I. Sostenuto assai - Allegro, ma non troppo
II. Scherzo: Allegro vivace
III. Adagio espressivo
IV. Allegro molto vivace
ロベルト・シューマン(1810-56)は、出版、書籍販売、著述業を営む父アウグストと、かのレッシング家の血を引く母ヨハンナとの間に生まれた。8歳で音楽の勉強をスタートし、14歳のころにはかなりのピアニストになっていた。父はシューマンがウェーバーのもとで学ぶことを望んだが、それは実現しなかった。文学への志向が強い父の影響を受けて、シューマンは早くから古典に親しみ、詩作もした。シューマンが文学に造詣の深いロマン派の作曲家として創作活動に励む一方で、音楽評論の分野で執筆活動をおこなったのは、ゆえなきことではない。
1830年よりフリードリヒ・ヴィークの弟子としてピアニスト修行に打ち込むが、32年に手の故障により作曲に転向する。35年には、すでにピアニストとして演奏活動を初めていた師の娘クララ(1819-96)と恋に落ち婚約するものの、ヴィークの反対を受けて裁判沙汰になった。シューマンはこのころに代表的なピアノ作品を作曲したほか、38年にシューベルトの交響曲大ハ長調の遺稿を発見し、これをメンデルスゾーンの指揮で初演した。
1840年、法廷闘争が決着しクララとの結婚を果たし、シューマンは多くの歌曲を生み出した。翌41年は交響曲の年で、交響曲第1番変ロ長調「春」、45年にピアノ協奏曲イ短調として完成される幻想曲イ短調が書かれ、さらに51年に交響曲第4番として出版される交響曲二短調のスケッチが始められた。42年は室内楽の年、43年はオラトリオの年と続いた。44年、クララの演奏旅行に随伴してロシアに旅行した。シューマンの交響曲も演奏されたが評判は芳しくなく、待遇への不満と疲労で鬱状態に陥り、33年に自ら創刊した雑誌『音楽新報』を売却した。45年、体調を持ち直したシューマンは対位法研究に打ち込み、年末にドレスデンの定期演奏会でシューベルトの大ハ長調の交響曲を聴いて「私の中で数日来トランペットが鳴っています(ハ調のトランペットです)」とメンデルスゾーンに書き送った。シューマンが、すぐさまスケッチを開始しオーケストレーションと改訂を経て完成させたのが本日のメインプログラムである交響曲第2番である。シューベルトの大ハ長調交響曲が、病から立ち直りつつあったシューマンを駆り立てて、この作品を書かせたわけである。初演は47年11月、ゲヴァントハウスにてメンデルスゾーンの指揮による。
1850年、デュッセルドルフに移り、さっそく交響曲第3番「ライン」を書くなど多作であったが、53年から病状が再び悪化し、翌年ライン河に飛び込んだ。すぐに助け上げられたが、そのまま精神病院に入院し、そのまま56年にこの世を去った。
序奏ではまず金管楽器によりモットー(全曲を通じて現れる動機)が奏され、その裏で弦楽器が4分音符で伴奏する。金管楽器が4小節単位、弦楽器が3小節単位で演奏するため、同じ局面が再現することはなく、シューマンの体調の不安定さを感じさせる。テンポを速めて運動性を増し、主部に入る。シューマンはこの作品を、半分病人のまま書いたと回想し、第1楽章には病に抵抗する精神の戦いが満ちていると書き残している。第2楽章は16分音符の速い動きが特徴的なスケルツォ、3連符の柔らかなメロディの第1中間部、4分音符を主体とする落ち着いた第2中間部から成り、最後に金管楽器のモットーが現れる。第3楽章はロンド形式。とりわけ美しく、シューマンの霊性を感じさせる。第4楽章の冒頭はその深みから迸り出る。行進曲風の元気なテーマに続き8分音符のなだらかな旋律の陰からは、第3楽章のテーマが低い音で顔を出し、金管楽器のモットーを交えながら徐々に強まっていく。それが静まると後半部に入る。これは、新しい旋律にこれまでに出てきた旋律を織り交ぜた自由な形式のコーダで、歓びが高まり輝かしく終わる。
この作品の日本初演は、シューマンの他の交響曲(第1番49年、第3番27年、第4番29年)と比して遅く、1963(昭和28)年3月28日の日本フィルハーモニー交響楽団第61回定期演奏会でのことである。指揮は作曲家でもあるフランス人モーリス・ルルー(1923-92、ル・ルーとも名乗った)で、この時に日本フィルを3度指揮し、バルトーク「中国の不思議な役人」組曲版(23年)や、クセナキス、コンスタン、バローといった同時代の作曲家の作品を採り上げて独自性を発揮した。
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メロスフィルハーモニーのプログラムはいつも凝っている。今回もその例にもれない。3曲でロマン派音楽を見通そうという大胆なプログラムである。シューベルト(1797-1828)と共にロマン派音楽の入り口を形成したウェーバー、メンデルスゾーン(1809-47)と共にロマン派音楽を完成させたシューマン、「音楽」概念を拡張せんとしたヴァーグナー(1813-83)に対抗しつつ(能動的に対抗したのはハンスリックだけかもしれぬが)、ロマン派の最期を見届けんとしたブラームス。これらの作曲家はいずれもピアノ奏者でもあったし、シューマンの父は息子をウェーバーに弟子入りさせようとし、ブラームスは入院してしまったシューマンの代わりに子供たちの父として(そしておそらくクララの夫としても)尽くしたから、3人は赤の他人というわけでもないのがまた面白い。
プログラム全体をロマン派音楽が占めるのはメロスにとって初のことで、メロスが新局面に突入したことを感じさせる。例えばメロスによるブルックナーを聴くのは、そう遠いことではないかもしれない。楽しみである。
(酒井健太郎)