≪愛響と第九とわたし≫1993年定期演奏会掲載分

「第九に挑戦」澤田久美(第九合唱団ソプラノ)
         優美(  同   上  )

 私は迷っていました。初めての練習日に姉が旅行のために不在で、一人で勝手の分からない所へ行くのは不安に思っていたからです。私はほとんど行かない決意を固めていましたが、結局急いで着替えて、一人家を飛び出しました。練習場所は東雲短大のチャペルです。家から自転車で5分の距離です。すぐに着きましたが、一向にチャペルの場所が分からないのです。同じ所を行ったり来たりしていると、同じように頭をキョロキョロ動かし何かを探している人がいました。話しかけるとやはりその人もチャペルを探しているというのです。近くを通った人に聞いて2人でチャペルに入って行きました。その人はアルトだというので席は離れてしまいました。練習が始まり、まず最初にその歌声に驚きました。歌う前に、第九を初めて歌う人は手を挙げてくださいという問いに対し3分の2くらいの人が手を挙げて答えたと思います。しかし歌う声はそれ以上のものがありました。練習の必要がないように私には思われました。私はきちんと第九を全部聴いたこともありませんでした。練習して行くうちに歌えるようになるだろうと思っていたのです。その日の練習はついていけないままに終わりました。私はこの先練習して本当に歌えるようになるのだろうかという不安を胸に家へ帰りました。次の練習には2人で出かけました。

 妹の話で、これは大変なことに手を出したものだと思いましたが、大変だからこそやり遂げたいという、言ってしまえば「負けず嫌い」の2人は「第九」のCDを買い込み、密かに練習していました。
 そして私にとって初めての練習の日。気合いを入れて行った割りに、案の定、ソプラノの声は思っていたよりも高く、喉はヒーヒーと喘ぐばかりでした。が、歌えないながらも、大勢で歌うことの楽しさを感じ、いつか歌えるようになると信じて通い、今に至っています。為せば成るで、いつのまにか歌えるようになり、歌詞も段々覚えているのにふと気づきました。声のかれる日もありますが、次の練習の時にはそんな事はすっかり忘れ、精一杯の声を出しがんばっています。初めての「第九」ヘの挑戦が、私たちの勝利で終わることが出来ればいいなと思っています。


「オーケストラ、そして愛響との出会い」山崎 潤(クラリネット)

 木管楽器との出会いは、中学時代にアルトサックスを吹き始めたのが最初で、クラリネットに転向したのは高校1年生の時からだから、足掛け20年の付き合いになる。なぜこれらの楽器を選んだのか、特別な理由があった訳ではない。中学のときにアルトサックスにしたのは「おまえは体が小さいし、新品の楽器があるからどうだ?」という顧問の先生の一言で決めたし、高校に入ってクラリネットにしたのは、ピアノを勉強していた姉に「クラリネットなら将来オーケストラでも吹けるよ」と言われたからであった。今考えると自主性がないと言うか、人の言葉に左右されたにすぎない。だが、きっかけなんて得てしてこんなものである。
 オーケストラとの付き合いは大学に入って始めたのが最初。私のいた大学オケは専用の練習所があったとは言うものの、きたない上に隙間風や雨漏りがひどく、冬の寒いときはジャケットを着込んだ上、ストープを囲んでアンサンブルをしたものだ。それでも年2回の演奏会には有名な一流指揮者を招いていたため、練習はけっこう厳しかった。変な音でも出そうものなら、弦楽器の後方に陣取っている上級生・OB連中にキッとにらまれる。最初は震え上がったが、ついにはこちらも開き直ってにらみかえしたものだった。
 大学を出て就職し、初めの赴任地がここ愛媛であった。社会に初めて出て、しかもまったく来たことのない南国(ちなみに私は雪国長野の出身である)。生活環境も大きく変化したので仕事の合間にただ気楽に吹きたい、との思いで最初は一般バンドで吹奏楽を楽しんでいたが、学生時代の緊張感のある音楽にどうしても戻りたいと思うようになり、愛響の門を叩いた次第である。
 そんなことで愛響にお世話になったのは2年前から。幸運にもちょうど創立20周年の節目のステージにのることができた。経験があるとはいえ数年ぶりのオーケストラ、愛響での初練習(チャイコフスキーの交響曲第5番)ではさすがに緊張し、練習終了後軽いめまいを感じたのをおぼえている。それでも吹奏楽と違い、個々の管楽器が主張を持ち、弦楽器のそれと大きな流れの中で和をなしていく音楽に、大きな満足と喜ぴを再び味わうことができた。この魅力からは当分にげ出せそうにない。
 愛響に入って驚いたのは、このオーケストラが非常に恵まれていること。故渡邉暁雄先生を軸とした中央との大いパイプのおかげで一流の指揮者・ソリストが来てくださるし、演奏会はいつも愛響ファンで埋まる等々。そしてもう一つ驚いたのは愛響の運営のために東奔西走するメンバーが多いこと。今日の愛響があるのもたくさんの人々の努力の賜物、と聞いており、何の苦労もせずに愛響に参加した私としては頭が下がる思いである。
 さて本日の演奏曲目の第九であるが、私のいた大学オケでは5年に一度必ず演奏することに決めている特別な曲である。大学4年間で第九が当たらない年の学生の中には第九やりたさにドッペる輩が多かった(ドッペるというのはドイツ語のDoppel、「英語ではdouble」をもじった言葉で、留年のこと)。そんな特別な曲を、この魅力的なオーケストラで再び演奏できる喜びを第九の第4楽章に重ね合わせつつ、本日は精一杯の音楽をお聴かせしたいと思う。

「第九に寄せて」森 英子(ヴァイオリン)

 大学時代に私はマンドリンという楽器を通して音楽を楽しみました。マンドリンでクラシックを演奏することもよくあり、だんだんヴァイオリンだったらもっと奇麗に弾けるんだろうなあと憧れるようになりました。意を決してヴァイオリンを習い始めたのは、大学を卒業して社会人になってからのことでした。(当時住んでいた岡山の家の真ん前で70代のおじいさんがヴァイオリン教室を開いていたのです)フランス=ベルギー派の先生で、「10年基礎」という教えを基に、本当に充実していて、ヴァイオリン音楽の楽しさを心から丁寧に教えて下さり、実によく可愛がって頂きました。残念ながらレッスンを受けることがでさたのはたった2年半でしたが、この2年半は私の人生の中で最も実りある時だったと思います。
 縁あって愛媛交響楽団の練習に参加させて頂くようになってからもうすぐ一年になります。年をとっておばあさんになってから、どこかの町のオーケストラの隅っこで弾けるようになったらいいなと思って始めたヴァイオリンです。それがこんなに早くオーケストラの一員として舞台に出ることに途惑いもありますが、心からうれしく幸運だと思っています。今回演奏するベ一トーヴェンの「第九」は、大学時代まで有名な第4楽章だけしか知らなくて、初めて第1楽章から聴いた時「このCD、調弦から入ってるの?」と言って友人に笑われた思い出があります。合唱に父も参加することになり、父はウォークマンを買って毎日の通勤と土日も朝な夕なに練習していました。私よりもずっと練習熱心だったと思います。
 先生が亡くなって3度目の冬です。先生の残して下さったお手製の弓を持って、父も一緒に大好きな「第九」を演奏する。一生の中でも思い出深い一日となるでしょう。

娘と「第九」森 慎吾(第九合唱団バス)

 この夏、長女から「愛響の第九に出てみたら」と言われ、即座に、歌ってみようと決心した。娘は岡大でマンドリンを弾いていたが、卒業後ヴァイオリンに惹かれ熱心に練習を始め、昨年私が郷里松山勤務になったのを機にこちらに帰り、愛響に入団させて頂いたばかりである。
 合唱と言えば、愛響井部副理事長と同級の附中での混声合唱と、九大男性合唱の遥かな昔の経験があるだけである。いつか第九を歌ってみたいとのほのかな気持ちはどこかに宿していたが社会人となって32年間その機会はないままに過ぎた。特にこの22年間は、本店(住友海上)勤務時代の会社の師範、居合道範士九段檀崎友彰先生に入門、我が国第一人者の師の技に心酔し今日まで居合を修業してきた。東京から仙台・岡山と、転勤の先々で勤務の傍ら道場通いに明け暮れ、子供たちは知らぬ間に大きくなってしまった。そんな事もあって、この度の娘からの勧めには素直に従った次第である。
 9月4日練習初日に目にした本格的オーケストラの楽譜はまるで分からずどうなることかと心配したが、事務局で求めたバスの練習用テープを反復聞くうちに何とか皆さんに付いていけるようになった。老君男女一緒になって声高らかに歌える場は大変気持ち良くすばらしいものである。またベ一トーヴェンの格調高い旋律は、高邁なシラーの原詩と相侯って地味ながら美しく何度歌っても飽きない。
 次回は大勢の男性諾氏が参加され、今年の男声数の劣勢を補っていただくよう願っている。
 あと残す日数で、何とか指揮者の求める暗譜に近づけるよう練習を積み、娘との最初の舞台を晴れて迎えたいと思っている。

愛響と第九に寄せて 樋口俊郎(第九合唱団バ  ス)
            鈴子(同    ソプラノ)

 愛媛交響楽団の定期演奏会には毎年2人で出かけ、その演奏の素晴らしさの余韻を大切にしながら帰途についておりましたが、今回一緒の舞台に立つことが出来非常に感激致しております。
 第九の合唱は学生時代に経験がありますが、その壮大な曲と詩に感動を覚えたものでした。以後20年余り経ち年末を迎えるごとにもう一度唱ってみたいという気持ちが強くなっておりました昨今、再び第九を唱えることに更に感激致しております。
 戦時中に捕虜の間に演奏されたこの曲を、学徒出陣の壮行に唱われたこの曲を、夫婦で唱えることに改めて平和の喜ぴを感じ、共和主義者であったベートーヴェンに思いを馳せるところであります。
 「音楽に国境は無い」と言われますが今までにどれほど多くの人が、この曲を演奏し合唱してきたことでしょう。それを思うと、「世界の同胞が手を取り合って愛と歓喜の世界を造り出しましょう」というこの詩こそが、この第九交響曲こそがこれを実現できるものではないでしょうか。
 この曲の前に、「人類は皆同胞である」という思いを練習中に強くつよく感じたところでありました。“ALLE MENSCHEN WERDEN BRUDER”

思い出の第九 篠原伸也(第九合唱団バス)

 時として音を外してしまう夫と正確に音程を刻む妻の会話。
『急に音が途切れちゃうけど?』
『ワープ唱法といって、苦しい所をすっ飛ばす便利な唱法があるんだよ』
『時々下がるみたい』
『僕はベースとテナーを随時行き来するのが好きなんだよ』

 どこで間違ったんだろう?自分がこうして蝶ネクタイをして舞台に立っているなんて!
 数年前のある日のこと、何気なく見ていたテレビの一画面。『一万人の大合唱』という言葉に惹かれて思わず電話をしてしまったのが過ちの始まり。初めて行った某テレビ局のスタジオのまぷしいばかりの諸設備に圧倒され、これはすごい所にいるぞと勝手に思い込んでしまったカラオケ青年(今思えばそれほどの施設でもないのだが…)がそもそもの始まりか。
 男声の数こそすべてとおだてられ、一生懸命同僚を誘ったあの頃の言葉。『とにかく金のかからない安い遊びがあるから一度行ってみないか』『カラオケよりも生(なま)オケのほうが気持ちいいよ』一度練習に参加すれば、間違いなく仲間になるだろうと心に決めて、友人達を片っ端から引っ張り出したあの頃。思惑通り、友人達が次々と泥沼に足を捕られて行った日々。多少の後ろめたさを感じながらも、初めてコンサート本番を経験した日の興奮と充実感。缶ビールの旨かったこと。やっぱり第九の魅力は、この満足感かなあと勝手に思っている次第です。
 コンサートを企画実行するご苦労はとりあえず知らないこととして、台唱団の一人としてフーガを楽しむ一方で、時にはソリストもどきに体を揺すりながら独り悦に入っている様は、オーケストラ側からすればまさしく噴飯ものとは思いますが、それなりに楽しいものです。
 まったくのアマチュアゆえのこだわりは、いかに楽しいコンサートにするかということ。技術の云々よりも明るく元気に声を出し参加した一人ひとりが『あ一気持ちよかった』と帰宅できるかということ、そんなことを真剣に考えている不真面目な団員です。
 すぐ傍らで聞くホルンのけだるい呼び声やヴァイオリンの甘い囁き、聴衆席からは絶対に目にすることの出来ない指揮者の豊かな表情、ソリストの痺れるような美声など、壇上に居ることで味わえる喜びは回を重ねるごとに重く深くなってゆくもの。この快感を多くの友人たちに紹介しながら、いつの日か自ら第九コンサートをプロデュースしたいものと夢見ているこの頃です。
 本番は瞬く間に終わってしまうもの。夢多き青年たちよ、いざ歌わん!自分たちの、そしてこの瞬間最高の第九を!


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