Concert Notes
第10回定期演奏会
「マーラーとワーグナー」
私が初めてワーグナーの聖地、バイロイトを訪れてから、もう30年の年月が流れた。1983年、ワーグナー没後100年のこの年、ウィーン国立歌劇場の中心的指揮者であったホルスト・シュタイン先生に、ぜひバイロイトで勉強したいと直談判したところ、カレンダーを取り出し、「この日の朝10時にバイロイト祝祭劇場の楽屋入り口で待っていろ!」と告げられた。数ヵ月後、この年の上演演目のすべてのフルスコアをカバンに詰め(この年は、マエストロがマイスタージンガーを、ショルティが指環のサイクル、レヴァインがパルジファル、バレンボイムがトリスタンという、今考えると大変贅沢な年でもあった)、夜行列車を乗り継ぎ、バイロイトに降り立った。
約束の時間ぴったりにマエストロ・シュタインが現れ、「俺について来い!」といきなり、祝祭劇場の中に導かれた。迷路のような、劇場の中をマエストロの後を追いかける。とある部屋の前で、ちょっと待ってろ、と言われ、数分。マエストロが「話はしてあるから、あとは彼女にすべて話を聞け、じゃ後で!」とマエストロは足早に立ち去った。その部屋で気品に溢れたご婦人がにこやかに迎えてくれた。彼女はバイロイト音楽祭の伝説的合唱指揮者、ウィルヘルム・ピッツの未亡人で、すべて事務局の仕事を掌握していた。「マエストロからお話は聞いていますよ。はい、これが許可書。これから、あなたはすべての練習に自由にお入りなさい。困ったことがあれば何でも私に聞きなさい。」とのこと。正直、驚きと共に、この寛容さが若い指揮者たちを育てて行くのだと感謝の言葉もなかった。その後、数年間同様にバイロイトで学ぶことができた。今当時を振り返っても、何と大きな体験をさせてもらったことだろうか。
本日のプログラムはマーラーの交響曲の中で編成も小規模でもっとも簡素と思われている第4交響曲、かたや26年の歳月を費やし、ギネスブックものの大編成の管弦楽、全4部作の上演に15時間以上を要する「ニーベルングの指環」の抜粋。この2つの作品は一見、何も繋がりがないと思われるかもしれない。しかし、改めて指揮者としてのマーラーの活動を振り返っていくと、いかにマーラーがワーグナーの作品に対し深い憧憬を持ち、かつ影響を受けていたかがわかる。生前のマーラーは当時随一のワーグナー指揮者として生涯を通して、本日演奏する「ニーベルングの指環」を含むワーグナーの主要作品を繰り返し取り上げた。それらはいわばマーラーにとっての十八番とも言えるものだった。また、アドルノ(ドイツの哲学者、またベルクに師事した作曲家でもあり、マーラー研究で名高い)をはじめとした多くの研究者が指摘するように「パルジファル」を含めたワーグナー作品とマーラーの作品との関連性は大いに考察するに値するものと言える。
ワーグナーが没した1883年、この時マーラー22歳。(未亡人アルマ・マーラーの回想を信じるなら)学生時代、一度だけウィーンで巨匠を見かけた時、緊張のあまり声をかける事もできなかったとの話もある。1882年、財政的な問題で6年振りとなる第2回バイロイト音楽祭で「パルジファル」がヘルマン・レヴィ指揮で初演される(当時すでに心疾患を患っていたワーグナーは最終日の最終幕後半のみ、ピットでレヴィから指揮棒を受け取り、自身で最後まで指揮を取ったとの記録がある)。この時、マーラーはライバッハの契約が切れ、次のオルモウツでの契約まで、失業状態にありバイロイトへ行くことはかなわなかった。翌年2月13日ワーグナー没。ワーグナーの訃報に接し、マーラーは涙したそうだ。結局この2人の天才が会うことはなかった。同年夏、マーラーは念願のバイロイト詣を果たす。
マーラーは友人のフリードリヒ・レーアに宛て次のような手紙を送っている。「言葉もなく、祝祭劇場から出てきて、僕は悟った、もっとも偉大なもの、もっとも痛切なものが僕に開示されたのだ、と。」その後のマーラーは生涯を通し、ワーグナー作品の上演に時間を割いた。もしかすると、それは自身の作曲家としての創作活動の何倍もの時間だったかもしれない。
アドルノは特にマーラーの第3、第9交響曲と「パルジファル」の関連性に言及している。第3の第6楽章と終幕、第2楽章の花と「花の乙女」の類似性。私見で言わせてもらえれば、「花の乙女」と「指環」の「ラインの乙女」の動機との関連性も指摘できるだろう。マーラーの第4の終楽章「天上の生活」は本来、第3の第7楽章として想定されていて、あまりにも拡大してしまった第1楽章の完成のあとに、除外された。第4は、すでに完成していたこの「天上の生活」のテーマ、モティーフを拡大発展してできたものであるとも考えられる。その上、「天上の生活」は歌曲集「子供の不思議な角笛」に収録されている「地上の生活」と対をなすものとして考えられたのである。天上の豊かさを語る「天上の生活」、かたや貧しい親子の悲劇を歌う「地上の生活」(貧しい家庭の母親がなんとかパンを焼き上げるが、出来上がったときには子供は餓死していたというもの)。この2つの作品の対比だけでも、第4の持つ意味におのずと行き当たるのではないだろうか。
一方、ラインの黄金の魔力により、神々さえも没落する姿を描いた「ニーベルングの指環」。神聖と世俗。様々な要素が絡み合う、マーラーとワーグナーの作品。
本日の演奏で、何か、皆さんの魂に新しい発見とこの世界の不条理、また新たな未来、といったものを伝えることができればと願っている。長年、私たちとの共同作業を続けて来たソリスト、蔵野蘭子さんの存在がなければ、今日のプログラムは実現できなかっただろう。蔵野さんに感謝しつつ、私もJMOメンバー全員と一緒に、この2人の天才の作品に心して取り組むつもりで、本日の演奏会を迎えたい。
※第10回プログラムに掲載されたものです。禁無断転載
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マーラー:交響曲 第4番 ト長調(演奏時間:約60分)
(1)作品の背景
グスタフ・マーラー(1860〜1911)が第4番目の交響曲の作曲に着手したのは、1899年、33歳の夏のことでしたが、実は、この交響曲第4番の第4楽章には、前作、交響曲第3番で当初計画されながら、最終的に削除された第7楽章のイメージ《天上の生活》が転用されています。しかし、自作の「歌曲」との関係が濃密な前作までの3曲の交響曲との連関性よりも、むしろ、「歌」の部分を持たない交響曲第5番以降のポリフォニックなスタイルへの転換のための実験作品と捉えた方が、この曲の理解のためには正しいように思います。
かつて、この第4番は、楽器編成の小ささも手伝って、第1番「巨人」とともにしばしば演奏されていた時代がありましたが、最近では明らかに第5番の実演に接する機会の方が多くなっています。それは、「歌手」を1人要するという物理的な理由もあるでしょうが、それより、一見ハイドンのパロディにも思える第4交響曲の中に、実は、パロディとともにアイロニー(皮肉)のトラップ(罠)が巧妙に仕組まれていることを演奏者も聴衆も感じ取るようになり、これは一筋縄ではいかない作品だぞ…、と捉えるようになったからかもしれません。第2楽章で突然登場する「死神」役のソロ・ヴァイオリン、《天上の生活》とは言いながら、実はキリスト教冒涜とも思える過激で容赦ない終楽章の歌詞…。マーラーならではの皮肉に満ちたユーモアの世界が横溢しています。
(2)楽章毎の解説
第1楽章:丁寧に、急がずに (Bedächtig, nicht eilen)
鈴の響きとフルートが刻む印象的なリズムで曲が始まります。しかし、この音型が一定のリズムのまま消えていくのに対し、並行して現れるヴァイオリンの第1主題にはリタルダンド(テンポを次第に落とす)が指示されているため、拍の一致しない2つのフレーズが交錯するという、マーラーならではのウィットがいきなり炸裂します。この「相違するテンポ感」は、その後の提示部にも別の形で展開され、ハイドン的な古典形式の音楽に見せながら、実は、テンポ感の異なった主題が複雑に組み合わせられたパズルのような構成になっているのがこの楽章です。鈴の音が3度目に現れて展開部となると、まもなくフルート4本のユニゾンが音楽を大きく支配する場面となります。これに続くのは、文字通り多数の主題群が入り乱れる大暴れの展開部。やがてその混乱にトランペットのファンファーレ(第5交響曲冒頭のテーマ)が終息をもたらすと、再び第1主題が戻ってきますが、それもつかの間、「ほら早くうちに帰りなさい」とでも言わんばかりに、慌ただしく楽章が閉じられます。
第2楽章:落ち着いた動きで、慌てずに (In gemächlicher Bewegung, ohne Hast)
この楽章では、コンサートマスターが長二度高く調弦したヴァイオリンで「死神」の役を演じます。「長二度高く」というのは、やや大雑把に言ってしまうと、「ド」の音を出す指の位置で弾くと「レ」の音が出る、ということです。しかし、ドとレの音は同時に弾けばもともと不協和音ですから、この調で演奏されるヴァイオリンは、何とも不安感をつのる不気味な音に聞こえます。典型的な「死の舞踏」の音楽と言えます(サン=サーンスやリストの作品にも同じ趣向の有名曲があります)。構造的には2つのトリオを持つハ短調のレントラー楽章です。
第3楽章:安らぎに満ちて(少しゆるやかに)(Ruhevoll - poco adagio)
マーラーの交響曲における緩徐楽章では、複数の主題が自由に変奏を繰り返す複変奏曲のスタイルを採るものがしばしば見られます(交響曲第3番、第6番等)。この楽章もその形式に該当するものですが、ただし、チェロに歌い出される第1主題のあまりの美しさに比べて、オーボエからヴァイオリンに受け継がれる第2主題が妙に俗っぽい嘆き節調のメロディであるため、こうしたアンバランス加減の中に、マーラーの皮肉を見出す者もいるほどです(哲学者アドルノはこの曲を紹介するに当たり「君たちがこれから聴くものは、すべて本当ではないよ」と述べています)。実際、楽章が後半に差しかかると、激しく拍子が変わってテンポもどんどん加速する、という通常の変奏曲では考えられない展開を見せます。しかし、音楽は、決して歓喜や安らぎの中に終結するのではなく、最後は「完全に死に絶えるように」という意表を突いた指示のもと、深い沈黙の中に沈んでいきます。
第4楽章:とてもくつろいで (Sehr behaglich)
前述のとおり、第4楽章のアイデアはもともと交響曲第3番の終楽章に想定されていたものであり、第1〜3楽章と本質的に連関する内容があるわけではありません。もちろん作曲技法として、他の楽章のフレーズと関連性が見られる部分はなくはありませんが、それより最大の注目点は歌詞の内容でしょう。第2節では平然と「ヨハネが放つ無邪気でおとなしい子羊の屠殺」を奨励するかのようなくだりがありますが、この子羊がキリストその人の象徴であるという解釈は今や珍しいものではありません。グリム童話が、実は恐ろしく残酷な内容を秘めた物語であるのと同じように、マーラーはこの曲でこの歌詞を敢えて歌わせることにより、真実が隠されることへの皮肉を強烈に訴えたかったのかもしれません。
※第10回プログラムに掲載されたものです。禁無断転載
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ワーグナー:楽劇「ニーベルングの指環」抜粋(演奏時間:約55分)
(1)作品の背景
生誕200年を迎えるリヒャルト・ワーグナー(1813〜1883)の最高傑作と言われる楽劇「ニーベルングの指環」4部作(指環を意味する「リング」の作品名でもしばしば呼ばれます)については、必ずしもクラシック音楽ファンでない方でも、例えば映画の「ロード・オブ・ザ・リング」や、松本零士・池田理代子といった有名漫画家による作品で、そのエッセンスはご存じの方が多いかもしれません。ワーグナー35歳の1848年から61歳の1874年までおよそ26年をかけて作曲された全4部作の長大な楽劇で、(序夜)「ラインの黄金」、(第1日)「ワルキューレ」、(第2日)「ジークフリート」、(第3日)「神々の黄昏」の4作品からなっています(4作品の上演時間を合計すると、幕間の休憩時間を入れないでも、優に15時間以上を要します)。
本日の演奏会では、この全15時間を要する作品をそのまま上演することはできませんので、最近しばしば演奏会のプログラムで取り上げられる「リング抜粋版」の形式を採用して、そのエッセンスをお聴きいただきます。
(2)「リング」抜粋版
楽劇「ニーベルングの指環」全4部作は、ワーグナーの聖地とも言うべきバイロイト音楽祭でも計6日をかけて上演する(休みの日をいれないと、複数の作品に出演する歌手が死んでしまいます)のが通例です。ですので、もっと手軽に楽しむために、各作品のエッセンスを取り出して、2〜3時間程度で終わる1幕もののオペラのように改変して上演する試み、もともと管弦楽だけで演奏される部分を指揮者の好みで選んで演奏する管弦楽ハイライト版、あるいは本日の演奏形態のように、本来「歌」のある部分もそれを省略しても違和感のないように上手く編曲しながら、全体の重要ポイントを繋いで一つのドラマのように仕立て上げる編曲版、と様々な試みが行われています。
最近では、指揮者のロリン・マゼールによる管弦楽のための編曲版(「言葉のないリング」)も有名ですが、以前よりプロのコンサートでも取り上げられる機会の多い抜粋版が、本日演奏する、オランダ人ヘンク・デ・フリーヘルによる編曲版です。この編曲版は全部で14曲から構成されていますが、本日は、演奏時間の関係もあり、1.前奏曲、2.ラインの黄金、3.ニーベルハイム、(1曲略)、4.ワルキューレの騎行、5.魔の炎、6.森のささやき、(5曲略)、7.葬送行進曲、8.ブリュンヒルデの自己犠牲、の8曲のみを演奏します。ただし、最後の「ブリュンヒルデの自己犠牲」だけは、フリーヘル版ではなく、ソプラノ独唱を加えたワーグナーのオリジナル・スコア通りに全部演奏しますので、この部分だけで約25分近くの演奏時間を要します。
(3)簡単なあらすじと終曲「ブリュンヒルデの自己犠牲」
紙面の関係で詳細な筋書きは紹介できませんが、本日演奏する曲のうち、1〜3は「ラインの黄金」、4・5は「ワルキューレ」、6は「ジークフリート」、7・8は「神々の黄昏」からの選曲です。1〜3では、ラインの乙女たちが大切に守っていた「ラインの黄金」をニーベルング族のアルベリッヒが奪い、愛を断念した者だけが世界制覇の権力を手に入れられると黄金に呪いをかけて、地下の国ニーベルハイムで黄金から金細工の宝を作らせているところに、ワルハラ城造営の労力の代償として巨人族にこの宝を与えることを約束してしまった神々の長ヴォータンが、地下のアルベリッヒから黄金を奪いに行く、という何ともマフィアのような裏社会さながらの話が展開します。ニーベルハイムで宝を作る金床の音が印象的です。4は軍(いくさ)の乙女ワルキューレたちが天馬に乗って勇ましく集まってくる場面。映画やドラマの効果音楽としても用いられる有名曲です。
5は神から死の宣告を受けたジークムントの運命を変えて、命を与え続けさせようとしたブリュンヒルデが、その罰として父ヴォータンから岩山で永遠の眠りにつかされる場面です。岩山の周囲に炎を燃え上がらせ、この炎を越えて来られる英雄だけが眠りを覚ませるようにしてほしい、というブリュンヒルデの願いをヴォータンは最後の親心として受け入れますが、この英雄こそがジークムントとジークリンデの実の兄妹の間にできた子ジークフリートだったというわけです。6はジークフリートが自分の素性も知らないまま森に暮らしていると、やがて森の小鳥たちの声が聞こえるようになる場面。その後、怖れを知らぬジークフリートが岩山に眠るブリュンヒルデを見て、初めて愛の「怖れ」を知る場面に繋がります。7はハーゲン一族の謀略で命を奪われてしまうジークフリートの葬送行進曲。
そして、8はジークフリートの自分への裏切り(ハーゲン一族であるグートルーネとの結婚とグンターとブリュンヒルデとの強制的な策略結婚)がハーゲン一族の罠だったことを知ったブリュンヒルデが、全ての真実と愛の忠誠を携えて亡きジークフリートのもとへと旅立つ(=神々の没落を象徴するワルハラ城炎上の炎の中に自ら身を投じる)長大なモノローグです。実際の上演では赤一色に染め上がった舞台が神々の城ワルハラの大崩落とともに一瞬のうちに青く清廉なラインの流れに転換する、「ニーベルングの指環」最大のクライマックスでもあります(近年では、炎も水も何も出ないという演出もありますが…)。甦ったジークフリートへの愛によって指環の呪いを解き、再び炎の中で彼と一体となる壮絶なブリュンヒルデのドラマをどうぞお楽しみ下さい。
※第10回プログラムに掲載されたものです。禁無断転載
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