I. Ziemlich langsam - Lebhaft ニ短調
II. Romanze: Ziemlich langsam イ短調
III. Scherzo: Lebhaft ニ短調
IV. Finale: Langsam - Lebhaft ニ長調
1841年6月に作曲が始められ、その年の9月9日に完成し、9月13日に妻クララの22歳の誕生日にプレゼントされた作品である。さっそく同年12月に初演されたが(体調不良のメンデルスゾーンに代わり、フェルディナント・ダーヴィトが指揮)、成功を収めた第1交響曲(こちらはメンデルスゾーン指揮で初演)と違い、評判は芳しくなかった。
10年後の1851年、シューマンは交響曲第3番《ライン》が完成するとこの作品の改訂に着手して数日で完成させ、53年に自身の指揮で初演、出版したのは翌年だった。このような事情から、シューマンの交響曲にも作曲順(第1番1841年、第4番初稿1841年、第2番1846年、第3番1850年)とは異なる番号が付されている。
第4交響曲の作曲から改訂まで10年かかったが、その間のシューマンの人生は順風満帆とは言い難い。初稿を作曲した頃のシューマンは、1940年に法廷闘争を経てクララ・ヴィークとの結婚にこぎ着け、公私ともに充実した日々を送っていた。しかし、疲労やストレスで長くは続かず、1844年には精神の安定を欠くようになり、大学入学以来17年間にわたり過ごしたライプツィヒからドレスデンに拠点を移した。シューマンはその地で第2交響曲を書いたが、彼曰く、作曲中は半病人の状態であった。確かにこの作品は彼のギリギリの精神状態を反映しているようである。
1840年代末になるとだいぶ復調し、創作活動は盛んになった。1850年にはデュッセルドルフの音楽監督に招かれて転居し、年末には《ライン》交響曲を完成させている。1851年になっても創作意欲は衰えず、10年前に一度書き上げた第4交響曲を改訂し、1853年に自身の指揮で上演して喝采を得た。しかし、オーケストラや殊に合唱団との関係がうまくいかず、デュッセルドルフでは指揮を振らせてもらえなくなる。そんなこともあって体調は悪化の一途をたどり、ついに1854年2月、ライン川に投身してしまう。その後は1856年に死去するまで精神療養所で過ごすことになった。
1851年の改訂によって、この作品は全楽章が続けて演奏されるようになった。一般的な交響曲よりも形式的に自由であり、シューマンはこの作品を「交響的幻想曲」と呼ぼうとしたことがある。第2楽章以外にはLebhaft(いきいきと)という指示があり、ここにシューマンの前向きさ(と翻って彼の置かれた状況)を見て取ってもよいだろう。なお、LebhaftのほかにはLangsam(ゆっくり)あるいはZiemlich langsam(かなりゆっくり)という指定があるだけで、極めてシンプルである(これらのドイツ語の指示は改訂時につけられた)。
第1楽章序奏はニ短調の属音イが鳴らされる中で木管楽器と弦楽器が蠢動してはじまる。徐々に楽器が増えて主部に突入する直前に、第一ヴァイオリンが同じ音型を3度、音高を3度ずつ上げて奏することによる仄明るさには希望が込められているように感じられる。ヴァイオリンのこの音型はほぼ主題のように扱われ、形を変えながら繰り返し出現する。展開部は長大である。途中、コラール風のトロンボーンによって高められた緊張感から導きだされるのは、木管と弦楽器の合いの手合戦である。これは攻守の立場を変えて繰り返され、決して明るくはないがユーモアは失われない。その後に歌謡的な旋律が出てきて、細かい音符とのコントラストが際立つ。
第2楽章はロマンツェ。巡礼者が歩を進めているようだ。独奏ヴァイオリンとそれに続くオーボエ、ファゴット、チェロによる旋律が美しい。すぐさま飛び込む第3楽章は対照的にスケルツォで、前半は4分音符主体、後半はシンコペーション主体の主要主題をもつ。トリオでは木管楽器の息の長いフレーズにヴァイオリンが絡みつくが、その様は第2楽章を想起させる。終わりに向かって息が絶え絶えになり、最後にふっとまどろむと、(ここで終楽章に入る)夢の中で第1ヴァイオリンが第1楽章のあの主題を懐かしく思い出させる。美しい。金管楽器のファンファーレが勇気を与えてくれ、上行形の全奏で力が漲って主部に突入する。主部でも第1楽章の音型が見出され(第1主題)、次いで跳躍のある伸びやかな楽句(第2主題)が活気づける。続いて第1主題がフーガ風に展開され、第2主題が再現し、最後はテンポをあげて一気呵成に終結する。
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両作品とも早い時期に日本初演がおこなわれている。小川昂(編)『日本の交響楽団:定期公演記録1927-1971』(カワイ楽譜、1972年)によると、両曲が初めて日本のオーケストラの定期公演の舞台に載せられたのは昭和初期のことである。いずれも新交響楽団(日本交響楽団を経て現NHK交響楽団)の定期演奏会で、シューマンの第4交響曲は1929(昭和4)年10月6日の第54回定期演奏会でコンスタンティン・シャピロが指揮し、《イタリア》交響曲は1931(昭和6)年2月8日の第83回定期演奏会で山本直忠(山本直純の父)が指揮した。
新交響楽団は1926(大正15)年10月に、山田耕筰の日本交響楽協会からの離脱組によって、近衞秀麿に率いられて結団されたばかりであった。また、1931(昭和6)年7月にはコロナ事件、1935(昭和10)年7月にはいわゆる新響改組が起こり、近衞が退団を余儀なくされるなど、まだまだ揺籃期といったところだった。
実はこれより早い大正期に、九州の地で演奏された記録がある。演奏したのは九州帝国大学フィルハルモニー会のオーケストラである。《イタリア》交響曲は1922(大正11)年5月20日、第20回春季演奏大会「メンデルスゾーンの夕」にて、榊保三郎の指揮による(榊はこの時にメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲の独奏もしている)。シューマンの第4交響曲は1926(大正15)年12月11日の第27回定期演奏会で指揮は荒川文六であった。このときの出演者を『九大フィルハーモニー・オーケストラ50年史』(九大フィルハーモニー会、1963年)で確認することができる。それによると、両曲とも弦楽器の編成は小さいものの、管楽器の人数はほぼ揃っており(シューマン第4でトロンボーンが2本しかなかった可能性がある)、これらを日本初演と見做してよさそうである。こんにちの日本ではアマチュアによる音楽活動がきわめて盛んであるが、それもどうやら歴史浅からぬことのようである。
ところで、《イタリア》交響曲を指揮するばかりか、コンチェルトの独奏までした榊とは何者だろうか。榊(1870〜1929年)は音楽家ではなく精神科医である。医学と文学の博士号を持ち、ヴァイオリンを弾き、後に法学博士の取得までめざした(志半ばにして死去)という多才な人物であった。
榊は1899(明治32)年に東京帝国大学医科大学を卒業した後、同大助教授を務め、1903(明治36)年に文部省留学生としてヨーロッパにわたり精神医学を学んだ。その一方で、ベルリンでヨーゼフ・ヨアヒムに師事してヴァイオリンを習い、1906(明治39)年に帰国した際にはストラディヴァリウスと多くの楽譜を持ちかえった。帰国した榊はただちに京都帝国大学福岡医科大学(九州帝国大学医学部の前身)に教授として赴任し、精神病学講座を立ち上げた。そのかたわら医科大学の有志で音楽のグループを作った。これが九大フィルの萌芽である。会の正式な設立時期ははっきりしないのだが、1919(大正8)年に10周年記念と冠された演奏会が開催されていることから、1909(明治42)年にはなんらかの催事があったと推測される。
1911(明治44)年1月に九州帝国大学が設置され、同年4月に榊がいた福岡医科大学が京都帝大から九州帝大の傘下に移った。このときに九大フィルハーモニー会という名称がつかわれるようになったとみられる。榊は会頭として、私財を擲って活動を率いた。
ところで榊がベルリンで師事したヨアヒムは、メンデルスゾーンのレッスンを受けてライプツィヒ音楽院に入り、後にシューマン夫妻やブラームスとも親交があったヴァイオリニストで、19世紀後半の最も偉大な演奏家のひとりに数えられる。榊がそのヨアヒムの弟子であるとすれば、メンデルスゾーンの孫弟子にあたり、その榊が《イタリア》交響曲の日本初演を振ったのだから、歴史とは面白いものである。
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今回のプログラムはいつもに増してシブイ。シンフォニー2曲はどちらも生の喜びを感じさせてくれる名作である。どちらもあまり長い作品ではないので、気を抜くとあっという間に終わってしまう。どうぞ濃密な時間をお過ごしください。
ちなみにメロスのシンフォニー2曲プログラムは第2回(1997年)以来、17年ぶり2回目のこと。その時はハイドンの《V字》交響曲(ト長調)とベートーヴェンの第7交響曲(イ長調)だった。シューマンのシンフォニー4曲は第17回から今回でコンプリート(パチパチ)、メンデルスゾーンは第8回(2002年)の《スコットランド》以来の2曲目。そしていよいよ次回は第20回!
酒井健太郎