渡邉暁雄先生を偲ぶ
       
                      愛媛交響楽団 理事長 河野国光
    
 世の中には、ある人との出会いが、その人やグループの将来を大きく左右することがある。アケ先生(私たちは、親しみをこめて渡邉暁雄先生をこう呼んだ)と愛響の出会いは、「渡邉先生に指揮をぜひお願いしたい」との団員の熱望を背に、昭和48年夏、中田トレーナーと2人で上京した時に始まる。田舎よりはるばる出かけた団結成2年目のアマオケが、天下の大指揮者にいきなりタクトをお願いすることが、いかに無謀で型破りであるかは言をまたない。さすがに、門前で逡巡すること久しく、やっと思いきって門をたたき、恐る恐るお願いしたところ、思わぬ御夫妻の笑顔に接したうえ「行きましょう」の快諾。これほど欣喜雀躍した覚えは今までにない。翌年愛響顧問もお引き受けいただき、我々は水を得た魚の如く技術的にも精神的にも急速に向上して行った。

 アケ先生は、温厚そのものの外見からはとても想像出来ないほど、頑固で芯の強い方であった。形式主義や権威主義が大嫌いで、信念を貫く気骨の人であった。常日頃「日本音楽の向上は、地方音楽の向上なしでは考えられない」といわれ、芸術院会員の身で、中央に楽な仕事が沢山あるのに、あえて地方の音楽教育に携わり、地方音楽の向上に肩入れするなど、思いやり深い、誠実で実行力のあるバイタリティーの人であった。この気骨ある男の優しさが、一地方のアマオケ愛響の愚直さを愛し、そのてこ入れに腐心していただく結果となったと思われる。愛響19年の歩みの中で、アケ先生には実に13回の指揮をお願いしている。又、長男康雄氏にも、協奏曲のピアノソリストを2回、指揮を2回お願いしている。アケ先生指揮の演奏の圧巻は、昭和55と58年の12月に行われたベートーベン第9交響曲(合唱つき)であろう。コーラス、オーケストラ400名がステージに上がる壮大な演奏は、松山ではとても無理と思っていただけに、その実現と成功は感激の極みであり、歓喜の歌声は今も忘れられない。又、マーラー第1交響曲やシベリウス第2交響曲の熱演も記憶に新しい。

 それにしても、芸術家には珍しい優しい情熱家であった。松山空港に降り立つたびに「ああ、空気がおいしい」「ただいま」「帰ってきました」と松山人のようにささやかれ、瀬戸内の魚も大いに好まれた。拙宅にもよく来られ、私のヴァイオリンを手に団員のピアノ伴奏で素晴らしい音色を披露された。こよなく松山を愛された先生の訃報は、愛響にとって大きなショックであり、打撃は深刻である。しかし、地方音楽の向上は先生の悲願であったのだから、先生に育てられ成長した愛響は、今後も全力をつくして演奏活動に取り組んでゆく。これが、アケ先生の御恩に報いるただ一つの道であるから。

 本日の追悼演奏会が、幸運にも渡邉暁雄先生の愛弟子である日本楽壇の俊英、小田野宏之氏の手によって行われることは、望外の喜ぴである。氏の熱意あふれる周到な御指導によって、練習を重ねてきた愛響の今日の演奏を、アケ先生は微笑をうかべて、一生懸命聴いて下さることと思う。
 心から、渡邉暁雄先生の御冥福を祈る。

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