私と父と愛響 

                      指揮者・ピアニスト 渡邉康雄

 8年間のアメリカ留学を終えた1975年の、父の振るサマコンで、初めてグリーグの協奏曲を弾いた。恐ろしく暑い日に体育館でリハーサル。ニューヨークでは最も安全であった肩にまでかかる長髪、不精髭、それにやぶれたジーンズという姿で、真赤なハワイアン風のアロハシャツにて伺う。口髭をはやし、肥ったヒッピーピアニスト。島川允子先生と佐伯光男先生のお二人が小生の子守をして下さり、以後長いことお二人と心のこもった交流をさせていただいた。アンコールにプロコフィエフの「ハープ」を弾く。

 河野先生宅にて、司牡丹の冷酒などをたっぷり頂戴し、酩酊。先生の名器を父が弾き、小生はハープシコードにて伴奏。翌朝指先が痛いという父に、昨晩のバイオリンのせいではと言うと、彼には全く記憶になかった。酔うと電柱は自然に寄って来る、という父の話に、妙に納得する。家族で丁度愛響事務局におじゃましていた時に、父が芸術院会員になったという知らせが届く。彼の人生にとっての、一番大きな名誉ある報を、松山の愛響にいた時に頂いた。小生の結婚式にお越し戴いた河野先生ご夫妻の、ご長男の結婚式に、新婚ホヤホヤの二人で出席させていただいた。父の昔のバイオリンの生徒で、子供の頃に非常に好きであった方のご両親である塩崎潤先生ご夫妻にもそこでお会いし、大変になつかしかった。

 東京港から父達とサンフラワー号に乗り、一晩かかって高知に着き、そこで中田カッチャンと岩井さんと落ち合い、車2台で松山に入り、河野先生ご夫妻と愛媛県のはずれの西海町まで行った。真夏の本当に暑い時に、藤原愛媛県漁連会長宅に、小生の子供達も一緒に泊めて戴いた。おいしい鯖と、美しい海中公園など、まるで昨日の出来事のようだ。

 指揮者の善し悪しはその左手の動きを見るという話を、初めて愛響を振った本番の直前に山田さんからうかがう。その音楽会のプログラム作りに、山田さんに実に大きな精神的援助をいただき、前代末聞(?)のサンサーンスの弾き振りで締める。以後この曲が小生の弾き振りの十八番となった。

 父が、第二の故郷とまで言っていた松山には、弾き振りと指揮と共に、お酒の飲み方、お魚の美味しい食べ方も教えていただいたが、こうして17年にわたるいろんな出来事を思い返してみると、大きな人生の尊さと、本当の友情というものを、真心を込めて教えていただいたように思う。感謝してもしきれない、熱い想いを抱いているものである。

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