≪愛響とわたし≫ トランペットにたどりつくまで
服部昭彦(トランペット)
私が金管楽器を初めて手にしたのは、中学1年の時です。ユーフォニウムという、テューバを少し小さくした感じの珍しい楽器です。吹奏楽をやっている方はよく知っていますよね。
朝、登校して自分の教室へいく途中に音楽室があったんです。中では、何人かの上級生が、いろいろな楽器を持って、楽しそうに音を出していました。いわゆる「朝練」ですね。しばらく窓ごしにその練習風景を眺めていたのですが、私の目はある一つの楽器に向けられていました。トランペットです。キラキラ光る楽器をカッコよく吹いている先輩をみて「ぼくもあんな風にトランペットを吹いてみたい」と思いました。
その日の放課後、顧問の先生の所へ行き、とりあえず入部の許可を得た私は、「これで念願のトランペットが吹ける」という喜びで胸がいっぱいでした。ところが、ここで私は大きな過ちを犯してしまったのです。当時まだ純情だった私は、先生から「服部君はどの楽器をやりたい?」と聞かれた時に、つい緊張してしまって「何でもいいです」と答えてしまったのです。心の中では「トランペット!」と何度も繰り返していたのですが、とうとう言葉にはなりませんでした。先生は私の口をしばらく品定めするように眺めてから「それじゃあ君にはユーフォニウムをやってもらおう」と言われました。そのころの私は、ユーフォニウムなんていう楽器、見た事も聞いた事もない訳で、「いったいぼくはどんな楽器を吹かされるのだろう」という不安を抱きながら「よろしくお願いします」と頭を下げて職員室から出てきてしまったのです。
かくして私はユーフォニウム奏者としての道を歩みはじめた…と思ったら1年のコンクールでは臨時にホルンを吹き、2年ではユーフォニウムとテューバの持ち替え、そして3年のコンクールではユーフォニウムという具合に、結構落ち着かない生活をしておりました。
しかし、どうしてもトランペットという楽器に未練を感じていた私は、3年になってからこっそりと楽器屋さんへ行き、当時4万円ほどの安いトランペットを買い、密かに同級生のトランペット吹きから手ほどきを受けていたのです。もちろん先生には内緒で…。
夏のコンクールも終わり、一応、部員としての大きな責任を果たし終えた頃の事です。校舎のすみっこでこっそりトランペットをさらっているところを、ついに先生に見つかってしまいました。考えてみれば、トランペットのような音の目立つ楽器をこっそり吹くなんて、とうてい無理な話なのです。「勝手に他の楽器を吹いてヤバイかなあ」という気持ちと、「もう引退したんだからいいか一」という気持ちで、半分照れくさそうに頭を下げると、先生もニコッと微笑んでこう言われました。「ええ音しとるなあ、それは楽器がええんじゃなくて吹き方がええんじゃなあ」教師の言葉と言うのは、時として、生徒に対して大変な影響力があるものです。まだまだ純情だった私は、その一言がうれしくてたまりませんでした。そして「よし、ぼくはこの楽器と一生つき会っていくぞ!」と決心したのでした。
あれから15年、現在も私はトランペットを吹き続けています。今日は私がトランペットを始めるまでのいきさつを皆さんに読んでいただきましたが、実は、その時にいろいろ面倒を見ていただいた顧問の先生が、皆さんの目の前で演奏されているのですよ。誰だか知りたいですか?…ではこれを読んでいるあなただけにこっそりとお教えしましょう。
まず、前方をご覧下さい。オーケストラが演奏していますね。ステージの中央で田中良和先生が指揮をなさっています。次に目線をやや左方向へ移して下さい。たくさんの人がヴァイオリンを弾いているのがご覧いただけるでしょうか。そして、今度は、一番客席に近い列の先頭で一生懸命ヴァイオリンを弾いている男の人、おわかりですか。メガネをかけています。年の頃は?歳くらいでしょうか。渋味がかった立派な紳士でしょ。(ちょっとほめすぎかな?)そう、その人はコンサートマスターの岩井倫郎先生だったのです。今でこそずい分紳士になられましたが、私の中学生当時は、750ccのバイクがお好きで、朝の全校集会には皆が整列して校長先生が話されている頃ゴーゴーという豪快な音と共に私達の前にさっそうと登場したものです。結構人気があったんですよ。そんな先生も今では「あんな野蛮な乗物には乗らん」という具合で、ずい分上品になられたようです。
このように、今私はかつてお世話になった先生と一緒に演奏させていただき幸せな気持ちで一杯です。実は、この愛響には、岩井先生の他にも私の師匠である先生がおられます。この方も大変ユニークな先生なんですよ。お教えしましょうか?え、字数が越えちゃうって?では、この続きはまたの機会にいたしましょう。
愛響を楽しむために
井手奈津美(コントラバス)
私が愛響に入団して4年目に入りました。入団したのはまだ大学生の頃で、コントラバスを始めて3年目の春、桜が満開の頃でした。入団当時は、合奏の際もただテンポについてゆくだけで精一杯で、毎週土曜日の2時間半の練習がアッという間に過ぎてゆき、自分の未熟さを何度となく悔やんだものでした。
そんな私も、昨年の冬の演奏会からパート・リーダーを務めはじめました。学生時代も、大学のオケでトップとして2年間演奏していましたが、学生オーケストラと市民オーケストラでは多くの点で異なり、最初の頃はいろいろと惑いました。何よりも練習量、特に分奏や含奏の回数は大きな違いの一つでしょう。市民オーケストラでは、限られた練習回数で一つの演奏会をこなしていかなくてはならず、その分一回一回の練習への集中力や、それまでの個人練習が問われると思います。また自分の楽譜だけでなく、スコアを開けば旋律はどの楽器か、自分はどこのパートと同じことをしているか等、さまざまな情報がそこにはあるはずです。このような段階を経て音楽を作り上げてゆくことが、アマチュアオーケストラとして望ましいのではないでしょうか。
私にとって愛響とは?と問うと、行き着くところはやはり音楽をする場なのです。それも単に自己満足に終わるのではなく、他人を感動させる音楽をしたいと思います。そして、何よりも自分が心ゆくまで音楽を楽しみたいと思います。
市民オーケストラの団員の大半は社会人で、それぞれが仕事や家庭を持っています。ですから、音楽に対して費やせる時間は限られているでしょう。しかしそれでも練習に参加したい、そんな愛響であってほしいと思います。
河野団長の栄光
山田卓(愛響顧問)
昨年9月9日、河野団長の古稀を祝うパーティーが開かれた席上であった。拙作の小冊子「愛響・そのルーツ」を肴に懐旧談に興じていた某古参団員氏が、急に真顔になると、「山田さん、あんたしか知らん愛響の裏話も仰山ありますなあ。ワシら昔の揉めごとも薄々聞いてはいたが、真相はさっぱり分らん。ひとつ、あんたの目の黒いうちに真説愛響史を書いたらどうですか」
そうけしかけるように言うと、いつの間にか聞き耳を立てていた「愛響の綺麗どころ」たちが一斉のエールで囃す。
そんな指喉(しそう)にあおられた訳ではないが、愛響も間もなく20歳。こんな機会に創団と発展に心血を注いだ人々の喜怒哀楽を跡付けておくのも時宜に叶おうかと、秘かに「裏方回想録」の起草を思い立った。
さて、俄文筆業開業のため、古い日記や、長年溜め込んできた資料を読み返し、20年を検証してゆくうちに、愛響史とは、一人のスーパースターとそれを取り巻く少々血の気の多い群像たちの織り成す悲喜劇であったという事に気がついた。
有り体に言えば、愛響とはその頭領河野国光氏が、自ら唯一最大と言う趣味道楽をエネルギッシュに追及し抜くうちに、いつしか一つの地方文化に位置付けられても可笑しくないまでに育っていたというものであり、このスーパー団長を守り立て、時にははかない反抗も試みつつ概ねその叱咤号令に応えて奮迅した音キチたちの戦国音楽風土記でもあった。
1971年、愛響20年の序章となる弦楽合奏団旗揚げに臨んだ河野団長の第一声は、「団員の心の和がどうしても必要で、その結束をはかることに全力をあげる」(愛媛新聞掲載談話)と説き、翌春、更に大世帯・愛響の船出にあたっても同じコンテクストで、「交響楽団は何といっても団員の和の心が必要。そして愛媛の音楽に奉仕する喜びを見出してゆきたい」(愛媛新聞同)と、重ねて「和」の大切さを訴えた。
ただ、団長がこだわる「和」とは、その場その場を糊塗する無原則な妥協ではなく、互いに意を尽くし合ったうえ牢固としたスクラムを組もうというもので、仮にも、この「和」を乱すものには仮借なく立ち向かう戦意満々の理念であった。こうして、粒粒辛苦の末つくり育てた河野団長の愛響20年は、その間在籍した三百数十名のどの団員よりも合奏練習に精励し、僅かに4名のみという全公演出場記録保持者にも名を連ね、又、誰よりも大量の売券を続けながら、聊かもひけらかさず、常に楽団仲間たちの輸にあって苦楽を分かちあってきた。
思えば、アマオケとは「合奏好き」という共通項に縋るだけの同床異夢の大集団。それ故の軋みや悶着も後を断たず、しばしば存在すら脅かされてきた。だが、どんなトラブルにも背を向けず、ひたすら情熱を注いだ河野団長と庇下の音キチたちに支えられ、育まれた愛響は間もなく三桁の大台にのる総公演数も記録し、いよいよ明春成年式を迎えるに至った。そして、その前年の去る2月20日、河野団長は、「多年にわたり芸術文化の振興に尽力した顕著な功績」によって、愛媛県政発足記念日知事表彰を受けられた。
顧みれば、愛響のルーツでもあった愛媛弦楽合奏団から愛響事務局長と続いた引退までの17年余り、精力絶倫の関白亭主河野団長に半ば力ずくで口説かれ、かしずかされ、時々は突っかかる悪妻振りも発揮はしたが、概して夫唱婦随だったと自負するかつての古女房役であった私にとっても、今回の河野団長への顕彰はひときわ感概深く、大きな喜びであった。
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