ルネサンスから古典派の作品を演奏する合唱団とオーケストラです |
団の歴史
創団
いまから25年前、大阪教育大学混声合唱団で出会い巣立った仲間が、先輩の結婚式のお祝いにバッハを歌おうと集まったのをきっかけに結成されました。週に一度、大阪市内でささやかに活動を開始。当時の団体名は便宜的につけた「中安コーラスグループ」。最初の試練
練習を重ね、演奏会も開催し順調に活動を続けますが、だんだんと団員の練習に対する士気がさがってきます。きっかけは一旦決まった第二回演奏会の日程がのびたことでした。練習にメンバーが集まらず、思うような練習もできず、合唱団としての最初の試練にぶつかります。そんななか大きな悲しみがメンバーを襲します。
なんとか開催にこぎつけた第二回演奏会の翌日、一緒に舞台に行った仲間、中村睦さんが、大学四回生の若さで急逝されたのです。
若い仲間の死にメンバーは大変なショックを受け、また苦しみました。明日も目覚めて、歌をうたうはずだった中村さんをおもい、メンバーに出来ることは歌うことだけ。
死をおもい、生をおもい、他者をおもい、祈る・・・。
この時から、合唱団の中で何かが変わりました。
追悼の思いを込めて第三回演奏会で披露されたバッハのモテット「イエス、我が喜び」は、当時のメンバーにとって忘れられない曲となりました。
クランクレーデとの出会い
発足当初から、なるべく作曲された時代と同じ形で演奏したいとこだわり、演奏会では外部の室内楽オーケストラを招いておこなっていた合唱団ですが、もっと同じ目線で音楽を共有したいという思いから、共に活動できるオーケストラを探していました。「求めよ、さらば与えられん」とはよく言ったもので、思わぬ縁から、アンサンブル・クランクレーデの坂田敏弘氏との運命的な出会いを果たします。クランクレーデも共に活動できる合唱団を探していたとのこと。
第五回演奏会でのバッハ「マニフィカト」により初共演を果たし、以後数年、クランクレーデとの協働が続きます。
ルネサンスへ
第七回演奏会のころより、ライゼコールはルネサンス期から初期バロック期の音楽に力を注ぐようになります。このころはひたすら声の表現をみがき、声楽的なアプローチを必要とする曲に集中して取り組みました。
新しいメンバーの参加もあり、若い合唱団がより充実し、成長していった時期となります。
大曲の10年
1995年、クランクレーデはオリジナル楽器による、アンサンブル「オーバテーネ」として再結成され、再びライゼコールと歩みを共にします。1998年には、満を持しての初の大曲「ヨハネ受難曲」に挑戦し、好評を得ることができました。相次いで「かぶとやま交響楽団」との共演により、ベートーベン「第九」を、2001年には15周年を記念して、西洋音楽の最高峰ともいえる「マタイ受難曲」と、バッハ好きなら死ぬまでに一度は歌いたい!という念願を次々と果たします。
並行して、指揮者・中安氏は合唱団「大阪コーラル・ソサエティ」の常任指揮者としても活動し、そのメンバーの方々から、音楽的にも、人間的にも、非常に多くのことを学んだといいます。
めまぐるしく充実した期間でしたが、指揮者多忙のため継続した活動が難しくなり、「マタイ受難曲」を期にライゼコールは活動を休止しました。
活動再開
2002年、創団時と同じく、団員の結婚のお祝いをきっかけに、1年半の休止を経て活動を再開をさせたライゼコール。歌いたかったのは、やはりバッハでした。以後、バッハ「ロ短調」、モーツァルト「レクイエム」などの大曲に果敢に取り組むと同時に、無伴奏の小品で構成したアンサンブルコンサートの企画や、フランス人作曲家デュリュフレの「レクイエム」、ライゼコール初の邦人曲「花に寄せて」に取り組むなど、より多様な可能性を探る日々が始まりました。
たくさんの人の想いと助けを得て、活動を続けてきた森の宮ライゼコール&オーバテーネ。
これからも歴史は続きます・・・。
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