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第16回演奏会 
 
C. M. v. ヴェーバー/歌劇「オベロン」序曲(J.306)

  ヴェーバーは1786年に生まれた。9歳の頃に音楽の才能を開花させ、M. ハイドン(パパ・ハイドンの弟)、G. J. フォーグラーらに師事した。1804年にはフォーグラーの推挙でプレスラウの歌劇場の楽長に就任したが、うまくいかず約2年で退いた。この年には誤って硝酸を飲んで美声を失うという不幸な事故もあり、それからしばらくは貴族の秘書などをして糊口をしのいだと言われる。1810年頃から再び音楽に取り組み、1813年にプラハの歌劇場の指揮者の地位を得て放浪生活に終止符を打った。1817年にはドレスデン歌劇場の指揮者に迎えられ、また、歌手カロリーネ・ブラントと結婚した。
  ドレスデンではオペラの創作に献身し、「魔弾の射手」「オイリュアンテ」を完成させた。特に前者は大成功で、ロンドンでは同時に3つの劇場がこの作品を上演したという。この成功を受けて、コヴェント・ガーデンのオペラ劇場がヴェーバーにオペラの作曲を委嘱した。ヴェーバーは結核にかかっており医師にとめられたが、家族に貧しい生活をさせてきたことを顧みて、依頼に応じることにし、「オベロン」を携えて渡英し、1826年4月12日に自らの指揮で初演して成功を収めた。しかしヴェーバーの病は当地で悪化し、6月5日にこの世を去った。
  「オベロン」の物語を簡単に紹介しておこう。妖精の王オベロンとその妻ティタニアが「真実の愛」を巡って喧嘩し、どのような状況でも愛し続ける男女を見つけるまで仲直りしないことにする。オベロンは騎士ヒューオンとバグダッドの王女レツィアを選び、魔法で相思相愛にする。2人は様々な障碍を乗り越えて結ばれ、オベロンとティタニアも仲直りする。
  序曲は、劇を通じてモチーフとして用いられる角笛の合図で始まり、妖精たちがそれに応える。主部に入ると、ヴァイオリンによる小気味よい主題につづき、角笛の合図があり、妖精たちの飛び交う様が描かれる。それに続いてヒューオンのアリア、さらにレツィアのアリアの旋律が奏でられる。この序曲の多彩さから、ヴェーバーの天才ぶりを窺い知ることができよう。
  「オベロン」序曲の日本初演は1910(明治43)年11月26・27日に開かれた東京音楽学校第23回定期演奏会でなされた。ほかにブラームス「ドイツ・レクイエム」第1・3楽章、ビゼー「アルルの女」第1組曲などが演奏された。指揮をしたアウグスト・ユンケルは、1870年生まれのヴァイオリン奏者で、1897年に来日して、東京音楽学校でオーケストラ、声楽、和声法、作曲、合唱などを指導した。1913(大正2)年にドイツに帰国するが、1934(昭和9)年に再び来日し、武蔵野音楽学校で教鞭をとる傍ら松竹交響楽団を指導した。1943年11月23日に「アウグスト・ユンケル先生顕彰祝賀会」が開かれる予定だったが、当日の朝になって脳溢血で倒れ、翌年1月に永眠した。前日の練習では非常な喜びのために興奮状態にあったらしい。

J. ハイドン/交響曲第103番変ホ長調「太鼓連打」(Hob.I-103)
I. Adagio - Allegro con spirito
II. Andante piu tosto allegretto
III. Menuetto - Trio
IV. Finale:Allegro con spirito

  1732年に生まれたハイドンは、音楽好きの父の真似をして音楽を覚え、7歳のときにはウィーンの聖シュテファン大聖堂の少年聖歌隊員に採用されてボーイ・ソプラノとして活躍した。しかし、1740年代の終わり頃には、ハイドンは変声期を迎え、聖シュテファン大聖堂を去らざるをえなくなる。
  それからの約10年間はハイドンにとって真に修行の期間であった。最初の5年間は生活のためにパン屋で働きながら音楽を独学したらしい。1750年代中頃には同じアパートに住む詩人メタスタージオと知り合い、その紹介で、ある少女にハープシコードを教えることになった。その少女の声楽の教師がニコラ・ポルポラであったことから、ハイドンはポルポラの知遇を得て、遂にはポルポラの家に住み込んで練習の伴奏者を務めるようになる。さらにポルポラがウィーンの音楽愛好貴族にハイドンを紹介したことから、ハイドンは1750年代後半に貴族の家に音楽教師として出入りするようになり、1757年頃にはボヘミアのモルツィン伯爵家の宮廷楽長に就任することになった。
  ハイドンがモルツィン伯爵家に仕えるようになって間もなく、楽団は財政上の理由で解散されてしまう。しかし、ハイドンはすぐにエステルハージ伯爵家に副楽長の職を見つけ、1766年に楽長に昇進し、1790年まで仕えた。エステルハージ家は1766年にオペラ劇場を備えた離宮エステルハーザを建て、以降、ニコラウス候は夏をここで過ごすのを習慣とする。エステルハーザに長く逗留して本拠地アイゼンシュタットに戻ろうとしないニコラウス候に対して、家族のもとに早く戻りたい音楽家の気持ちを訴えるために、ハイドンは交響曲第45番「告別」を作曲した。曲の終わりに奏者が少しずつ退出するのを見て、候はその真意を見事に理解したという。
  1780年代にはハイドンの名声がヨーロッパに広がり、外部からの作曲依頼が舞い込むようになった。また、この時期に特筆すべきこととして、モーツァルトとの親交がある。2人の友情はモーツァルトがこの世を去るまで続いた。
  1790年9月にニコラウス候が急逝すると、その息子アントンが後を継いだが、彼は音楽に興味がなく、楽団を解散してしまった。宮廷を離れていわば自由の身となったハイドンを、興行主ザロモンがロンドンへの楽旅に誘った。ハイドンは12月15日に出発してロンドンに渡り、交響曲だけでも6曲(第93〜98番)を初演し、オペラ「哲学者の魂」を完成させたほか、チャールズ・バーニーの尽力でオックスフォード大学の名誉音楽博士の学位を贈られた。なお、旅に出発する前日、ハイドンはモーツァルトと最後の夕食を共にしたが、このとき、モーツァルトが高齢で英語を話せない年上の友ハイドンを心配し、2人は涙ながらに別れたという逸話がある。モーツァルトの心配をよそにハイドンはロンドンで成功を収めて1792年に帰国したが、モーツァルトはそれを待たずに1791年12月5日にこの世を去っていた。
  ハイドンは1794年1月に2度目のロンドンに向けて旅立った。この楽旅では交響曲第99〜104番が発表され、ピアノ・ソナタ第50〜52番が作曲された。国王ジョージ3世はハイドンにイギリスにとどまるよう要請したが、ハイドンはそれを断り1795年8月に帰国の途についた。2度のロンドン楽旅で発表された交響曲12曲は「ロンドン交響曲」「ザロモン・セット」などと呼ばれる。
  ウィーンに戻ったハイドンをエステルハージ家の仕事が待ちうけていた。1794年初頭に没したアントン候を、音楽好きのニコラウス2世候が継いで、ハイドンに楽団再興を託したのである。ハイドンはすぐさま仕事にとりかかり、新楽団は1796年1月にデビューにこぎつけた。ハイドンが公衆の前に姿を現した最後の機会は、1808年3月のオラトリオ「天地創造」イタリア語版上演のときで、聴衆はパパ・ハイドンを心から歓迎した。翌1809年、ナポレオン軍がヴィーンに入城した5月にハイドンは息を引き取った。6月15日のヴィーン市民による追悼式ではモーツァルトのレクイエムが歌われた。
  交響曲第103番は2度目のロンドン楽旅の最中に作曲され、1795年3月に初演された。「太鼓連打」の愛称は第1楽章冒頭がソロ・ティンパニによるロール打ちであることからつけられた。ティンパニ・ソロの後、低音楽器によってどこに向かうともしれない動機が奏され、徐々に厚みを増していく。明るく軽快な主部との対比が面白い。第2楽章でも2つの主題が明暗の対比を際立たせる。オーボエとヴァイオリンによる第2主題は幸福感があり楽しい。第3楽章は躍動感あるメヌエットで、トリオではクラリネットとヴァイオリンがかわいらしい旋律を奏でる。第4楽章はホルンの合図に招き寄せられてヴァイオリンが軽快な第1主題を奏する。多くの箇所で、ティンパニに8分音符で細かく刻む(連打する)指示が与えられている。
  日本初演は1917(大正5)年5月25・26日の東京音楽学校第32回定期演奏会にて、グスタフ・クローン指揮東京音楽学校のオーケストラによりおこなわれた。この時は他にメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲第2・3楽章(独奏安藤幸)、ヴェーバー「舞踏への勧誘」(ベルリオーズ編の管弦楽版)、ヴァーグナー「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲などが演奏された。

R. シューマン/交響曲第3番変ホ長調「ライン」(Op.97)
I. Lebhaft
II. Scherzo:Sehr maessig
III. Nicht schnell
IV. Feierlich
V. Finale:Lebhaft

  シューマンは1810年に生まれた。すでに7歳の頃には音楽の才能が芽を出していたようで、父はシューマンをヴェーバーのもとで学ばせたいと考えたが、ヴェーバーが1826年に没したため実現しなかった。なお、同時期にベートーヴェン、シューベルトがこの世を去ったことを考えると、シューマンが置かれた音楽上の位置がどのようなものか想像されるだろう。1830年、シューマンはピアノ教師フリードリヒ・ヴィークの家に住みこんで本格的にピアニストを目指すが、手を故障して、早くも1832年にはピアニストの道を諦めざるを得なくなった。
  その一方で、1831年には文筆活動を開始し、「作品2」という評論文を『一般音楽時報』に寄稿して、若きショパンを「諸君、脱帽したまえ、天才だ!」と讃えた。さらに1833年に『新音楽時報』を創刊し、それから約10年にわたって編集に携わった。1844年に編集から離れたが、1853年に久しぶりに『新音楽時報』に評論「新しき道」を寄稿し、ブラームスの才能を紹介した。こうした音楽評論の活動を、シューマンの余技と考えるわけにはいかない。というのもドイツにおいてロマン派の音楽が知的な権威を獲得できたのは、シューマンらの努力によって批評の空間が形成され、そこにおいてロマン派の運動が具体的かつ持続的になされたからである(友利修「音楽新聞誌編集者としてのロベルト・シューマン」、『思想』、2010年)。つまりシューマンは作曲家でありなおかつ批評家でもあり、この両面においてロマン派の音楽に貢献したのであった。
  1836年、ヴィークの娘でピアニストのクラーラと恋におちて婚約するが、ヴィークの反対にあい、結婚に漕ぎつけたのは1840年のことだった。この年にシューマンは数多くの歌曲を完成させた。翌年はオーケストラ作品に集中的に取り組み、2曲の交響曲(第1番と第4番)に着手した。その後、精神的に病み、寡作の時期が続くが、そのような中でピアノ協奏曲イ短調(1845年)、交響曲第2番(1846年)などの傑作が完成された。
  1848年になると病状が好転し、1850年にはデュッセルドルフの音楽監督に就任した。シューマンは同地で交響曲第3番「ライン」やチェロ協奏曲、多数の室内楽曲を完成させたほか、2番目の交響曲を第4番として改訂するなど、充実した期間を過した。しかしそれも長くは続かず病状は悪化、1854年にライン川に身を投げて自殺を企図した。そのまま精神病院に入院し1856年6月に逝った。
  交響曲第3番の「ライン」という副題はシューマンが付けたものではない。しかしシューマンがライン川の流れと共にあるデュッセルドルフの環境に触発されて作曲したことは間違いない。第1楽章(生き生きと)は序奏をもたず、印象的な第1主題がトゥッティで朗々と演奏され、愁いのある第2主題がオーボエとクラリネットにより呈示される。かなりの長さの展開部を経て、再現部では金管楽器が第1主題のモチーフを強奏して終わる。第2楽章(きわめて穏やかに)ではファゴット、ヴィオラ、チェロの民族舞曲風の懐かしさのある旋律を主題とし、木管楽器とホルンによる3連符を含み緊張感のある旋律(イ短調)がトリオをなす。2つの旋律の掛け合いは天上の美しさを醸し出す。第3楽章(速くなく)では、クラリネットによるかわいらしい旋律と、ファゴットとヴィオラによるなだらかな旋律が美しい。第4楽章(荘厳に)はホルンとトロンボーンによる旋律が主題として扱われ、3/2拍子に入ると主題がカノン風に扱われ壮麗さを増し、4/2拍子では金管楽器による昇天感のあるコラールが聴きもの。第5楽章(生き生きと)は明快で元気いっぱいの旋律を主題とする。ホルンの上向音型が印象的で、随所に現れるシンコペーションがこの楽章に複雑さを生みだし、トランペットとティンパニがピリッとしめる。
  ところで、西洋音楽では原則的に小節線をまたいで最初の音に強拍が来る。だから、旋律を前か後にずらすと、原則上の強拍の位置と旋律の感覚上の強拍の位置がかみ合わなくなり、不安定感が生じて面白い。「ライン」は随所にこのずれが見られる。例えば第1楽章冒頭は一聴すると2/2拍子(ミ♭ーシ♭ー|シ♭ッソソー|ドーシ♭ッラ♮|シ♭ーファー|ファッソ〜)、または3/2拍子(ミ♭ーシ♭ーシ♭ッソ|ソードーシ♭ッラ♮|シ♭ーファーファッソ)だが、実際には3/4拍子(ミ♭ーシ♭|ーシ♭ッソ|ソード|ーシ♭ッラ♮|シ♭ーファ|ーファッソ)で書かれている。
  拍節感に関する研究によると、拍の強/弱とは重/軽のことで、音の強/弱だけではなく長/短を含むものとして捉えるべきであり(となるとメトロノームを使う意義の大部分が失われる)、最も長いのは小節の最後の拍(準備拍)で、その次に長いのは小節の1拍目であるという(阿部卓也「フルトヴェングラーの苛立ち、ダルクローズの怒り」、『言語と文化』12号、2009年)。これを「ライン」の冒頭に当てはめると、2/2拍子ではいびつなマーチになってしまい、3/2拍子では小節の3拍目におかれた付点8分音符+16分音符に重さが置かれ、小節線をまたぐ毎にドッコイショと掛け声をかけるほどに鈍重になる(先の阿部氏は2拍目が短くなるせいで「恐ろしく軽快」になると言っている)。いずれもライン川の流れには相応しくない。これが3/4拍子になると、旋律の各音に重さが与えられ、ライン川のゆったりした流れの中に息づく生命感や躍動感が感じられるようになる。シューマンはそこまで意図していたのだろう。なんとも興味深い。
  さて、この曲の日本初演は1927(昭和2)年9月25日のことで、近衛秀麿が新交響楽団を指揮した。当時は楽譜に手を入れて独自のスコアをつくるのは指揮者の当然の仕事と考えられており、近衛もワインガルトナーやマーラーの改編をもとに独自の編曲をなした。近衛はシューマンにおける「色彩観念の欠如」を問題視し、音を加除変更して響きの整理を試みている。ティンパニについては、第1楽章3〜14小節目に書かれた音をすべて省き、代わりに6、10、14小節目に2分音符を叩くよう提唱している。6、10、14小節目にはいずれも2〜3拍目に付点4分音符+8分音符があり、近衛はそれらの小節の1拍目が弱くなるのを嫌ったようだ。近衛の拍節の感覚が表れているように思われ興味深い(近衛秀麿「シューマンの第3交響曲(ライン河)研究」(1・2)、『音楽世界』8巻1・2号、1936年。近衛版「ライン」については吉原潤氏より教示を受けた)。

* * *

  東日本を襲ったあの震災から早くも半年が過ぎようとしている。被災した皆さんに一刻も早く安らぎの時間が訪れることを心より祈りたい。今日のコンサートが何かの力になることを願いながら。

(酒井健太郎)
 
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