が当たり前になっている。
ところで、打楽器はティンパニの音程変更に限らず、曲の途中での撥(ばち)の持ち替え、楽器間の移動等、結構忙しいことがある。練習中「〜の何小節目から」という指示に、どの楽器と撥を用意すればよいのか瞬時に判断しなければならない。この対応に遅れると指揮者に嫌な顔をされてしまう。しかも練習は行きつ戻りつが多いから、次の準備を心がけながらも、いつ止められて元に戻っても慌てず騷がず、指示を冷静に受け止めるしかない。時には休みの途中に返ることもあるから(これは打楽器に限らないが)残りの休みも計算しなければならない。慣れてくると曲の運びが分かってくるから、不必要な計算はしなくて済むようになる。もちろんいつもこのような緊張状態にある訳ではなく、何十分もある曲の中で1発しか出番のないこともある。成功するかどうかというプレッシャーが大きなパートだが、それを又楽しんでいる奏者も少なくないと思う。
とにかく合奏経験が必要なパートだけに、愛響の年2回の演奏会とそれに伴う練習はとても有難いものである。曲が決まった時から必要人数の多少、楽器の調達等で一喜一憂し、最初は流動的な役割も練習の回を重ねる度に定着してくる。いろいろな人の手を借りて調達されてきた特殊楽器(手作り楽器)も揃うと、いよいよ本番が近くなる。理想的な練習形態とは異なるかもしれないが、合奏に参加する中でしだいに自分の位置を見出してゆく。練習が進むにつれ楽譜を見る目が血走らずに済んだり、休みの勘定に馴れたりするように、楽しさと緊張感のバランスが本番前には良い状態に近づくように思う。毎回ベターでありたいし、何かが伝わる演奏会でありたいと思う。何度も愛響を聞きにきて下さっている方には、その辺りが良くお分かりいただけるのではないかと思うのだが……。
愛響に入団して 大宮規史(フルート)
「下手の横好き]という言葉がありますが、私に余りにぴったり当てはまるのに、思わず一人で苦笑してしまうことがあるくらいです。これほどまでに音楽を好きになった過程を思い返してみますと、私の生まれ育ったのは長野県の田舎町ですが、戦後間もない頃からアマチュアのオケがあり、子供の時、年2回春と秋に行われる定期演奏会をよく聞きに行さました。これが大きな要因の一つになっているようです。子供ながらに、決して上手な演奏とは思えなかったのですが(現在は相当にレベルアップしていることと思います)、自分の教えてもらっている小学校の先生がコントラバスを弾いたり、顔見知りの隣町の歯医者さん親子が揃ってホルンを吹いたりで、何とも和やかなムードの中での演奏会でした。生の演奏会なんてものはほとんどなかった田舎の町で、小学生だった私にそれが大きく作用したことは確かでした。また小学4、5年生の頃家にあったSPレコードの中で、モイーズの吹いた「ヴェニスの謝肉奈」が私のお気に入りで、これがフルートの音に魅せられた最初でした。高校生の時、2回ほどそのアマオケにピンチヒッターで出演させてもらったこと。大学のオケで吹いたこと。このくらいの経験があるだけで、学校を卒業し就職して以来、オケで吹くことは到底無埋だろうとあさらめていました。それが昨年、何とかやれそうだということで、思い切って入団した訳です。
20余年ぶりにオケの中で吹くフルートは、まるでかつての恋人に再会したような興奮と緊張をもたらし、あたかも少年時代から青春時代の懐かしい自分を取り戻したような気分にさせてくれました。ただ20年前と変わって、テクニックのレベルアップは、プロの世界だけにとどまらずアマオケも同様で、私の力量では折角再会できた恋人に嫌われてしまわないかと心配になるほどです。仕事・時間に追われ、遅れて練習場に入りウォーミングアップなし、チューニングなしのことが多く、団員の皆さんに迷惑をかけながら冷汗もので何とか吹いています。しかし、冷汗・脂汗の後、音楽の話を肴に皆で飲むお酒の味はまた格別です。この時間は、仕事がら数値に追われて商売効率の追求の下で東奔西走している私にとって、売り上げ数値や労働生産性とも無縁な、異次元のひと時と言えるようです。また吹きたい時にいつでも吹けた学生時代と違い、わずかな余暇をやりくりし仕事と両立させながらの青楽との逢瀬は前にも増して私を魅了し恍惚とさせるストレス発散の貴重な時間で、仕事への大さな原動力となっていることは否めません。子供の時に聴いた田舎町のアマオケが、今日私の趣味のみならず生き方をも支配していることを思うと、本日ここで多くの子供さん達を前に演奏することの素晴らしさと反面恐ろしさをも覚え感無量です。
今日のプログラムの「禿山の一夜」は、何度も観たウォルト・ディズニーの映画“ファンタジア”での思い出一。「展覧会の絵」は、子供の時学校の先生からいただいたLP(もちろんモノラル)の、マルケヴィッチとチェコフィルの演奏が今も脳裏に焼き付いています。懐かしい思い出に浸りながら精いっぱい吹きたいと思っています。
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