≪愛響とわたし≫ 音楽は一生の友達

土居美津子(チェロ)

 愛響20周年と聞けば、もうそんなにたつのかなあと思う。私が愛響と出会ったのは確か高校生の時だった。第1回サマーコンサートを松山市民会館で聴いて、指揮者が女性(久山恵子さん)だったのと、「アルルの女」のファランドールが印象に残っている。
 まさかその愛響に入るとは思ってもいなかった。大学に入り副々科としてオーケストラの楽器を選択することになり、楽器を貸してもらえる(自分で楽器を買わなくてすむ)ということからチェロを選んだ。先生の後姿(いつレッスンにいっても練習しておられた)とチェロの深く落ち着いた音色に魅せられて練習し、主科のオーケストラと市民オーケストラに入れてもらった。
 大学卒業後、就職して上浮穴郡美川村にいた私に先輩から愛響への勧誘があったが、入れてもらえるかどうか心配だった。先輩の「まあ楽器かついで来てみいや」という言葉をたよりに練習場へ行ったことが昨日のようである。あれから13年がたってしまった。私は相変わらずチェロを弾いている。色々な指揮者と出会い、色々な曲を弾き、色々とエピソードも出来た。国民文化祭にも第3回の兵庫県から第6回の干葉県まで出してもらい、全国に友人もたくさんできた。愛響は私の青春なのかも知れない。
 一度だけ腕前の都合で出られなくて(1982年の定期演奏会≪火の鳥≫)客席で聴いたことがある。何ともいえない気持ちになったことを思い出す。弾きたくて弾きたくて…。
 「オーケストラの魅力っていったい何なんでしょうねえ」練習は土曜日の夜、一週間の疲れがドッと出る時…。でも一瞬の音の勢いが体の中から新たな力をわきあがらせ、心をスッキリさせてくれる。こんな感覚が中毒のように練習場通いを続けさせるのだろう。
 私の13年間は回りの方々の理解と寛容があってこそのものだ。愛響の20年も演奏会に集まって下さる皆様の温かいご協カとご理解をいただいているからあるのだと思う。
 「音楽は一生の友達」感謝の気持ちで弾き続けたい。



悪魔のささやき

桑原ちえ子(ヴィォラ)

 「ええがねえ、おいでや」コンサートマス夕一の岩井先生の2回のこの言葉が私と愛響を離れられない関係にしてしまいました。
 1回目は新婚間もない頃、初めての定演をめざし練習を重ねている時です。勧められるままに入団したもののオーケストラで弾くのは初めてで、膨大な楽譜の量、緊張続きの練習、その上計算をしてみると本番当日には破裂寸前(正確には後l週間で臨月)の大きなお腹になる予定です。ただでさえ大柄な私がもっと大きくなり、とても皆様の前で演奏する様な状態ではないと岩井先生に相談した時のことです。「ええがねえ、おいでや」ヴイオリンを小さい時から習っていた先生の言葉には「ノー」と言えず大きなお腹で小さくなりながら(誰も認めてくれないのですが)第1回の定演の舞台に上がってしまいました。
 それからしばらく子育てに専念していましたが、やはりアンサンブルの魅力は忘れがたく、以前から憧れていたヴィオラを岩井先生に習うことにしました。主婦業の合間を縫っての練習なのでなかなか上達しませんでしたが、第8回の定演(初めての第九)の練習の始まる前の事です。「もうそろそろええがねえ、おいでや」の一声でほいほいと練習に出てしまった私です。
 今になってよく考えてみますと「ええがねえ」と「おいでや」の間には「愛響に入っても充分弾けるから」が入ると思っていたのですが、本当は「一人でも団員をふやさんといかんから」が略されていたのです。1回目は創立したばかり、2回目は第九という大曲で人数合わせのため、どちらも一人でも団員を増やしたい時だったのです。オーケストラの中で弾く事の難しさを知っていたらもう少し慎重になっていたのでしょうが、何も知らない者のズーズーしさで団員に収まってしまいました。それ以来難しさのほうには一寸蓋をして楽しさの方を十二分に楽しんできました。(トレーナーの先生方ゴメンナサイ)
 誤解からの出発とはいえ愛響に参加したおかげで、皆で演奏する事の楽しさや演奏会を作り上げる裏方の仕事の楽しさを知ることができ、本当に幸せだと思います。
 最後に百も二百も言いたい小言をぐっとこらえて私のわがままを許してくれた旦那様、家族のみんな、つたない演奏にもかかわらず毎回会場に足を運んで下さった皆様に、この会場一杯の感謝の気持ちを捧げたいと思います。ありがとうございました。そしてこれからもよろしく。



「愛響」と私、そしてアマチュアオーケストラ

中田勝博(クラリネット)

 私が愛媛のアマチュアオーケストラと初めて係わったのは昭和37年であった。松山にアマチュアオーケストラを創立する話が持ち上がったからである。NHK松山放送管弦楽団を核に愛大特音の学生、アマチュア市民が集まって楽団創立の機運が盛り上がったのである。当時私は愛媛大学の学生で、大学オケの世話係をやっていた関係で発起人にされ、訳もわからないままに幾度かの会議に出席した。
 楽団創立記念演奏会は愛媛県民館(当時大編成のオーケストラが演奏できる会場が他になかった)で華々しく開催された。しかしそれから私は東京へ出ていったため、詳しいことはわからないが5、6年で自然消滅したようである。
 資料によると昭和7年愛媛では初めてのアマチュアオーケストラができている。このオケも世の中の不安定さと指導者の問題で5、6年の後消えてしまっている。そのためか、愛媛ではオーケストラは育たないというのが大方の通説であった。
 四国の他県にはオケがある。この愛媛にもどうしてもオーケストラをと昭和47年誕生したのが我が「愛響」である。私も自ら志願して発起人に名を連ね、今度こそはの気持ちでいっぱいであった。このオケは「音楽やりたい人間」の集まりで今までとは違っていた。そこには河野団長以下音楽にかける情熱のすごさがあった。夜おそくまで議論し、真夜中に至ることも再々であった。特に練習のことや選曲については皆持論を曲げなかった。そして酒もよく飲んだが、酔っぱらっても話はオケと音楽の話題であった。
 そして、今年創立20年を迎えたのである。幸いにも私は常に団の中枢にいさせてもらってインスペクター、トレーナー、事務局長と歩んで来たが、団にとって忘れてはならないのは故渡邉暁雄先生との出会いである。先生には昭和48年第2回定期演奏会以来、延べ11回にも及ぶ公演を指揮していただき、世のアマオケマンの羨望の的になったのである。
 先生は必ず「ただいま」と言って松山空港に降り立たれた。我が国を代表する大指揮者の渡邉暁雄先生にこれまで可愛がられたアマオケはおそらく他にないであろう。個人的にも「愛響」のトレーナーということで指揮法のレッスンを受けることになり、素晴らしい経験をさせていただいた。何よりも思い出すのは、先生と団員有志で上浮穴郡柳谷村の旅館へ行ったときのことで、早朝から「カッチャン」(先生は私をこう呼ばれた)、君が良ければサンサーンス(チェロ協奏曲)をやろうと言って、ここはチェリストの弓を見なさいとか、ここはテンポが人によって変わるから注意をしなさいとか、熱心にレッスンをしていただいたことである。
 今、地方の時代とよく言われる。私自身もその通りだと思うが、音楽における地方と中央の格差は予想以上に開いている。そのためにも、渡邉先生のような世界に通じる音楽家が地方のアマオケにこれ程までに加担していただいたことは、団員はもとより愛媛の音楽界にとっても特筆すべきことである。
 地方のアマオケにとって、いかにレベルを維持し向上させるかは重大な問題である。「愛響」は幸いにも我が国の第一線で活躍されている指揮者や独奏者と協演してきたが、これは毎回たくさんのお客さまに恵まれなければ出来ないことである。地方にあればこそ地元のファンに大切にされるオケでなければならない。県民に愛され育くまれてこそ地方のアマオケの存在価値があると私は思う。それには団員の絶え間ない努カによってしか生まれることのない、新鮮でしかも内容のある音楽をどれだけ聴衆に提供できるかであろう。
 創立20周年を迎え、もう一度創立時代の精神と情熱を思い出し、明日からの演奏活動の糧としたい。

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