≪オーケストラの楽器≫ ホルン 尾方宏晃


 先端が欠けた牛の角をメガホンのようにして、唇をブルブルッと振動させたら、大きな音が出ました。しかも、高さの違う音が2〜3音も鳴りました。「これはすごい!便利だ!」と、人々は遠くにいる仲間に連絡するのにすぐ利用しました。これは、人類が陸上を支配するようになって間もなくの時期です。海の近くではほら貝を、象や水牛のいるところでは象牙や水牛の角も使いました。
 遠い昔、原始社会、古代社会ではすでに儀式や戦争のときなどに使われていた角笛ですが、ヨーロツパでは記録にはっきり登場してくるのは中世の封建社会になってからです。それはオリファントという豪華に彫刻された象牙のラッパで、騎士や貴族が、高い身分と権力を誇るために持っていました。もちろん、牧童や狩人のような一般市民の間でも、牛の角笛などの、ごく素朴なものが信号用として便われていました。しかし、宮廷で使われたホルンということで、オリファントが現在私たちが使っているホルンの直接の先祖といってもよいでしょう。
 日本では、同じ時期に僧兵や山伏が、野山でほら貝を吹き鳴らしていましたが、東西双方の光景を比較しながら想像してみると面白いですね。
 金属の管を巻いたホルンは、15世紀未になってフランスに登場しました。これがフレンチ・ホルンと英語で呼ばれるきっかけになりました。もちろんバルブもついてなく、ただ円形に巻いただけのホルンです。
 フランスを中心とした上流階級の紳士のたしなみであった狩猟で、いろんな合図を送るのに使われました。広大な森で狩りのゲームをするわけですから、音が大きく、しかもよく通らなくては困ります。そこで金属の管もだんだん長くなり、ベルも大きくなっていきました。しかし、これでは持運びに不便ですから、管を巻くことが考えられました。
 長いので、トランペットのように小型に巻いたのでは用が足りません。馬上で吹くのだし、いっそのこと肩にかつげるように大きく巻いてやろう、ということになりました。また、17世紀になると、貴族階級の人の間で大きな三角帽子が流行してきましたので、帽子にあわせてホルンの巻方も大きくなりました。左手で馬の手綱を持っているので、右手のひじにホルンを乗せて吹きました。今でもホルンは演奏者の右側後方へベルを向けて構えますが、この習慣は、この狩りのホルンからきています。
 では、どのようにして野外から室内へ持ち込まれたのでしょうか。ベルサイユ宮殿はフランス封建社会の象徴として有名ですが、17世紀末、狩りのホルンの完璧なファンファーレ演奏を誇ることでも、他の宮廷の迫随を許しませんでした。
 しかし、ボヘミアの若い貴族シュポルク伯が1680年の冬、ベルサイユに滞在したことがきっかけで、ホルン史の流れが変わっていきます。つまり、シュポルク伯はこの快いホルン・サウンドを自分の宮廷へ持ち込みたいと考え、すぐ二人の若い家臣をボヘミアからベルサイユヘ音楽留学させました。この二人が狩りのホルンの演奏技術と製作法をボヘミアヘ持ち帰り、それまで野外で吹奏されていた狩りのホルンを室内のオーケストラに導入しました。ですから、オーケストラにホルンが登場したのはドレスデンが最初で、その後、ウィーンヘ、そしてパリのオーケストラヘは、さらに遅れて逆輸入されたわけです。
 オーケストラの仲間入りをしたホルンは、以前の森を駆けめぐっていたような荒々しい音からエレガントな音色への変身をはかり、また、他の楽器との合奏から、各調子で演奏できるように工夫されました。つまり、太い管から細い管ヘ、小さいベルからより大きく広がったベルヘ、大きな巻方から小さな巻方ヘ、そして各調子の長さにするための替え管システムが考案されました。これが、現在いうところのナチュラル・ホルンです。モーツァルト、べ一トーヴェンの頃は、このナチュラル・ホルンで演奏されていました。
 このナチュラル・ホルンは出せる音が限られていたので、ストップ奏法という、特別の奏法が開発されました。バルブシステムの発明は1813年で、それ以後、今私たちが手にしているホルンヘと急速に発展していきました。

1996.6.9(第23回サマーコンサートプログラムより)


[愛響の御紹介][コンサート情報][過去の演奏記録][団員募集のお知らせ]
[愛響の一年][団員名簿][愛響ア・ラ・カルト][愛響フォトライブラリー]
[更新履歴][他のホームぺージへのリンク]

 愛響ア・ラ・カルトへ戻ります。
ホームページへ戻ります。