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第17回演奏会 
 
C. M. v. ウェーバー/歌劇「オイリアンテ」序曲(J.291)

  ウェーバー(1786-1826)は10歳のころピアノを学び始め、対位法をミハエル・ハイドン(ヨゼフの弟)に学び、ピアノ演奏と作曲にいそしんだ。1813年にプラハ歌劇場の監督に、17年にドレスデン歌劇場の楽長に迎えられたウェーバーは、当時のヨーロッパをイタリア・オペラが席巻していたことに不満を抱き、自作の「魔弾の射手」「オイリアンテ」によりドイツ・オペラをオペラの主要な地位にまで高めた。26年には、ロンドンのコヴェントガーデンの求めに応じて新作「オベロン」を携えて渡英したが、すでに結核に冒されておりロンドンで客死した。
  「オイリアンテ」は、「魔弾の射手」で成功を収めたウェーバーが、ケルントナートーア劇場の次シーズンのために依頼を受けて1823年に完成させた3幕のオペラである。同年10月にウェーバー自身が指揮して初演したが、台本の選択に問題があって、物語の筋が分かりにくい、長過ぎると批判された。
  舞台は1110年のフランスで、伯爵アドラールはその花嫁オイリアンテを賞賛する歌を歌う。密かにアドラールを想う女官エグランディーネは、オイリアンテの妹エマが自死しその魂が救済されずに幽霊となって彷徨っているという秘密を知って、リジュアルドと手を組み、オイリアンテの不実を信じさせることに成功したが、やがて悪巧みが露呈し、オイリアンテとアドラールは愛を確かめ合い、オイリアンテの清らかな涙によって彷徨えるエマは安らかな眠りにつく。
  序曲の冒頭では、鮮やかな上行形が張りつめた空気を切り裂く。一瞬のパウゼが印象的である。すぐに管楽器により奏されるのが変ホ長調の第1主題で、これはアドラールの「わたしは神とわがオイリアンテを信じている」の旋律である。弦楽器が縦横無尽に駆け回ると、少し長めのパウゼがあり、かしこまったティンパニが、変ロ長調の第2主題を導く。これはアドラールのアリア「そよ風が安らぎを運んでくるのか」の旋律で、ヴァイオリンの掛け合いが美しい。ラルゴに入るとエマの幽霊の音楽が弦楽器によって演奏される。展開部で第1主題の変形によるフガート、さらに冒頭の全奏が思い出され、第2主題が凱歌風に奏されて終わる。全体を通じて、3連符と付点8分音符+16分音符の組み合わせが効果的で、巧者ウェーバーの面目躍如といった趣である。
  日本初演は、1921(大正10)年5月7・8日の東京音楽学校の第40回定期演奏会にて、グスタス・クローンの指揮による。ほかにチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」(これも日本初演)などが演奏された。東京音楽学校は翌月に浜松、大阪、京都への演奏旅行に出かけており、そこでもこれらの作品を演奏している。
  ちなみに東京音楽学校の定期演奏会の第1回は、高等師範学校付属音楽学校の秋季音楽会として1898(明治31)年12月4日に開かれた(東京音楽学校は93年に高等師範学校ーー東京高等師範学校、東京教育大学を経て、現筑波大学ーーの下部組織に格下げされ、99年に再独立)。この時は瀧廉太郎が研究生としてバッハのイタリア協奏曲を弾いた。この演奏会の模様は、東京藝術大学創立120周年企画「東京音楽学校第1回定期演奏会」再現コンサート(2008年2月)で再現された。

J. ブラームス/ピアノ協奏曲第2番変ロ長調(op.83)
I. Allegro non troppo
II. Allegro appassionato
III. Andante
IV. Allegretto grazioso

  ブラームス(1833-97)はドイツのハンブルク生まれ。10代のうちから酒場などで演奏して家計を助けた。1853年にはハンガリー出身のヴァイオリン奏者レメーニと共に演奏旅行に出かけた。この時にレメーニにジプシー(ロマ)の音楽を教わったことが、後の創作に活かされることになる。旅先で知り合ったヴァイオリン奏者ヨアヒムには、シューマンに面会することを勧められ、デュッセルドルフにシューマンを訪ね、自作のピアノ・ソナタなどを弾いた。シューマンはブラームスの優れた才能を見抜き、自らが創刊した『音楽新報』に「新しき道」と題する評論を寄稿し、ブラームスを称賛した。
  1862年9月にブラームスはウィーンに移り住み、56年のシューマンの死をきっかけに書き始め、65年の母の死により完成を急いだドイツ・レクイエム(68年)の成功などで、作曲家としての名声が一気に高まった。ブラームスは72年から75年までウィーンの楽友協会のコンサート・ディレクターとして、定期演奏会のプログラミングと指揮を担当し、中世からの作品を研究して演奏会で取り上げるとともに自作も演奏した。多忙だが得るものの多い仕事であった。
  1880年代には交響曲第4番やヴァイオリンとチェロのための協奏曲を完成させ、さらにはオペラの作曲にまで関心を向けている(ただし実現せず)。90年前後に古くからの友人との仲違い(と仲直り)や死別があり厭世的な傾向が生じてきたものの、91年にモーツァルトやウェーバーのクラリネット協奏曲を聴いてクラリネットの魅力を再認識し、クラリネット三重奏曲や五重奏曲を書いた。95年はブラームスにとって栄光の年で、ブラームスの作品が多く演奏され、オーストリア皇帝からは「芸術と科学に対する勲章」を受けた。しかし翌年5月、ブラームスを大きな悲しみが襲う。クララが卒中で倒れ、この世を去ったのだ。さらに、ブラームス自身も肝臓癌に侵されていることが判明する。種々の療法を受けるが効果なく97年4月3日、息を引き取った。
  さて、ブラームスの交響曲と協奏曲を、作曲・初演された順に並べて、各楽章の調性を書き出すと次のようになる。
ピアノ協奏曲第1番 1854?-58年作曲、1859年初演 ニ短調/ニ長調/ニ短調
交響曲第1番 1855?-76年作曲、1876年初演 ハ短調/ホ長調/変イ長調/ハ短調・ハ長調
交響曲第2番 1877年作曲・初演 ニ長調/ロ長調/ト長調/ニ長調
ヴァイオリン協奏曲 1878年作曲、1879年初演 ニ長調/ヘ長調/ニ長調
ピアノ協奏曲第2番 1878-81年作曲、1881年初演 変ロ長調/ニ短調/変ロ長調/変ロ長調
交響曲第3番 1883年作曲・初演 ヘ長調/ハ長調/ハ短調/ヘ短調・ヘ長調
交響曲第4番 1884-85年作曲、1885年初演 ホ短調/ホ長調/ハ長調/ホ短調
ヴァイオリンとチェロのための協奏曲 1887年作曲・初演 イ短調/ニ長調/イ短調
  このリストがブラームスの音楽の変遷を語ってなんと雄弁なことか。ピアノ協奏曲第1番の豪放磊落さと若さゆえの気の強さは、同じ時期に作曲が始められた交響曲第1番にも聴き取れるが、他方、ピアノ協奏曲第1番でブラームスが自覚した技術的な欠陥は、交響曲第1番ではもはや感じられず、ブラームスの管弦楽法の完成を示している。交響曲第1番の成功を受けて作曲された交響曲第2番には、力みが抜けて幸福なムードがあふれており、これは翌年作曲のヴァイオリン協奏曲にも共通する。調性も同じニ長調である。ヴァイオリン協奏曲では第2楽章の儚い旋律が作品をさらに魅力的にする。ヴァイオリン協奏曲の美しさが熟成して優雅になったのがピアノ協奏曲第2番で、この優雅さが構造的に強化され、あたかも壮麗な建築物になったのが交響曲第3番(冒頭で宣言されるモットーが第1楽章だけでなく第4楽章にも効いていて、作品の枠組みが決定づけられている)。壮麗な建築物の主人にもやがて老いの時が来る、その哀愁を漂わせていくらか懐古的(古い旋法や技法が使われている)になると同時に先進性を有する(池辺晋一郎はこの作品にセリエリズムの萌芽を見て取っている)のが交響曲第4番。続くヴァイオリンとチェロのための協奏曲は最初、第5交響曲として構想されたが、旧友ヨアヒムとのこじれてしまった仲を元に戻すために協奏曲に変更されたものである。自由で洒脱で回顧的とも感じられるこの作品は、(ブラームス)という一夜の音楽会のアンコールにあたるのではないか。
  ピアノ協奏曲第2番は協奏曲にしては珍しく4楽章構成で、ピアノとオーケストラは文字通り「協奏」する関係にある。またトランペットとティンパニが第3、4楽章でまったく音を出さないのは面白い。
  第1楽章はゆったりしたホルンの独奏にピアノが絡みついて優雅に開始する。主題と言えるのは2つだけだが、楽器の多様な組み合わせにより表情豊かに奏される。第2楽章は情熱的に始まり、弦楽器の優美な旋律がこれに続く。弦楽器によるスタッカートの旋律によって導かれるラルガメンテの中間部はとりわけ美しい。第3楽章はチェロのゆったりした旋律で始められる。中間部のか細く息の長いクラリネットとピアノのからみ、そのあとの独奏チェロによる主題は深い情感を湛えている。終楽章にはロマの音楽の影響がみられ、可愛らしい付点のリズムで始まり、流れる旋律や4分音符と16分音符を組み合わせた甘さのある旋律がロンド風に顔を出す
  この作品の日本初演は、1933(昭和8)年6月7日の新交響楽団(日本交響楽団を経て現NHK交響楽団)のベンノ・モイセイヴィッチ送別演奏会にて、モイセイヴィッチ自身のピアノ、近衛秀麿の指揮による演奏とみられる。モイセイヴィッチは1890年に現ウクライナのオデッサに生まれ、1937年に英国に帰化し、63年ロンドンで死去したピアニストで、この時は3度目の来日だった。

R. シューマン/交響曲第2番ハ長調(Op.61)
I. Sostenuto assai - Allegro, ma non troppo
II. Scherzo: Allegro vivace
III. Adagio espressivo
IV. Allegro molto vivace

  ロベルト・シューマン(1810-56)は、出版、書籍販売、著述業を営む父アウグストと、かのレッシング家の血を引く母ヨハンナとの間に生まれた。8歳で音楽の勉強をスタートし、14歳のころにはかなりのピアニストになっていた。父はシューマンがウェーバーのもとで学ぶことを望んだが、それは実現しなかった。文学への志向が強い父の影響を受けて、シューマンは早くから古典に親しみ、詩作もした。シューマンが文学に造詣の深いロマン派の作曲家として創作活動に励む一方で、音楽評論の分野で執筆活動をおこなったのは、ゆえなきことではない。
  1830年よりフリードリヒ・ヴィークの弟子としてピアニスト修行に打ち込むが、32年に手の故障により作曲に転向する。35年には、すでにピアニストとして演奏活動を初めていた師の娘クララ(1819-96)と恋に落ち婚約するものの、ヴィークの反対を受けて裁判沙汰になった。シューマンはこのころに代表的なピアノ作品を作曲したほか、38年にシューベルトの交響曲大ハ長調の遺稿を発見し、これをメンデルスゾーンの指揮で初演した。
  1840年、法廷闘争が決着しクララとの結婚を果たし、シューマンは多くの歌曲を生み出した。翌41年は交響曲の年で、交響曲第1番変ロ長調「春」、45年にピアノ協奏曲イ短調として完成される幻想曲イ短調が書かれ、さらに51年に交響曲第4番として出版される交響曲二短調のスケッチが始められた。42年は室内楽の年、43年はオラトリオの年と続いた。44年、クララの演奏旅行に随伴してロシアに旅行した。シューマンの交響曲も演奏されたが評判は芳しくなく、待遇への不満と疲労で鬱状態に陥り、33年に自ら創刊した雑誌『音楽新報』を売却した。45年、体調を持ち直したシューマンは対位法研究に打ち込み、年末にドレスデンの定期演奏会でシューベルトの大ハ長調の交響曲を聴いて「私の中で数日来トランペットが鳴っています(ハ調のトランペットです)」とメンデルスゾーンに書き送った。シューマンが、すぐさまスケッチを開始しオーケストレーションと改訂を経て完成させたのが本日のメインプログラムである交響曲第2番である。シューベルトの大ハ長調交響曲が、病から立ち直りつつあったシューマンを駆り立てて、この作品を書かせたわけである。初演は47年11月、ゲヴァントハウスにてメンデルスゾーンの指揮による。
  1850年、デュッセルドルフに移り、さっそく交響曲第3番「ライン」を書くなど多作であったが、53年から病状が再び悪化し、翌年ライン河に飛び込んだ。すぐに助け上げられたが、そのまま精神病院に入院し、そのまま56年にこの世を去った。
  序奏ではまず金管楽器によりモットー(全曲を通じて現れる動機)が奏され、その裏で弦楽器が4分音符で伴奏する。金管楽器が4小節単位、弦楽器が3小節単位で演奏するため、同じ局面が再現することはなく、シューマンの体調の不安定さを感じさせる。テンポを速めて運動性を増し、主部に入る。シューマンはこの作品を、半分病人のまま書いたと回想し、第1楽章には病に抵抗する精神の戦いが満ちていると書き残している。第2楽章は16分音符の速い動きが特徴的なスケルツォ、3連符の柔らかなメロディの第1中間部、4分音符を主体とする落ち着いた第2中間部から成り、最後に金管楽器のモットーが現れる。第3楽章はロンド形式。とりわけ美しく、シューマンの霊性を感じさせる。第4楽章の冒頭はその深みから迸り出る。行進曲風の元気なテーマに続き8分音符のなだらかな旋律の陰からは、第3楽章のテーマが低い音で顔を出し、金管楽器のモットーを交えながら徐々に強まっていく。それが静まると後半部に入る。これは、新しい旋律にこれまでに出てきた旋律を織り交ぜた自由な形式のコーダで、歓びが高まり輝かしく終わる。
  この作品の日本初演は、シューマンの他の交響曲(第1番49年、第3番27年、第4番29年)と比して遅く、1963(昭和28)年3月28日の日本フィルハーモニー交響楽団第61回定期演奏会でのことである。指揮は作曲家でもあるフランス人モーリス・ルルー(1923-92、ル・ルーとも名乗った)で、この時に日本フィルを3度指揮し、バルトーク「中国の不思議な役人」組曲版(23年)や、クセナキス、コンスタン、バローといった同時代の作曲家の作品を採り上げて独自性を発揮した。

* * *

  メロスフィルハーモニーのプログラムはいつも凝っている。今回もその例にもれない。3曲でロマン派音楽を見通そうという大胆なプログラムである。シューベルト(1797-1828)と共にロマン派音楽の入り口を形成したウェーバー、メンデルスゾーン(1809-47)と共にロマン派音楽を完成させたシューマン、「音楽」概念を拡張せんとしたヴァーグナー(1813-83)に対抗しつつ(能動的に対抗したのはハンスリックだけかもしれぬが)、ロマン派の最期を見届けんとしたブラームス。これらの作曲家はいずれもピアノ奏者でもあったし、シューマンの父は息子をウェーバーに弟子入りさせようとし、ブラームスは入院してしまったシューマンの代わりに子供たちの父として(そしておそらくクララの夫としても)尽くしたから、3人は赤の他人というわけでもないのがまた面白い。
  プログラム全体をロマン派音楽が占めるのはメロスにとって初のことで、メロスが新局面に突入したことを感じさせる。例えばメロスによるブルックナーを聴くのは、そう遠いことではないかもしれない。楽しみである。

(酒井健太郎)
 
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