<意気に感じて生きた人〉山田卓氏を悼む(2003年6月 第30回サマーコンサートプログラムから)
36,7年前のある夜、私は山田さんを上一万の屋台に誘った。当時電停の近くには屋台も2軒くらい出ていたのである。飲みながら、愛媛の音楽環境の後進性やら愛媛の音楽人のことなど話していたのだが、やがて私は山田さんに、私たちの結成したメロマン弦楽四重奏団のマネジメントを引き受けてくれまいか、と切り出した。そのころ愛媛の音楽活動は谷間の時期で、愛大に特音はできたもののまだ揺藍期であったし、細々と断続的にやっていた松山市民管弦楽団も休止の状態であったから、私たちは何とかしようとあがいていたのである。そういったことを綿々と話したら、山田'さんは『ほうかな。そういうことなら引き受けにゃなるまいのう』と言った。私たち大学を卒業して問もない人間の熱意を意気に感じてくれたのであった。
初代理事長河野先生が山田さんの論理的な事務能力とすぐれた企画力を見込んで、夜中に山田さん宅にねじ込み、事務局長を命令(?)したことにも彼は意気に感じ、そうして愛響の事務局の基礎はできたのである。
大恩ある渡邊暁雄先生についても、渡邊先生の愛響という田舎オケヘの思い入れを、意気に感じて先生を敬愛し、先生と愛響のよき関係を構築して行ったのであった。
意気に感じたときの山田さんの情熱はすごかった。そのときの行動力、実行力には驚かされたものである。
山田さんが特異な文筆家であったことは多くの認めるところであろう。愛響がNHKのTV番組『音楽の広場』で全国放送されたとき、司会の黒柳徹子さんが、山田さんの書いた河野団長の紹介文をえらく気に入り、笑いながら番組の中で朗読したこともその証である。山田さんは愛響団員の人物評といったものもよく書いた。適切にその人の長所短所(?)をとらえ、肯定的に野次った。こういう所にも意気に感じていたようである。文も書くと同様、絵も描いた。似顔絵である。お気に入りの指揮者や古い団員はみな描かれたと思うが、これが上手いのである!これも団への思い入れであった。
要するに、基本的に山田さんは人間が好きだったのだと私は思う。付き合うすべての人の長所を認めていた。言葉のはしばしに、『……そうは言ってもあの人はこういう所を持っとる人ぞな』という言い方をよくしたが、そこにその人への温かい思いやりとその人を見抜く山田さんの洞察力といったものを感じたものである。
山田さんの思い出はつきない。あと少し生きて私たちを見ていてほしかったと思う。
愛響のインスペクターだった松本武久君の追悼文のはじめに山田さんはこう書いた。
『愛響は創団以来の盟友をまた一人喪った』
私もそう書かねばならない。
合掌
愛響理事長 岩井倫郎
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