第5回演奏会 
 
W.A. モーツァルト/
 歌劇「フィガロの結婚」序曲 K.492
J. ブラームス/
 ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 op.77


主要調性がニ長調とヘ長調という田園牧歌調で統一されたプログラムを有するこの演奏会、今までの解説の経過からすると何やらの一つ覚えといわれようが、やはり調性についての議論は避けてとおる訳にもいかないでしょうか。さらに、今回の演目では、管弦楽作品を演奏する難しさあれこれも外せないテーマになりそうです。

フィガロについては、ここでオペラの解説を始めたところでこの序曲の鑑賞対象としての価値が変わるわけでなし、メロス的でもないでしょう。ということで、早速私事で恐縮ですが、先日この曲を木管アンサンブルで演奏する機会で抱いた経験を参照させてください。じつはそのとき、広く市販されているハ長調に移調した版を使ってみたところ、全員一致でこれは使えないということになり、結局オリジナルのニ長調で編曲しなおすことになりました。結果はメンバー全員にとって極めて満足のいくものでした。音程が2度下がる(レがドになる)だけで、大きく音楽の印象が変わることが、何によってもたらされるのか、興味は尽きません。しかし、代償として我々は運指等の演奏難易度が何倍も難しいものとなって辟易したのでした。

この曲ではオペラの筋書きなどはとりあえずおいといて、歌劇の開幕ではなく今日の演奏会の始まりを告げる序曲として、極めて簡潔なソナタ形式で駆け抜ける最高度に洗練された<天上の音楽の軽やかさ>(R. シュトラウス)を存分に楽しみたいものです。しかし、聴衆の皆さんにその短くも洗練された時間を楽しんでもらうために奏者がする努力と言えば…。

では、メロスならではの出来に耳を傾けてみましょう。

次の協奏曲ですが、もちろんブラームスの世代の音楽ともなれば、調性は曲の中で多様に変化していきます。

この曲はむしろ、その変化と楽章ごとの性格の変化が曲の醍醐味であることに疑問のある人は少ないでしょう。しかし、面白いことにこの曲はブラームス・フリークとそうでない音楽ファンの間で、面白い程評価が別れるのに興味をそそられます。例えば1楽章ではそれが野暮ったく響くと思えば重厚さに感動することもあるかも知れません。2楽章ではその変化が最良のブラームス節だとするファンにはたまらない魅力となるでしょうし、ヴァイオリンというよりむしろオーボエ協奏曲の長過ぎる間奏曲のようだと退屈する人もあるかもしれません。

そして、3楽章。一般的には最も協奏曲的で、快活な輝かしい音楽でありながら、多くのブラームスファンにはあまり歓迎されない不思議な楽章。しかし、これにはそう成る理由も解るような気がします。この曲の成立過程には、作曲者本人が親友のヴァイオリン奏者ヨアヒムにあてた手紙の中でこの作品の半分は君の曲のようなものだと書いたような要素もあるからです。中庸主義者で形式や構造を重視し重厚さにこだわる作曲家と、彼の幼馴染みであり演奏効果と技術的問題にこだわる売れっ子名バイオリニストの横槍のはざまで曲そのものがゆれ動く難しさ。三浦さんという名手を得て、メロスは果たして右往左往してしまうのか、変幻自在に表現してくれるのかとても楽しみです。

この2曲の主調であるニ長調はいかなる調性なのでしょうか。一般に田園的、牧歌的な調であるとともに、弦楽器がよく鳴る調だと言われています。この前半については田舎や牧歌というよりも、ニ長調でよりよく表現される弦の輝き、ひいては音楽の響きを楽しんで下さい。
L.v. ベートーヴェン/
 交響曲第6番 ヘ長調 「田園」 op.68


よく最も楽聖らしくない力の抜けた曲という評判も聞かれるこの曲ですが、本当にそうなのか大いに疑問があります。このことはこの曲を特徴付けることを列挙してみれば明らかだと思います。この具体的標題を有する5楽章の管弦楽は、なぜ楽聖をしてこの曲は風景などよりはそれに伴う感情の表現といわしめ、そして交響曲と命名されたのか。なぜこの曲を難曲として演奏を避ける指揮者、オーケストラが多いのか。楽聖のヘ長調作品に多く認められる音楽への意味付け(標題であったり、簡単な歌詞だったり)の傾向など、いずれも興味深いものばかりです。

さらに、ある意味では後世の作曲家が交響曲に対して持たざるをえなくなったこだわりと圧力の源流は、この曲に始まったとも言えるのではないかと思えます。交響曲の定義とは何か。「オーケストラへのソナタである」「4楽章形式の器楽曲である」などのハイドンが完成したフォルムは早くもこの曲によって破られてしまいます。そして、様々な作品が世に出るわけですが、この問題に作品を通じて最も軽やかに答えを与えてくれる作曲家は誰だろうと考えると、リヒャルト=シュトラウスの名前が浮かびます。

彼は習作の交響曲をかいたあと、一連の有名な交響詩群を書きます。より正確には田園交響曲と似た交響的組曲を一曲書いたのち、有名な音詩(Tondichtung)群を「ドン=ファン」から「英雄の生涯」まで作曲し、そして、彼の純粋な管弦楽作品(オペラの組曲抜粋などではない)の最後を飾る2つの曲、則ち「家庭交響曲」と「アルプス交響曲」を完成します。

Sinfonischessuite、Tondichtung、Sinfonia domestica、Alpensinfonieと、同じような標題のある管弦楽曲の命名を変えていった管弦楽法の大天才は何を考えてそうしたのか。彼は音詩を作曲するに当たって、文学や戯曲を用いており、彼自身の主張はその中心にありません。しかし、最後の2作品では家庭の主としてや登山者としての彼の視点と行動、感情が見事に表現されています。つまり、答えは既に1世紀前の楽聖の田園交響曲に寄せた言葉の中にあったのだと思います。それはつまり、交響曲とは音楽(管弦楽)を通じての作曲家である自分の意志の表現である、という圧力をあらゆる後世の作曲家に語りかけたということにつきるのではないでしょうか。

そしてそのような視点でこの曲をもう一度見てみると、この作品の特殊な面白さが実は演奏の困難さにも結びついてくるようにも思えるのです。この曲に秘められた楽聖の強い意志はどこにあるか、単なる風景の表現にとどまらない楽章はどこかといえば、多くの指揮者は5楽章を挙げるでしょう。実際に演奏してみた感想では当時の何気ない自然描写の機会音楽のように始まるこの曲は、3〜5楽章への移り変わりの中で、演奏者と聴衆を徐々にベート−ヴェンワールドに引き込んでいきます。練習で5楽章だけを演奏した時とちがった世界に本番の高いテンションの中で演奏者も巻き込まれていきます。

その結果、私が経験した前の演奏会でもそうでしたが、5楽章で大きなアクシデントが起こりました。今日のメロスは、そのようなことはないと確信しますが、このテンションの高い団体がどういう演奏をみせてくれるか、今日はとても楽しみです。

ベート−ヴェンを通してヘ調を語るときよく引き合いに出されるのは、彼の最後の弦楽四重奏に採用されたことです。結局は人生で最後の作品となる(しかもそれを自覚していたという説もある)その曲の最終楽章には Muss es sein?(そうでなければならないか)というヘ短調の問いかけに Es muss sein! (そうでなければならない!)とヘ長調で答える短いながら歌詞を与えられた主題動機があり、多くの批評の対象になっています。それについての解釈などは評論家先生にでもまかせるとして、こんな話はどうでしょう。
ハ長調を基本の調としてとりあえず考えてみると、ニ長調、変ホ長調は音程が上がっていき(ド<レ<ミ)、輝きをましてくる印象があるのですが、ヘ長調となるとむしろ(ド>シ>ラ>ソ>ファ)と下がって来た調は鈍く素朴な印象と変わります。楽聖が自分の意志を漏らした曲に多くつかわれるヘ調。実は家庭交響曲でシュトラウスが自分を表現した主題もじつはヘ長調だったりするのです。今日のニ長調とヘ長調の両者の田園的とよばれる調性を考えるとき、我々にが率直に想像する2つの田舎へのイメージ、則ち、輝かしい自然とそこに住む素朴な人々の対比などと照らし合わせると、へ調とは人間臭い調なのだろうかなんて想像も面白いとは思いませんか。

(薪傍ご隠居)
 
 
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