Concert Notes
第3回定期演奏会
リヒャルト・ワーグナー:トリスタンとイゾルデ「前奏曲と愛の死」
曽雌裕一
死を覚悟したはずのトリスタンとイゾルデが、侍女ブランゲーネの「作為」によって愛の媚薬を飲んでしまったばかりに、死よりも救いのない禁断の愛の世界に踏み込んでしまう。ワーグナーの代表作であるばかりでなく、全てのオペラ、楽劇の究極の音楽表現とも評される、この類まれな芸術作品は、実は、ワーグナーと人妻マティルデ・ヴェーゼンドンクとの燃えたぎるような不倫の恋が背景にあることを見落とすわけにはいきません。しかし、そんな肉欲的な愛の姿が、これほどまでに崇高に描かれた事実を、我々は一体どう理解すればよいのでしょう、「前奏曲」では、「トリスタン和声」とも呼ばれる半音階進行で展開する弦楽器や木管楽器の何とも研ぎ澄まされた美しさ。そして後半の「愛の死」では、現実からひたすら乖離(かいり)してゆく愛の浄化ともいうべき神々しさと静寂さ。本来ならば、楽劇冒頭の「前奏曲」と最終場面の「イゾルデの愛の死」の間には、3時間半以上の音楽が連綿と続いているはずなのに、このわずか20分強の間に前場面の情景を彷彿とさせるワーグナーの音楽の魔術。まさに19世紀の最高芸術と呼ぶに相応しい音楽が今ここに歴然と存在しているのです。
■本日の聴きどころ
「前奏曲と愛の死」は管弦楽のみで演奏されることがほとんどですが、本日は後半の「愛の死」をオリジナル通りソプラノ独唱付で演奏いたします。しかもソリストは、新国立劇場のワーグナー「ニーベルンクの指環」公演でジークリンデやグートルーネを熱唱し、大喝采を浴びた蔵野蘭子さん。彼女の生涯初の「イゾルデ」を本日の演奏会で披露してくださいます。我々のオーケストラとしても夢のような出来事です。なお、蔵野さんが歌われる「イゾルデの愛の死」(亡骸となったトリスタンを前にして、彼が宇宙と合一する至福の姿を歌い上げる場面。歌い終わった後イゾルデも天上へと旅立ってゆく。)の訳詞は次の通りです。(オペラ対訳ライブラリー「トリスタンとイゾルデ」(音楽之友社刊より高辻知義氏の訳を引用)
穏やかに、静かに、彼が微笑む、その眼をやさしく開く―みなさん、ご覧になれますか?見えていますか?
しだいに輝きをまし、彼がきらめくさま、星たちの光りに囲まれ、昇ってゆくさまが?見えていますか?
彼の心臓が雄々しく高まり、ゆたかに気高く胸うちに漲るのが?
その唇から、喜ばしくも穏やかに、甘い息吹がやわらかに洩れるさま―みなさん、ご覧なさい!それが感じられ、見られませんか?
私にしか、この調べは聞こえないのですか、奇蹟にあふれて、かすかに、
歓喜を嘆き、すべてを口にして、穏やかに和解をもたらしながら、彼の口から響いて、
私の胸うちにしみいり、羽ばたき昇る、情愛ふかくこだましながら、私を包む調べが?
響きの輝きを増しながら、私をめぐり包む、
それは、さざなみとなって寄せるそよ風でしょうか?大浪となって打ち寄せる歓喜の香気でしょうか?
そのさざなみが、大浪が高まっては私を包んでざわめくさま、私はそれを呼吸し、それに耳を澄まし、
それをすすり、そこへ身を沈めたらよいのでしょうか?香気のなかへ甘く息を吐き切ったらよいのでしょうか?
この高まる大浪のなか、鳴りわたる響きのなか、世界の呼吸の吹きわたる宇宙のなかに―
溺れ、沈み―我を忘れる―こよない悦び!
※第3回プログラムに掲載されたものです。禁無断転載
グスタフ・マーラー:交響曲第5番嬰ハ短調(最新校訂版)
曽雌裕一
■与太話のような前置き
今年の5月30日、足掛5年に及んだマーラーの権威ガリー・ベルティーニ指揮による東京都交響楽団のマーラー交響曲全曲演奏シリーズが、第9番をもって終了し、同時に彼の都響音楽監督としての活動にも終止符が打たれました。その演奏会場は、奇しくも本日の演奏会とおなじこの横浜みなとみらい大ホール。事実上のベルティーニ音楽監督退任公演とはいえ、チケットは早々に完売。終演後の会場は怒号のようなブラボーと拍手の渦に包まれたのでした。
マーラーという作曲家の交響曲は、なぜか日本で絶大な人気を誇っています。交響曲第1番「巨人」や本日演奏される第5番など、独唱や特殊楽器の入らない、彼の作品としては比較的シンプルな曲はもちろんのこと、非常に大規模な楽器編成や合唱団を要する第2番「復活」とか第3番といった90分から100分を超える大作さえも、日本の国内オーケストラのプログラムにはしばしば上ります。ハイドンやモーツァルトの交響曲が取り上げられるよりも、むしろ頻度が高いと言って良いほどの印象さえあるのですが、一体、どうしてマーラーはそんなに人気があるのでしょう。
著しく改良された現代楽器を備えたオーケストラと常にエンターテインメント性を求められる現代の指揮者がその音楽性と名人芸を披露するためには、もはやベートーヴェンやブラームスではなくマーラーを演奏するしかないことが明らかになってしまった、という趣旨の解釈が村井翔氏の「作曲家◎人と作品マーラー」(音楽之友社)に紹介されています。もちろん、これは一つの比喩であって、ベートーヴェンやブラームスでも、すぐれた指揮者にかかればとてつもなく斬新な名演が生まれることは、もしもチェリビダッケやギュンター・ヴァントの指揮する生の演奏会をかつて一度でも聴いたことがある方なら、何の異論も挟まれることはないでしょう。
ただし、フル・オーケストラの大音響や連続する高難度のパッセージに魅せられて、マーラーに果敢に挑戦する傾向というのは、今や、むしろアマチュア・オケにそのままあてはまる現象だということは確かなことかもしれません。今月上旬には、わずか4回のリハーサルでマーラーの交響曲第9番を演奏したアマチュア・オケもあったと聞きます。
マーラーが生きていたら、まさに驚天動地の思いだったことでしょう。
いや他人事ではありません。我々のオーケストラも、まさにそのマーラーを演奏するために創られました。10年以上かけて交響曲その他の作品を全部演奏する遠大な計画の本日はまだたった3回目です。かつて、指揮者のレナード・バーンスタインが「交響曲はマーラーで終わった」と語った意味を改めてかみ締めながら、交響曲史の頂点に上り詰めたマーラーが交響曲第5番の楽譜に書き込んだそのすべての思いのたけを本日、渾身の力をもってご披露させていただきたいと思います。
■付け足しのような曲目解説
グスタフ・マーラー(1860年生〜1911年没、ボヘミア−現在のチェコ共和国−の生まれだが、活動の大半はウィーンであったため、一般的にはオーストリアの作曲家として通っている)は、生涯で9曲の交響曲(「大地の歌」を除く)を完成させましたが、42歳のときに作曲された交響曲第5番は、独唱も合唱も伴わない純粋な器楽交響曲としての要素(ソリストや合唱団の調達が不要という演奏のしやすさ)も手伝い、交響曲第1番「巨人」と並んで演奏頻度の非常に高い、マーラー中期の代表作です。初めて聴くという方でも、第4楽章「アダージェット」をお聴きになれば、ああこの曲かと思わず納得されるはずです。三部構成全5楽章で、今日の演奏時間は約80分を予定しています。ちなみにこの曲の作曲中にマーラーはアルマと結婚しています。
●[第1部]第1楽章(葬送行進曲:正確な歩みで、厳格に、葬列のように)
トランペットの葬送を告げるファンファーレで始まり、中間部までは一貫して沈痛な旋律に支配されます。その後の第1中間部は突然のような激情の嵐。やがて訪れるユダヤ人大虐殺の予見がここにあるとする哲学者アドルノの言葉もあるほどです。最後は、暴徒のファンファーレがフルートで悲しげに奏でられ、葬送は終結します。
●[第1部]第2楽章(嵐のように激動して、より大きな激しさで)
静寂の後の大嵐。怒涛のようなオーケストラの咆哮が一段落すると、木管楽器の刻む打音的なリズムの奥に第1楽章第2中間部で現れた主題が哀愁を帯びたチェロによって再現されます。楽章の後半では全曲の終わりを感じさせるニ長調の明るいコラールが登場しますが、それもつかの間、再度の嵐の中に光は消し飛んでしまいます。
●[第2部]第3楽章(スケルツォ:力強く、早すぎずに)
ウィンナ・ワルツのオマージュとも言うべき、どことなく田舎風の長大なスケルツォです。この楽章では、オブリガート・ホルンと指定されたソロ・ホルンが全編妙技を聴かせる協奏曲的な要素も見逃せません。
●[第3部]第4楽章(アダージェット:非常にゆっくりと)
映画監督ヴィスコンティの名作「ベニスに死す」で使われたこの楽章が、、まさにこの曲の運命を変えたと言ってもいいかもしれません。弦楽器とハープのみで演奏されるマーラー畢竟の美しさに満ちた12分間です。
●[第3部]第5楽章(ロンド・フィナーレ:アレグロ)
官能の第4楽章から一転、どこかいたずらっぽい音楽の遊びで開始される最終楽章ですが、主部に入るとバッハ風のフーガ、二重フーガ、三重フーガに際限なく増え続ける対位旋律と、モーツァルトの「ジュピター」交響曲第4楽章を4次元的に拡大したようなパッセージの輪廻状態となります。そして、金管による壮大なコラールの頂点が今度こそ明快なニ長調で築かれた後、狂気のような速度で一挙にフィナーレになだれこんでいくのです。
※第3回プログラムに掲載されたものです。禁無断転載