Concert Notes

第5回定期演奏会

グスタフ・マーラー:「葬礼」Totenfeier(交響曲第2番《復活》第1楽章初稿)

演奏時間:約30分

曽雌裕一

(1)作曲の経緯
 マーラーに《葬礼》などという交響詩があったっけ?という素朴な疑問もごもっとも。CDも数えるほどしか出ていないし、日本では演奏会のプログラムに載ることもほとんどありません。
なぜか?それは、この曲が、交響曲第1番《巨人》と並んでマーラーの初期交響曲の代表作といわれる交響曲第2番《復活》の第1楽章とまったくそっくりだからです。
 グスタフ・マーラー(1860-1911)が、交響詩《葬礼》の譜面を完成させたのは1988年9月。しかし、当初の意図としては、この曲を単独の交響詩として発表しようという心積もりは毛頭なく、それどころか、この曲を第1楽章とする規模の大きな交響曲に仕立て上げようとするもくろみが、残されているスケッチ(第2楽章のテーマを書いた記録が残っています)からはっきりしています。それなら、結局、最終的に現在の交響曲第2番《復活》になったというだけの話じゃないの、とお考えのになるとすると、話はそれほど単純ではありません。
 というのも、マーラーは、その後、なぜかこの交響曲の作曲を中止してしまうからです。理由は定かではありません。しかも、出来上がっていた第1楽章にあたる部分を《葬礼》と名付けて交響詩として出版することができないかどうかをショット社という楽譜屋に持ちかけています。しかし、ショット社はこの打診を断ったため、事実上、交響詩《葬礼》の譜面は、世に出ることなく完全に葬り去られてしまうことになります。
 ところが、数年後、マーラーは、この曲を多楽章の交響曲として完成させることに再び着手します。その過程で、すでに《葬礼》として出来上がっていた譜面は、楽器編成の拡大や小説数の短縮という修正を施された上で、1894年12月に完成する交響曲第2番《復活》の第1楽章となって、全5楽章の交響曲の中に組み込まれます。これこそが、現在、交響曲第2番《復活》の第1楽章としてわれわれが通常聴いている楽曲ということになります。しかしながら、この第1楽章に《葬礼》という副題が再び付けられることはありませんでした。
 実は、正確に述べると、この後1896年に、《葬礼》という標題を持つ曲がマーラー自身の指揮で演奏されたという記録が残っています。しかし、ここで演奏されたのは、かつて交響詩として彼が出版を試みた曲ではなく、後に改訂された交響曲第2番《復活》の第1楽章そのものでした。なぜマーラーが、自分で改訂した譜面を初稿に付けた《葬礼》という名で演奏したのか、その真意は彼自身によっても語られておりません。いずれにしても、交響詩《葬礼》は、交響曲第2番《復活》の完成とともに、いわばその存在意義を失い、1983年12月にロペス・ヘスス=コボス指揮ベルリン放送交響楽団によって蘇演されるまで、実に100年近くの眠りに入ってしまうのです。

(2)現在出版されている楽譜
 メンゲルベルク財団で長い眠りについていた《葬礼》の譜面がルドルフ・シュテファンの監修により出版されたのは、実に作曲後100年目の1988年のことでした。なんと、わずか20年ほど前の出来事なのです。本日の演奏にももちろん、国際マーラー協会編纂になるこのスコア(Universal Edition UE13827)を使用します。
 曲全体の構造は交響曲第2番《復活》第1楽章と大体同じで、非常に大雑把に言ってしまうと、低弦の印象的な動機から始まる「葬送行進曲」の部分、牧歌的な楽想や延々とした葬列を印象付ける緩徐部分、前半をより対位法的に変形した再現部という変則的なソナタ形式と考えられます。しかし、《葬礼》稿と現在の交響曲第2番《復活》第1楽章の譜面とは、細かな点ではかなり異なっていますので、ご関心のある方は、マーラー研究家として有名な金子建志先生の『マーラーの交響曲』(音楽之友社・1994、pp.63-72)をぜひ参照されることをお薦めします。

(3)「葬礼」(Totenfeier−トーテンファイアー)の意味
 1889年という年はマーラーにとって不幸の連続でした。2月に父親が、9月に妹が、そして10月には母親までもが相次いで亡くなってしまいます。しかも、マーラー自身も7月に痔の手術(現代のように手術は簡単ではなかったようです)で苦しんだあげく、11月には盤石の自信を持って臨んだ第1交響曲の初演が大失敗。こうした悲運の連続が、後の交響曲第2番《復活》の内容に少なからぬ影響を及ぼした可能性はしばしば指摘されるところですが、しかし、《葬礼》の譜面自体は1888年に完成しているので、ここでいう《葬礼》が身内への「弔い」ないし「鎮魂」を意味するものではないことは明らかです。では、一体、誰の、あるいは何の「葬礼」なのでしょうか。
 これについては、当時、オーストリアの思想家・作家でマーラーの親友であったジークフリード・リピナーが、ポーランドの国民的大詩人であったミツキエーヴィチの代表作の題名を「Totenfeier(葬礼)」と訳したドイツ語訳を出したばかりだったことと綿密な関係があるというのが有力説となっています。そうであれば、交響詩《葬礼》は具体的・現実的な表現対象があったわけではなく、むしろ哲学理念としての「生と死」への対峙がその作曲思考の根本にあったと想像されます。そう考えると、例えば、刹那的な悲しみの旋律の中に、突如として牧歌的パストラーレが現れて「生への喜び」を語り始めるマーラー独特の極端なほどの表情の移ろいもよく理解できるのです。

(4)お薦めCD
 《葬礼》のCDで現在手に入るものは、事実上、次の2点くらいしかありません。
●ピエール・ブーレーズ指揮シカゴ交響楽団(国内盤:グラモフォンUCCG7027、輸入盤:DG 4576492)
●リッカルド・シャイー指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(輸入盤:Decca 470283)
 どちらもオーケストラ(あるいは録音処理)に破綻はありませんし、曲を知るための標準的な演奏とは言えますが、反面、強烈な個性は感じさせません。アメリカとヨーロッパのどちらのオケが好きか、といったレベルで選んでよいかと思います。ただし、後者は、交響曲第2番《復活》とのカップリングなので、同じ指揮者とオーケストラによって、《葬礼》と《復活》第1楽章の比較が同一CDでできる点では、資料的に貴重です。

※第5回プログラムに掲載されたものです。禁無断転載

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グスタフ・マーラー:交響曲第1番ニ長調「巨人」

演奏時間:約60分

曽雌裕一

(1)作曲の経緯
 現在では、クラシック音楽定番の人気曲となっているマーラーの交響曲第1番《巨人》もまた、数々の変遷を経て現在のような形に至っています。
この曲の原型をマーラーが作曲し終わったのは1888年のことで、ブダペストで自身が指揮して初演したのが1889年11月。しかし、このときは2部5楽章からなる「交響詩」というのがこの曲に与えられた形式でした。初演は大失敗。次の2稿に当たるのがいわゆる1893年のハンブルグ稿。2〜5楽章に手が加えられましたが形式はやはり「交響詩」。実は《巨人》という副題が付されたのは、この稿が演奏された2回だけなので、現在の曲を《巨人》と呼ぶのは、実は作曲者の意に反しています。
この後、1896年にベルリンで初めて4楽章の交響曲(「花の章」を削除)として演奏された第3稿、1906年に出版された総譜(修正第3稿)と続いて、1967年にマーラー協会全集版として出版された楽譜が、今日われわれの聴く《巨人》の全体像となります。
 ただし、マーラーは、生涯を通じて、演奏のたびに譜面に細かな修正を加えていったので、《巨人》を若書の習作的な作品と単純に位置づけるとするとそれは大きな間違いです。後の交響曲第9番にも匹敵するような深遠な情感や感性に満ちた箇所が第4楽章などには明らかに見て取れるので、その点を軽視したアプローチによる演奏は、マーラーがこの作品に何度も何度も手を入れた真意を見誤ってしまうものと言っても過言ではないでしょう。

(2)本日演奏する総譜
 国際マーラー協会全集版のスコア(Universal Edition UE13820)(Verbesserte Ausgabe改訂版・1992年刊)を使用します。なお、同協会刊行の旧版(1967年刊)との異同については、前述の金子建志著『マーラーの交響曲』(音楽之友社・1994、pp.40-52)をご参照下さい。

(3)楽章毎の解説(特に《さすらう若人の歌》等の初期歌曲との関係に注意して)
第1楽章:ゆっくりと、ひきずるように、自然の響きのように-常にきわめてゆっくりと

 序盤部分は、弦楽器のフラジオレットや木管楽器の静かな下降音型、クラリネットや舞台裏のトランペットによるファンファーレ等々、いわば不安定な断片素材が漠とした輪郭の中に連続的に登場するという、極めて捉えどころのない音楽になっています。冒頭の響きは、後の前衛音楽におけるトーン・クラスターの先駆けという分析まであるほどですが、それだけに、正確な音程やリズム感・音色感がないと混沌のまま終わってしまう可能性があるので、演奏者側にとっては非常に緊張を強いられる数分感です。
 しかし、チェロによる第1主題が62小節目から始まると、明快で分かりやすい曲想となります。それもそのはず、この主題は歌曲集《さすらう若人の歌》の第2曲そのもので、誰でも口ずさみたくなるような明るいメロディだからです。曲は、展開部・再現部と続いて、一応ソナタ形式のような形をとってはいますが、重要な第2主題というべきものもなく、4度下降の動機と第1主題が自在に展開するマーラー独自の様式と考えることもできます。

第2楽章:力強い動きで、しかしあまり速過ぎないように-トリオ まさにゆったりと
 全体に活力が満ち溢れた三部形式のレントラー舞曲。8小節目から木管楽器によって奏される第1主題は、歌曲集《若き日の歌》の第3曲「ハンスとグレーテ」からの転用ですが、この曲の原曲は、マーラーが20歳のときにイーグラウ(現在のスロヴァキア共和国領)の郵便局長の娘ヨゼフィーヌ・ボイスルに捧げた歌曲「草原の5月の踊り」で、しかも彼女はマーラーの初恋の相手だったとも言われていますので、まさに青春の思い出が込められた楽章とも言えます。中間部はゆっくりしたウィンナ・ワルツで、シューベルトへのオマージュと見る評者もいます。

第3楽章:厳粛かつ荘重に、ひきずることなく
 非常に独創的な発送による「葬送行進曲」。ティンパニの刻むリズムに乗ってコントラバスに現れる特徴的な旋律は、当時誰でも知っていた俗謡の「マルティン兄ちゃん」から採られています。この部分は、コントラバスの首席奏者に超絶技巧を求めるソロ演奏最難関箇所として有名ですが、本日使用する1992年改訂版では、このソロは「グループで弾く」との新しい指示が付されています。その学問的評価にはここでは触れませんが、この指示にも関わらず、現在でも、従来通りソロ奏者1人に演奏させる例の方が多数派かもしれません。ちなみに本日の演奏会では、譜面の趣旨を尊重し、コントラバス奏者4名のユニゾンにより演奏される予定です。なお、やや明るい楽調に変わる中間部で登場する旋律は、《さすらう若人の歌》第4曲からの転用です。

第4楽章:嵐のように激動して
 激烈な全強奏の助奏部、ミリタリー・マーチといわれる第1主題、一転して陶酔的で朗々とした第2主題など様々な要素を取り込みながら、自由で大胆な形式を取って長大な楽章を展開していきます。指揮者のチェリビダッケは「マーラーには始まりはあるが終わりはない」として一連の交響曲(特に終楽章)を常に批判し、生涯に一度も演奏することがありませんでした(例外的にマーラーを演奏したのは、歌詞に意味があるとした《亡き子をしのぶ歌》のみ)が、ブルックナーの重層的な様式感とまるで対極にあるようなマーラーの自由奔放な情熱のほとばしりが、交響曲の枠を飛び越えた共感を逆に呼んでいるということもできるかもしれません。

お薦めCD・DVD
 《巨人》のCDは膨大にありますが、必ずしもマーラーが得意ではないのに有名曲なので録音した(あるいは録音させられた)著名指揮者の演奏もたくさんあるので要注意です。一応、ベルティーニ、インバル、テンシュテット、ギーレン、バーンスタイン、ワルターといったいわゆるマーラーに一家言を持つ指揮者たちの演奏を選べば、それぞれ違った聴かせどころを持っているので、聴き比べたときの面白さは確かにありますが、全曲を通して「いやはや参りました」というほどの名演奏にはなかなか出会えないのも《巨人》という曲の不思議なところです。
 ここでは、骨太でスケールの大きな演奏としてコンドラシン生涯最後の演奏(CD)と、映像としても大変面白いテンシュテットのライブDVDを参考として挙げておきましょう(もちろん、決定版というわけではありません)。
●[CD]キリル・コンドラシン指揮ハンブルク北ドイツ放送交響楽団(輸入盤:EMI5628562)
●[DVD]クラウス・テンシュテット指揮シカゴ交響楽団(輸入盤:EMI3677439)

※第5回プログラムに掲載されたものです。禁無断転載

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