渡邉暁雄先生夜話
場面をご説明します。1983年11月、第11回定期演奏会の
練習のために来松された渡邉暁雄先生を山田卓事務局長(当事)
が松山市内のホテルへ御案内し、遅い夕食を共にしています。
その時先生がお話しされた内容をまとめたものです。
「愛響はプロ並みだね。……いや、演奏技術のことではありませんよ。プロは演奏技術者として雇われているのですから、常に精進怠りなく、そして、きちんと本番をつとめさえすれば、それだけで良いのです」「愛響の皆さんがプロ並みに練習していらっしゃるかどうかは存じませんが、日頃は皆さんでお決めになった日に集まって合奏練習を続け、公演本番で一丁あがり。そこで、プロと一番違うところは、誰よりもご身の演奏に酔い、お酒にも大いに酔ってしまわれて、夜の更けるまでお元気に騒ぎ続けていらっしゃることかな」
晩秋の夜雨が暗い大きなウインドガラスを濡らしつづけ、条線がちちっと走るホテルのグリルの窓辺。私と向きあうシートに深々と坐り、「今夜はお酒をよしときましょう。少し、あなたとお喋りしてみたいのでね」そう断って、ピザパイ、野菜サラダとホットミルクの簡単なメニューを夕食兼夜食に注文された渡邉暁雄先生。愛響定期公演を一月後に控えた強化練習後のひとときのこと。フォーク持つ手を時々休めて、優しい瞳で私を見詰め、こぼれるようなスマイルで静かに話し続けられる。
「私もね、少しはアマチュアオーケストラともお付き合いしてきましたが、いつも、練習を始める前に必ず何人もの方々が入れ代わり、立ち代わり、ご自分たちが担当していらっしゃるお仕事の報告やら連絡のお話しを始めます。チケットやチラシづくりの進行状況、ポスターのデザインはどこの美術の先生に頼んだとか、プログラムの編集はどこのパートでやって欲しい、印刷の手配は誰々の役だ、マスコミの取材依頼は誰と誰で行ってくれ、ゲストの送迎は誰さんの番、エキストラの面倒は誰々でやってもらいたいとか。呆てはお弁当の相談や、反省会の幹事の選任から、ついには『僕の事務局長の任期はこの公演で終り、次はどこのパートから選んで下さい』などと報告やら相談が延々30分も40分も続いて練習時間が潰されてゆきます」
「私は、所在なく繰習場の隅に坐り、一生懸命に議論したり、相談したりする皆さんの真剣な様子を拝見していて、『ああ、成るほど、これがアマチュアオーケストラなんだな』と感心し、納得するんですよ」
「プロだと、集ったら、練習の打合せだけ済ませると、すぐチューニングです。ところが、愛響の場合は全くその通りで、こまごまご相談や報告なさったりすることが無く、私へのご挨拶をされるとすぐ音出しにかかる。この点は大変すっきりしていて、プロ並みですよね」
一杯のコーヒーだけでは、どうにも間が持てそうにない話の濃さの気配である。「先生、恐縮ですが、僕、ビールを頂いても宣ろしいでしょうか」そう断わり、グラスを手にしてマエストロに視線を返す。もう10年以上も愛響と深く関わり、限りなく魅力的なキャラクターで我が団員たちを包み、アマオケには勿体ない高い伎倆で指導薫陶されてきたこの大家は、楽団の運営にも目配りされ、常に助言を惜しまれない。
「皆さんの中には、『私たちはアマオケですから、いつも事務局長に切符売れ売れと尻を叩かれます』と私に訴えられますが、職業音楽家だって、いや、職業音楽家の方こそ、自身の音楽会には一人でも多くの方々に聴いていただくため一生懸命券売りに努力しています。プロオケの楽員だって、どんどん切符を割り当てられ、皆さんそれを捌くのに大変なのですよ。第一、公演で黒字出して、それだけで維持できるオーケストラなど日本に一つもないのですからね。アマチュアだって、趣味道楽だからって人委せで切符売り怠ったら潰れてしまって、その道楽の演奏活動が出来なくなってしまいますよね」「兎角、切符売りは性に合わないとお高く止っている方は、プロよりアマチュアの方によくお見受けするようだね。この点も愛響の事務局長さんはプロ並みに専任で、喧しく発破(はっぱ)かけられるのは、何より楽団を永続きさせるのがお役目ですから、ちっとも遠慮なさることはありませんよ」「愛響のリハーサルなどで一寸面白いなと思うのは、ステージ練習のときなど、『おおい事務局長、もっと冷房効かせるよう事務所へ言ってこい』とか、『もっと照明上げるよう言ってくれ』などと、若い人がちょっと走れば済むことも皆、ご年輩のあなたにどんどん命令されるのを聞いていて、つい苦笑してしまいます。プロだと、団長とか、事務局長などは若い楽員など気易く声も掛けられない雲の上の方ですからね。愛響の皆さんは、事務局長は消耗品だから、使い潰したら代りを持ってくれば良いと思っていらっしゃるのかしらと思い、仲々豪勢なオーケストラだなと感心することもあります」
こう言って、悪戯っぽく微笑んで、「でも、これは愛響の弱点、欠点ですよ。成る程、演奏する側からすれば、心配ごとや、余計な雑用など何もしなければ、それはそれで居心地がよろしいし、プロ並みに楽器だけ抱えて『ハイ今晩は』『ハイさようなら』で、ばたばたと忙しいのは一部の方だけですから、一寸したアーチスト気分にも浸れて悪い気はしないでしょうが、でも、そんな片肺飛行のような運営を続けていると、いつか愛響さんご自身が困ると思いますよ」「一つのオーケストラの公演実務を全部背負いこむのは、プロならオケ専属の事務所がやることです。そこなら手馴れた専門家たちが居ることですし、一人や二人にトラブルがあっても、人を補充すれば解決します」「それに、一番大切なのは、あれ程の情熱家で実行力があって、若い皆さんとご一緒に練習にも励んでいらっしゃる河野先生だけが、あなたの忙しさやご苦労を一番ご存知で『少しでも手を貸してやらないと』と口癖にされ、頑張っていらっしゃるのを見ていると一寸考えてしまいます」
「こんなこと言うべきで無いかも知れませんが、お二人共もう決してお若くはありません。万一、お二人が去られたらという時のことをお考えになったことがありますかしら。私も、もう10年も愛響とお付き合いを続け、皆さんに信頼していただいて、出来る限りのお手伝いをしてきましたが、だんだん歳を取ってくると、やはり万一の時のことも考えておくのが、責任のある身の処し方ではないかと思います」
「少々湿っぽい話しになりましたが、一寸話題を明るいことに変えましょうか」
「実は、先日王貞治さんとご一緒する機会がありましてね。いろいろ伺って大変感心したり、参考になったことがあります」「それは、あの王さんが、バットを振るテクニックの修練と同時に、秒速40メートルくらいの速さで飛んでくるポールを、目でしっかり捉えるためにさまざまな工夫やトレーニングを積まれたそうですが、その一つに、回転しているレコード盤の文字を読みとる訓練を続けられ、やがて文宇がちゃんと読めるようになり、飛んでくるボールの縫い目まではっきり見えるようになったそうです。あれだけの大打者になる為の努力は凄いものですね。ホント鷹の目だねえ」
「それに、試合前には体調を充分整えて、ゲーム前から心身を野球にしぼり込んで行かれたそうで、摂生して好いコンディションで試合に臨まないと、良い仕事が出来ないと言われるのを聞き、どんな世界でも頂点を極めるような方はそうなんだなと納得しました」「私たちだって、公演の前には充分に摂生して体調を整え、本番で消耗するエネルギー量も計算して、どんな食事や休養をとっておけば最良のコンディションで臨むことが出来るかということに心配りすることが欠かせません。そして、ステージにあがる前から音楽の中に気持を入れて次第に昂揚させ、一番気分がのってきたところでステージに出てゆくよう心掛けてきました」
体中がぞくぞくする程の濃厚な中身、示唆に充ちた話が続く。愛響というものがあったが故に、の偉大な芸術家とめぐりあい、その謦咳(けいがい)に接し続けられる幸せをしみじみ味わいつつ、私は夜の更けるのも忘れ耳を傾けた。
1983年11月、全日空ホテルのグリルも次第に人気が少くなってゆく。窓外は、依然降り止まぬ時雨にぼんやりと煙っている。
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