≪愛響とわたし≫1992年定期演奏会プログラム掲載分

「思えば過ぎにし20年」
大中捷雄(コントラバス)

 「今度愛響が出来るんで、団に登録しとったけん、練習に来てよ」20年前のある日、中田勝博氏から電話がかかってきた。とても自信はないし「じゃあ見に行くだけ行ってみよわい」と参加したのが、入団のはじまりであった。氏は大学の後輩でもあり、2年間八幡浜高校で一緒に勤め、応援歌を作曲・編曲した仲である。今や大学院生の次男がまだ3歳の頃のことだ。
 息子は最初の演奏会に、妻、長男と聞きに来てくれた。「話をしては駄目よ!」と妻が注意したところ、一楽章の終わり頃になって、「寝るのはいいんでしょ」と言ったかと思うと眠りはじめ、終わる頃にはパッと目を覚まし、拍手はちゃんとしていたという話を思い出す。爾来、彼は兄と共によく聴きに来てくれた。お陰で子ども達は、小さい時より、コンサートを聞くマナーも、彼らなりに体感し、育ってくれた。
 コントラバスは当時、今は亡き船引先生と二人きり。先生は毎夜の軽い晩酌を楽しんでおられた様だが、お年の割にお元気で随分と勇気づけられた。「旗頭ですから頑張って下さいよ」とよく励ましあったものである。故鈴木溶三氏が最初の指揮者であったが、偉大な故渡邉暁雄先生との出逢いがあって、愛響は大きな飛躍を生むことになった。先生はあの紳士的スマイルで、我々下手な雑音族(?)にも、「そう そうね」と言っては語気を強められるわけでもなく、何度も何度も音作りを要求された。包容力があり、音楽だけでなく、人間的にも尊敬できるものが沢山あり、得るものが多かった。3回目の定演「運命」のテープなど聴いていると、こんなひどいオケをよくぞ指揮してもらったものだと思うし、当時来ていただいた聴衆の方にも感謝したい気指ちだ。(この頃から毎回聴いて下さるファンも数名あり、ずっと売券に御協力いただいて心から有難いなあ一と思っている)数々の指揮者に来松してもらったけれど、精力的にみっちりと指導された、伴有雄先生や山田一雄先生等今は亡きコンダクターも多く一抹の淋しさと共に様々な思い出がよぎる。また河野団長宅で理事会を何度も開いては、団の生き方について激論を戦わしたものだ。その後はお決まりのアルコールで喉を潤し、「バッカスの歌」が生まれ、夜遅くまで騒いでは団長夫人にも随分と御迷惑をおかけしてしまった。
 週末の練習に大洲から松山まで、毎週出かけるのは正直いって楽ではない。しかし曲がりなりにも続けられたのは、妻の協力と子ども達の理解があったればこそと、深く感謝している。人一倍楽譜に弱い私は、演奏会が終われば次の曲をテープに録音し、松山に向かう車の中で何度も聞いては感覚で音を頭に入れ込み練習に臨む。現在は宇和島東高校に転勤になってますます松山が遠くなり、心身ともに年の衰えから体がさつく、眼がかすんだりいつまでやれるか不安にもなる。もう無理はさかない年齢になった。しかし、永遠に愛響の炎は不滅であると信じている

愛よ響け
中野恵美子(ヴァイオリン)

 はじめまして。 私が初めて愛響の舞台に立たせていただいたのは、生意気にも高校1年の冬、曲は日本中の誰もが「あ一今年も終わりが近づいたか」と思うベートーヴェンの第九でした。指揮は、長身でルックスは世界一、温厚で紳士的な故渡邉暁雄先生、しかも、合唱団300人による歓喜の熱唱付とあって、本番舞台上の私は、あまりの迫力に弓が震えてしまうという情けないものでした。
 そんな私も今や花のOL?です。実然ですが昨夜皆様はどのように過ごされたのでしょうか。家族との団欒を。運くまで残業を。いや、せっかくの土曜の晩なんだから気の合う仲間と飲みに出掛けたよ。色々いらっしやるかと思いますが、私は?もちろんこの日の為にリハーサルに励んでました。そりや私だって若いんだから、大切な土曜の晩がいつもスケジュールでつまってるなんて……大街道のラフォーレ前に若者が楽しそうに待ち合わせをしているのを横目で見ながら、私はバスに乗って練習場である南海放送ヘ。でもそこには私にとっては、とっても大切な仲間が6時30分を待ち含わせ時間に集まって来てくれるんです。気はしっかり若いおじいちゃん、「しっかり練習せんと」と叱って下さるお父さん、また頼りになるお姉様、そんな存在感のある方々が、音楽が好きで集まって来てるんです。
 普段、家で練習している音は、恥ずかしいものではありますが、団員の方々のきれいな音色を耳にしながら弾いてると、不思議にも私まで上手になった気分になり、一週間のストレスがふっ飛んでしまいます。
 ヴァイオリンケースを片手に歩く私は、まるでどこかのお嬢様?なんて思ってた私が少しは成長して、音楽に参加する喜びがわかってきて、最近は練習量が増えて来たように思います。
 一人でも音楽はできます。でも、私は合奏して一つの曲を創り上げていく楽しさを、これからも味わっていきたいと思います。
 ここで、幼い頃から音楽に参加する喜ぴを自然と教えてくれた両親に、また団員の方々に、そして「次の演奏会はいつ?」と声を掛けて励まして下さる会場の皆様に、縁あってか、私の勤めさせていただいている愛媛銀行も応援して下さっている、ということで、今感謝したい気持ちで一杯です。
 「愛響」この二文字、よく見るといいと思いません?団員の熱意が、愛が、今宵会場の皆一様の心に響きわたれば光栄です。

愛響酔談
岩井倫郎(コンサートマスター)

 愛響結成20周年を迎えた期に、私も忘れないうちにと、プレーヤーの立場から、私の経験を通して、愛響結成以前からの色々な人との出会い、別れ、オーケストラムーヴメントの変遷、といったような記録を書きはじめました。書き出すとすぐ100ぺ一ジを越えました。あとからあとから昨日までのことのように記憶がよみがえってきます。ここに書くのははばかられるようなこともたくさんあります。愛響の前に存在したオケや合奏団が発足し崩壊して行った過程。こんないやな目をしなければオケがやれぬのかとヤケ酒を飲んだこと。愛響を結成し軌道に乗せるまでの多くの確執と葛藤。色づけすれば一編のドキュメンタリー小説になりましょう。
 こうして書きつづりながら考えてみますと、愛響が20年継続発展できたのは、一つには団長の河野先生がエラかったこと、という結論に達します。歴史を振り返ってみないと評価は出来ないといいますが、愛響に於いても今それが言えると思います。河野先生が組織の長として適任であったということです。長は高い理想と確固たるヴィジョンを持っていればそれで良いのです。細部は手下がやります。それを見ていてときどき雷を落とせばいいのです。その上に河野先生が無類の音楽好きだったということが団を維持させた要因の最大のものであったと言えましょう。
 先日、私は良い個人的体験をしました。愛響20周年記念祝賀会で、団員全員から河野先生への感謝状を私が代表してお渡ししたときのことです。中田事務局長と山田前事務局長が企んで私にやらせたのですが、感謝状の文面は読めば思わず笑いだすような傑作なもので、愛響らしい愉快な書状だな、とお渡しするのを楽しみにしておりました。プログラムが進み、河野先生を演壇の所にお迎えして私は読み始めました。ところが、3分の2程読み進んだところで声が出なくなりました。声が出ず、涙があぷれてきました。私は驚きました。これは予期しなかったことです。しばらく涙をのみ込んで中断し、やっとしゃがれ声で読み終えました。感謝状をお渡ししながら「先生、ありがとう!」と言ったときには涙がほおを伝わっておりました。山田前事務局長ならば「岩井が滂沱の涙を流した」と書くところでしょう。20年以上にわたって潜在的に蓄積された心の奥の何ものかが涙となって噴出したのでしょうか。それとも私が年をとったからでしょうか。いずれにしても私は嬉しくなりました。この涙は私たちの20年来の苦労などというものではなく、河野先生の人がらへの賛美の涙でありました。
 愛響を存在させた二つ目の要因は、誰もが愛響を私物化しようとしなかったことでしょう。私物化しようとした人も無くはありませんでしたが淘汰されて行きました。俺が俺がという人間より組織のために、目標のためにという人が多かったからだと思います。その代わり団長の手下の者の間では血で血を洗う論議激論がくり返されました。
 私が御幸中学校勤務のころ、愛響の母体の弦楽合奏団を創る時期、前事務局長山田さんが職員室の私のところへよく来られました。対人関係その他問題が山積しておりましたので、つい彼も私も口調が激しくなったこともキツイ言葉が出たこともありました。それを見ていた私の隣の席の年配の女の先生が、山田さんが帰ったあと、小声で、「先生、今の人、そのスジの人?」と言いました。私は椅子から転げ落ちそうになって笑いました。
 「なる程、そうかも知れんワイ」と。
 中田トレーナー兼現事務局長ともよくやり合いました。しかし、目的は共通でしたから、彼の人間的明るさと私の楽天主義で局部戦争に終始しました。他念が無かったからです。
 今後、この純粋な人間集団はさらに発展して行くでしょう。愛響讃歌「バッカスの歌」と共に。


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