第4回演奏会 
 
G. ロッシーニ/
 歌劇「セビリアの理髪師」序曲 変ホ長調


ボーマルシェの原作上ではフィガロの結婚を続編としてもつ作品で、フィガロの結婚前のお話が主題となっているこのオペラ。実は同じ題材のオペラが先輩作曲家のパイジエルロによって1782年に書かれて人気を博しており、当初は別の題名で上演されしかも初演は大失敗であった。

こんな普通の解説ではメロスのお客さんは納得されないでしょうか。

この曲は18歳でオペラの作曲を始めたロッシーニの24歳の作品ですが、若書きというよりむしろ円熟期の作品にあたるとされます。オペラ・ブッファ(喜劇調歌劇)を得意とし、何曲もの人気作品(全てオペラ)を残した彼は本格的な作曲を37歳時のウィリアム・テルで止めてしまうからです。その後は移り住んだパリで、食通三昧の生活を送ってついぞまともな作曲をしなかったといいます。個人的見解ですが、よく、某T.小室なるものが現代の日本のモーツァルトなどと言われているのを聞くと、せめて、ロッシーニくらいにすればいいのにと思うのですが、イタリア人におこられるかなぁ。考えてみればもっと似ているのは小林亜星かもしれませんね(小室ファンも敵に回したかな)。

実はこの解説はオペラ全曲の解説であり、この序曲の解説ではありません。この序曲は本来、1815年作曲のオペラ『イギリス女王エリザベス』への序曲でしたが、当時作曲が間に合わなかったのか、『セビリャの理髪師』に流用されたとされています。ま、曲のいわれがこんなもんですから、解説もそんなもんで……。

散々書いてしまいましたが、曲としては有名かつ本当に美しいメロディーと楽しく気楽な雰囲気にあふれた名曲です。是非是非、気楽に聞いてください。
L.v. ベートーヴェン/
 ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 op.61
 交響曲第8番 ヘ長調 op.93


さて、楽聖の登場ですから、前のように済ますわけにも行きません。2曲まとめて書かせてください。特にヴァイオリン協奏曲は、様々なことが言われ尽くされた名作中の名作ですので、あまり変な固定観念なく、ヴァイオリン・ソロ(とオーケストラも少々)のいい音楽に浸っていただければ幸いです。

曰く、ヴァイオリン協奏曲の最高傑作、ヴァイオリン協奏曲はニ長調でなければという常識を作った曲、交響曲第4、5番の間に産まれた傑作の森の中心。
いろいろと賛辞は尽きないようですが、ヴァイオリンの名人芸を見せ付ける曲ではなく、ヴァイオリンとオーケストラが絶妙の対話を見せる曲というのが、本日の主題です。

一方の交響曲第8番はといえば、ある意味でもっとも解釈と評価の分かれた曲のような印象を禁じ得ません。
作曲者である楽聖本人が、自信作であるのに世の評判が芳しくないと述べていますし、かの大指揮者ワインガルトナーが、最も議論の余地が無い(悪名高いテンポ設定をのぞけば)完成度の高い曲と評して以来、批判されることの少ない曲ですが、音楽家・音楽評論家の既成の著述をみると、攻撃的な曲だの、全曲これユーモア&ギャグだの、果てはコスモス的容貌にエネルギーが内蔵された云々まで。つまり、定説はないわけです。当然のことです。ある音楽がいい・感動的だと思う理由など人の数だけあるのですから。

そんなわけで、今回、実際の音楽家の著述を参考にしたかったのですが、探した限りでは見当たりませんでした。そこで誠に申し訳ないのですが、個人的なちょっと面白い視点ということで、お茶を濁させてください。

楽聖の交響曲のなかで、第8番の特徴は何でしょうか。まず、第2楽章にコミカルな曲を置き、第3楽章を彼の常用のスケルツォからメヌエットに戻し、古典的な形に戻していること。第1楽章ののびやかな主題が突然ぶちきれ、第2楽章はメトロノーム、第3楽章はラッパなどの変な合いの手が入り、第4楽章の大騒ぎ、なるほど全体に楽聖のイメージとかけ離れたお遊びの饗宴となっていること。これらは、よく書かれていることですから、そちらにおまかせしましょう。

個人的には、最後の長調交響曲であり、それと関係して2度目のへ長調交響曲であること。さらに第4楽章の主題の特殊さの方が興味深いのです。ベートーヴェンは第5番以外のそれまでの6つの長調交響曲を(第2回の解説でも書きましたが)ハ、ニ、変ホ、ヘ、イ、変ロ、とト長調以外の主だった調で各々1曲を書いているのです。そこにハイドン師匠ばりのこの曲ですから、なんでト長調にしなかったのでしょう。ティンパニを1オクターブで鳴らしたかったが、ソーソの調律が当時の楽器では出来ないため、1音低い調で妥協したといった話を聞いたことがありますが、確証の記述は得られませんでした。しかもそれならば、なんで現代の楽器でト長調版演奏の試みが世界的にないのでしょうか(でも、やってみたら面白いでしょうね)。

第4楽章の冒頭にヴァイオリンと一部ヴィオラで演奏される主題の特殊さ、とはなんでしょうか。本当は種明かしを演奏前にするのは反則なのかもしれませんが、あのトレモロのような細かい音符は実は6連符(正確には4分音符への3連符2つ)なんです。恥ずかしながら、私も楽譜を見るまでは分かりませんでした。これは楽聖が書いた交響曲のなかで、唯一の例外です。つまり、管楽器には早すぎて弦楽器にしか演奏できない主題、しかも現実的には非常識な遅いテンポをとらない限り、弦楽器セクションとして正確に演奏することが出来ない。このような主題を楽聖が交響曲に採用した例は、この楽章にしかありません(第7番の4楽章の速い主題もフルートだけには演奏させています)。この主題は、管楽器が演奏するときは、倍の3連符になっています。
この曲では6連符の弦と3連符の管は、ついに相譲らず、楽章も後半になってから基礎練習を始めてまで6連符にこだわる弦楽器と、いい加減あきらめて3連符にしろよとなだめる管楽器は、終わり間際の438小節目で歩み寄るかに見えましたが、4小節後には決裂して、さらに中間派のティンパニが4連符で割り込んで滅茶苦茶となった後、無理矢理のように終わります。
そう考えると、この6連符は正確に演奏できないことを前提に書かれているとしか思えません。まさかあのメロスがテンポを落として正確にやろうとするとは思えませんが、今日はどうなるか楽しみです。

私のように管楽器でも一番地味なものを生業としていると、彼の作品、特に交響曲や室内楽を演奏するとき、彼以前の音楽との一番の違いは、すべてのパートにいい音楽が存在し、すべての演奏家に今音楽している充実感がある事だと思います。ブルックナーの交響曲のパートを演奏するときの無力感はここにはありません。なぜ、そうなしえたかはの本当の理由は神のみぞ知る音楽の不思議かもしれませんが、楽聖の主題が全ての楽器が演奏できるような単純なものであることは疑いなく一つの答えでしょう。
ベートーヴェンが、まさに実現を目の前にした民主主義(democracy)思想に共鳴し傾倒したのは有名です。そう、彼の傑作の森時代の作品ではとくに顕著なのですが、楽聖とは合奏作品においては「自分の音楽にもdemocracy を」と奮闘した作曲家であるようにも私には思えるのです。メロディーの支配者と伴奏の奴隷、聴衆に届かない音は彼の曲には存在しないのです。彼は美しい旋律を書く能力が無いと言う音楽家もいます。しかし、楽聖はおそらくそんなものはモーツァルトにでも任せて、democratic な音楽を追求したと私は信じます。なぜなら、ヴァイオリン協奏曲の中で、単純な動機の1楽章と豊かな旋律の3楽章の両者が見事に融合しているではないですか。
しかしながら、生まれたてのdemocracy の中心にある当時の民衆がより賞賛したのは、楽聖の交響曲ではなく、ロッシーニのオペラだったのです。それを誰よりも強く感じていたのはベートーヴェン本人であり、彼は晩年に向けて作曲の様式を変えていきます。1810年にオペラ界に登場したロッシーニと、1812年に交響曲からdemocratic な主題に別れを告げて喜劇的な最後の長調交響曲を作曲した楽聖。

ト長調にならなかった本当の理由とは……今は知る由もありません。
(薪傍ご隠居)
 
 
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