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第20回演奏会 
 
W. A. モーツァルト/オペラ《後宮からの誘拐》序曲 K. 384
Presto - Andante - Presto ハ長調

  広義にはオペラ、狭義にはジングシュピールSingspielである。ジングシュピールとはドイツ語で上演される歌芝居のこと。レチタティーヴォの代わりに歌と歌の間にセリフが挟まれ、気楽な筋書きのものが多い。こんにちのジングシュピールのレパートリーは多くないが、モーツァルト《魔笛》以降、ベートーヴェン《フィデリオ》、ヴェーバー《魔弾の射手》《オベロン》を経て、ヴァーグナーの楽劇やリヒャルト・シュトラウスのロマン派オペラへ受け継がれていく、ドイツ・オペラの系譜の先駆的な位置を占めている。
  オーストリア皇帝ヨーゼフ2世(マリア・テレジアの長男、マリー・アントワネットの兄)は、音楽好きの啓蒙専制君主として知られる。彼は1776年にドイツ語演劇の振興をめざして劇場改革をおこなった。それを受けてブルク劇場(ドイツ国民劇場)では1778年からジングシュピールが上演されるようになったが、長くは続かず1783/84年シーズンからはイタリア・オペラ公演が再び上演されるようになった(モーツァルト〈ダ・ポンテ3部作〉はその延長線上で生まれた)。
  ジングシュピール公演の最後のシーズンに上演されたのがモーツァルトの《後宮からの誘拐》である。トルコの太守セリムにより後宮(ハレム)に幽閉された恋人コンスタンツェを、主人公ベルモンテが召使ペドリッロの助けを借りながら救い出す(なので「誘拐」よりも「奪還」のほうが適当という説もある)という筋書きの娯楽的な作品である。1782年7月16日に初演され大成功をおさめた。
  その短い序曲は明るく軽快な旋律ではじまる。ピッコロ、トライアングル、シンバルが加わったサウンドは、タイトルの後宮(ハレム)から想起されるように、オスマン・トルコの軍楽メヘテルmehter(メフテルとも)を模したものである。中間部にはベルモンテの最初のアリアの旋律が短調で奏でられる。旋律らしき旋律がなく、断片的な楽句の組み合わせで進む中間部中盤は、劇場の舞台と客席を等しく見下ろす、天上の視線を想像させる。プレストに戻ると旋律がひと通りくりかえされる。プレストに戻ってからの83小節間にトライアングルがピアノとフォルテを織りまぜて連打(4分音符328個と2分音符1個)するのは隠れた聴きどころである。
  《後宮》初演から遡ること99年、1683年7月にオスマン・トルコにより第2次ウィーン包囲が起こった。それを契機にヨーロッパ諸国・領による神聖同盟とオスマン帝国は16年にわたる大トルコ戦争を戦った。ヨーロッパの人びとは一糸乱れぬ統率を見せるオスマン軍に驚嘆し、その秘訣が軍楽にあることを知った。18世紀前半にはヨーロッパの軍楽にメヘテルの楽器が用いられるようになり、その影響を受けてオペラやオーケストラ作品にもその音色が採り入れられるようになった。《後宮》はそうしたなかで作曲されたのである。

W. A. モーツァルト/クラリネット協奏曲 イ長調 K.622
I Allegro イ長調
II Adagio ニ長調
III Rondo: Allegro イ長調

  友人でクラリネットの名手アントン・シュタードラーの刺激を受けて1791年に作曲された。当初はバセットホルンのための協奏曲をめざして書きはじめられ、第1楽章はそれを編曲したものだといわれている。初演については明らかでない。その年の末にこの世を去るモーツァルトの、完成した協奏曲として最後の作品である。
  第1楽章。爽やかな第1主題とそこから派生した楽句がオーケストラによってひとしきり提示される。独奏クラリネットがそれを受けて第1主題を奏し、モノローグのような楽句を経て、そのまま息の長いフレーズが特徴の第2主題に入る。クラリネットの低音の響きの魅力が十分に引き出される。前に出てきたメロディが変形して奏される展開部、再現部が続く。長く重厚かつ格の高さを感じさせる楽章である。
  第2楽章。独奏クラリネットの問わず語りに、オーケストラがどう聞き上手でいられるかがポイントの楽章。クラリネットの独白ではじまり、急に高ぶって感情的、扇情的ともいえる美しいメロディを奏でる。オーケストラは全力でこれをうけとめる。ヴァイオリンにフルートが応答し、ファゴット、ついでホルンが声をあわせる。下降音型の旋律にたいして、チェロとバスが下から上昇音型でもりあげる。だがリアクションが大きすぎる。大げさ、クサい。クラリネットはどうもそれが気に入らなかったらしくそっぽを向いてしまう。雰囲気をガラっと変えて、清楚な旋律にいってしまう。(いらぬ喩えをすれば、バーで恋愛話になってあたふたして声が大きくなった若い男子が、年上OLの心をつかみそこねた図。)
  関係修復を図っているうちに、さっきの旋律が戻ってくる。オーケストラは今度は冷静に対応する。さっきは落ち着きのなかった第2ヴァイオリンとヴィオラは、平然と話を聞いている。うんうんと相槌を打つホルン。和して奏するファゴット、低弦のクッションがここちよい。優しく寄り添う。オトナの男の対応。そのあとの彼女のリラックスした歌いぶりから一目(聴)瞭然、これはうまくいった・・・。モーツァルトの天賦の才を感じさせる楽章である。
  第3楽章は快活に弾むスタッカートが印象的な旋律を主題とするロンド形式(様々な旋律をはさみながらロンド主題を繰り返す形式)だが、かなり自由に処理されている。必ずしも陽気なばかりではなく、少し影のある楽章である。もはやクラリネットとオーケストラの間に距離はなく、両者は砕けた雰囲気で共に歩む。

フランツ・ヨーゼフ・ハイドン / 交響曲第100番 ト長調 《軍隊》Hob. I: 100
I Adagio - Allegro ト長調
II Allegretto ハ長調
III Menuet: Moderato ト長調
IV Finale: Presto ト長調

  この作品はいわゆるロンドン交響曲あるいはザロモン・セットの1曲で、1794-95年の2度めのロンドン訪問の際に作曲された(第101番《時計》よりあと、おそらく1794年)。同年3月31日にロンドンでの第8回ザロモン演奏会で初演された。
  第1楽章。短い序奏がゆったりした美しい旋律ではじまり、短調になって力強く主部(アレグロ)へ導く。主部では楽しみと躍動感にあふれた第1主題と、少しおどけた第2主題が登場する。展開部では第2主題が主となるが、あいだに挟まれる第1主題の短調での展開が粋である。再現部を経て、第2主題を展開した長いコーダで終わる。いろどりが豊かな楽章。

  第2楽章は「リラ協奏曲」(ト長調 Hob. VIIh: 3)の第2楽章ロマンスを転用したもの(竪琴といって思い浮かべるリラではなく、リラ・オルガニザータという弦楽器とオルガンの要素を併せ持つ機械仕掛けの楽器。ナポリ王フェルディナンド4世が得意で、ハイドンは王の求めに応じて作曲した)。木管楽器と弦楽器が優しく平和的な旋律を奏でる。中間部(ミノーレ)ではトライアングル、シンバル、大太鼓が加えられ、デモーニッシュな雰囲気に包まれる。優しい旋律が戻ってくると、ここでも打楽器とトランペットが鳴り響く。トランペットのファンファーレが響き渡り、嵐のような全奏。急に正気に戻り、明るさを取り戻して終わる。優しさと勇ましさの対比が面白い。トライアングルの連打にご注目。
  第3楽章メヌエット。細かい音符(装飾音符付きの8分音符+2つの16分音符)で動きを出し、4分音符でリズム感をはっきりさせるような主題。時折、細かい音符の位置がずれたり、3連符が使われたりなどして、聴く者を退屈させない。トリオは可愛らしさと優美さと厳格さを併せ持つ旋律。
  第4楽章。快速テンポのソナタ形式。主に8分音符から構成される第1主題と、装飾音符のついた上行する短い音符から構成される第2主題の、2つの対照的な主題が用いられる。これらに新しい要素が入り混じって、めまぐるしく展開する。そうこうしているうちに再現部に入り、軍楽隊の打楽器が合流し、祝祭的な雰囲気を盛り上げて終結する。

* * *

  《後宮からの誘拐》序曲の日本初演は、1911(明治44)年6月25日の永井建子(陸軍一等楽長)指揮、陸軍戸山学校軍楽隊による日比谷公園音楽堂での演奏会(日比谷奏楽などと呼ばれ親しまれた)とみられる。この日の奏楽は6月22日のイギリス国王ジョージ5世の戴冠式を祝って「戴冠式と公園音楽」と題された。曲名は「「土耳古の後宮に拐帯せられしイル・セラグリオ」の序」と記載されており、混乱が見られる。
  オーケストラによる初演は1913(大正2)年12月6・7日、東京音楽学校(現東京藝術大学音楽学部)第29回定期演奏会とみられる。この時は「歌劇「セライルよりの誘拐」の序曲」と記載された。指揮したのはドイツ出身のヴァイオリニスト、グスタフ・クローン(1874-?)である。日本オーケストラの父と称されることがあるお雇い外国人アウグスト・ユンケル(1868-1944)の後任として1913年に来日し、10年以上の長きにわたり東京音楽学校のオーケストラの育成に尽力した。特にベートーヴェンの日本への紹介者として知られ、最大6つの交響曲が彼によって日本初演(全曲演奏)された。先の演奏会ではベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の独奏も務めた(ただし1楽章のみ演奏)。
  ちなみにオペラ全幕の初演となると1956(昭和31)年まで待たなければならない。グルリット・オペラ協会により6月11?19日に8回上演されたのがそれである(会場は産経ホールと日比谷公会堂で4回ずつ)。演出は青山圭男、指揮はマンフレット・グルリット指揮のABC交響楽団で、木下保、三宅春恵、伊藤京子などが出演した。
  クラリネット協奏曲の日本初演は難しい。1939(昭和14)年の東京音楽学校学友会第116回演奏会で第1楽章が、1950(昭和25)年の同校卒業演奏会で第2、3楽章が演奏されたことは確認できる。合わせ技を使えるならこれで一本だが、さすがにそうもいくまい。確認できた限りで最も早い全曲演奏の記録は、1962(昭和37)年8月24日の札幌交響楽団第11回定期演奏会、独奏は松代晃明(読売日本交響楽団)、指揮は荒谷正雄である。ただそこまで時代が下ると、それまでに他で演奏されている可能性があり断定できない。
  《軍隊》は1915(大正4)年6月27日の山田耕筰指揮、東京フィルハーモニー会管弦楽部による帝国劇場での演奏が日本初演である。ただしこの時に演奏されたのは第1、3、4楽章のみである。東京フィルハーモニー会は三菱財閥総裁の岩崎小弥太男爵が設立した音楽鑑賞団体で、管弦楽部は本邦初の常設オーケストラとして、ドイツ留学から帰国したばかりの山田耕筰のために設立された。1915年5月23日に初回演奏会をワルツのみ7曲というプログラムでおこない、以後6月27日、7月25・26日(野外コンサート)、9月26日、10月24日、11月21日、12月12日(大正天皇の即位礼奉祝)、12月19日と、山田の自作曲の初演を含め、精力的に演奏活動を展開する。だが、翌年2月に岩崎からの資金補助が打ち切られ、フィルハーモニー会自体が解散となった(山田の女性問題が原因と言われる)。活動は1年に満たなかったが、山田がこれを起点に日本初の全方位的な職業音楽家としての音楽活動を繰り広げていくことになる。
  第2楽章を含む全曲の初演は、日本交響楽協会第2回演奏会(1927年10月27日、赤坂公会堂)とみられる。これも山田耕筰のオーケストラで、前年に分裂騒動(山田の金銭問題が問題か)を起こしたばかりだった(日本交響楽協会のほとんどの楽員が脱退し、近衞秀麿と共に新交響楽団(現NHK交響楽団)を結成した)。

* * *

  今回のプログラムの特徴を挙げるとすれば、一つには当時としては珍しい楽器の使用ということがある。ハイドンがクラリネットを使うようになるのは交響曲第99番からのことで、モーツァルトも交響曲第31、35、39、41番のみということからわかるように、クラリネットは比較的新しい楽器であった。メヘテルの打楽器については先に述べたとおりである。珍しい楽器に耳をそばだてた当時の聴衆の驚きを想像しながら聴くのも一興かもしれない
  ハイドン(1732-1809)とモーツァルト(1756-91)は、親子ほどの歳の差があるが、1781年ころに知り合って以来、友人同士であった(涙なしには語れないふたりのエピソードをメロスフィル第16回演奏会のプログラム・ノートに記したので、よろしければウェブサイトでご覧あれ。)親交厚かったふたりの平和で賑やかな作品を、どうぞお楽しみください。

酒井健太郎
 
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