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第6回演奏会 |
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- W.A. モーツァルト/
歌劇「劇場支配人」序曲 ハ長調 K.486
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1786年、モーツァルトはまさに彼の絶頂期にありました。昨年来のピアノ協奏曲(現在の20〜22番)を中心とした演奏会は全て大入り満員で、作品への評価や人気も高く、ピアノの教え子たちである貴族やその令嬢たちにもこころよく受け入れられ、ドイツ語オペラもダ・ポンテというやり手の台本作家とのコンビが上手く行き、作曲中であった「フィガロの結婚」の上演許可を作家の搦め手を駆使して皇帝から得ることにも成功し、人生の上り坂をむかうところ敵無しの勢いで駆け上がります。
本日演奏いたしますのは、この年の初め、ピアノ協奏曲23番に先立って、この年の最初の大作として一気呵成に書き上げられた1幕ものの喜劇につけられた音楽からの序曲です。まさに、飛ぶ鳥をも落とす勢いであったモーツァルトの作品、万人が認める天才の手による軽やかな小品であり、音楽の才人達の意欲的労作の並ぶこの演奏会をはじめるのに、好対照ではありますが、実はふさわしい曲かもしれません。
- J. ブラームス/
ヴァイオリンとチェロの為の二重協奏曲 イ短調 op.102
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時は100年経過し、1886年、ワーグナーと相対して音楽界を2分する派閥の中心に祭り上げられたブラームスは、第5交響曲の構想を始めますが、翌年にはこのプランを二重協奏曲の方向に変化させ、数年来疎遠だった名ヴァイオリニスト・ヨアヒムとの親交を回復する願いを込めて8月に完成させました。
この曲に関する数少ない情報である上記のような記述も、疑問視されている点が多いというこの曲。むしろ、duo の協奏曲という比較的類をみない形式を、あの保守的で中道主義者のブラームスが最晩年の(結果的に最後の)管弦楽大作として選んだことがとても興味深いと思います。しかも、どうも協奏曲の常である、作曲を依頼した何ものかの存在がはっきりしないのがまた興味をそそられます。
しかし、今日この演奏会に向けての最も重要な解説すべきことは、今日の2人のソリストの素晴らしさでしょう。指揮者として進境著しい中田延亮氏の棒でメロスは果して、ブラームスのみならず、素晴らしきソリストの音楽とどう絡めるか、何回かの練習を通じて我々の受けた感動がどこまで皆さんに伝えられるか。お楽しみに。
- L.v. ベートーヴェン/
交響曲第5番 ハ短調 op.67
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さて、この解説し尽くされた感のあるこの名曲。いまさら何を申すことがありましょう。メロスHPにておもしろ解説などと紹介されてしまう関係で陳腐なことが書きづらい立場上、いささか胡散臭くなることを御勘弁頂ければ幸いです。しかし、メロスを聴きにくる方ならばつぎのような、曰く、全曲運命の動機(冒頭のですね)の展開、最小の音符構成に最大の感情表現、全く無駄な音符のない曲、闘争から勝利へをイメージさせる曲、などの解説は読み飽きているということを期待して、あまり多く述べられていない後半楽章に着目して書いてみましょう。
この曲を殊に日本において運命交響曲と表わすことの多い経緯はさておき、その命名からして1楽章の存在価値を重視していることに疑問はないでしょう。楽聖が多く闘争の表現として用いたと言われるハ短調を用いて開始されるこの交響曲。本日のハ長調に終始する演奏会において、今までの経緯からも(興味があればメロスのHPで見て下さい)この興味深い調性について書くのも魅力的なのですが、今回はあえて違うテーマを選択しましょう。音楽史上最大級の傑作であるこの曲は、調性のみで俯瞰するには勿体無いですからね。
むしろ、この編成がさほどハイドン師匠と変わらない第1楽章のスケール感の magic を体験する最も良い手段は、上記の言葉の力を借りるより、例えば手持ちのコンピュータにこの曲と、大バッハによるフーガのなにか一曲とを入力してMIDI で再生して聴きくらべれば一目瞭然です。その完全なる音程とテンポの世界の中で、バッハの音楽が全く色褪せないことに比べ、このハ短調楽章のなんと滑稽なことか。むしろ芸術というより学会発表用の実験作のようにも思えなくもありません。
では、第4楽章を中心にハ短調交響曲を見ていくと、その姿はどう見えるでしょう。それまでの交響曲作品と比べてのこの曲の特性を列挙してみましょう。
・楽聖の最初の短調交響曲であり、先駆者の短調交響曲群と異なり長調の楽章に終わる。
・第3楽章と第4楽章が移行部で連続している。
・第4楽章において、トロンボーンやコントラファゴットなど、当時では目新しい低音楽器を補強し、意図的にスケールを増強している。
紙面の都合上、今回はこの第3、4楽章の移行部に今回は着目したいと思います。この移行部の存在は何であるか、皆さんはどのように考えますでしょうか。
・ハ短調で開始される交響曲をハ長調の第4楽章で締めくくるための必然の構造。
と、クールな分析から
・闘争に始まり苦悩する主人公が勝利に至るドラマの描写。
などと、ファンタジックなものまで、様々な考え方があるかもしれません。
あまり極端でない考え方としては、調性/場面/描写など音楽的意識の変容を示す、より具体的にはオペラの回り舞台の変化と類似する効果を期待しての構造という所でしょうか。というのは、移行部の音楽それ自体には、例えばシベリウスが第2交響曲の第3・4楽章移行部に織り込んだような明白なメッセージは見いだせず、むしろ非常に淡々と整然とした論理的展開が並んでいるからです。
なぜ、楽聖がこのような構造をこの曲に置いたのかは、今では知る由もありませんが、闘争と勝利に限定されるかどうかはともかくとして、移行部自体よりもそれが繋いでいるその前後の音楽からは、以下のような違いを見い出すことは困難ではないでしょう。1〜3楽章の凝縮・緊張・抑制的音楽は、第4楽章に至り拡大・冗長・解放的に大きく転換するのです。
この一連の経過を、例えば音楽室のうしろにかけられた額縁や教科書にあった格闘する作曲家ベート−ヴェンから、子供のようにハ長調という犬と遊ぶ童心に帰った楽聖への変化と見るのも面白いけれど、これを今でいう音楽プロデューサーとしての楽聖の才能の現れと見るのはあまりにも贔屓目でしょうか。即ち、このような曲にした方が、初演で成功する可能性が高いであろう、より演奏者のノリが良くなるであろう、より多くの聴衆の感情移入と喝采を得られるのではないか。そして、自らへより大きな利益が得られるのではないか。従来、このような考え方はモーツァルトによく見られており、ベート−ヴェンでは多くはより純粋に、ないしはより音楽馬鹿のように扱われているように見受けられるのですが、楽聖の3→5→9番の交響曲の終楽章に向けての構造の変遷を見る時、彼のそのような意図は晩年に向けてより鮮明となり、しかも現在に至るまでその敏腕プロデューサーの思い通りに我々の音楽嗜好が向かっているではないか。ま、これはただの結果論なのですけどね。
今日のこの演奏会で取り上げられているあと2人の天才、晩年に向けワーグナーなどの時代の音楽と離れてより内省的な音楽への指向を強めたブラームスと、作曲家として抜群の才能を持ちながら、フィガロでの風刺で虎の尾を踏みパトロンである貴族達に遠ざけられ、惜しくも民衆の支持を十分に受ける前に惨めな晩年に向かうことになるモーツァルト。ハ短調交響曲からはだいぶ離れてしまいましたが、作曲家に加えてプロデューサーとしての楽聖の才能を皆さんはどう思いますか。
(薪傍ご隠居)
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