第8回演奏会 
 
F. シューベルト/
 劇付随音楽「ロザムンデ」序曲 op. 26 D. 797


1823年、楽聖ベートーヴェンの第九交響曲初演の年。26歳のフランツはキャリアアップのため劇場作品の依頼と格闘していました。しかし、気鋭とはいえ新顔の作曲家、公的には元宮廷歌劇場の稽古伴奏者程度の若造に、良いオペラ台本が来るはずもありません。作曲活動の原動力は最初の完成作『魔法の竪琴』(1820)の上演によって得 られた音楽的経験でした。そんな折、現在、名曲として知られるウェーバー作の『オイリュアンテ』の初演がこけてしまい、フランツが前年に『未完成交響曲』と並び苦労してものした『フィエラブラス』や『陰謀者たち』の上演はお流れとなります。失意の中でもフランツは、件の『オイリュアンテ』の女流台本作家チェジーと組んで 『ロザムンデ』のウィーン上演に向けて全10曲の完成を急がざるを得ませんでした。そのようなデフレのオペラ界の実状に鑑みてか、彼は新作序曲の作曲を見送り、『アルフォンゾとエストレッラ』(1821)の序曲を転用し『ロザムンデ序曲』とするのです。ロッシーニみたいですね。しかしさらにフランツは、後年それを改訂して、『ア ルフォンゾとエストレッラ序曲』として再上演してしまいます。その上、版権を有する出版社がその曲を『ロザムンデ序曲』という名称で『魔法の竪琴』の曲として出版してしまうのです。というわけで、何の劇の序曲かなんて無粋なことはいわないで、フランツのハ長調の劇音楽をどうぞご堪能ください。どっかで聴いたような旋律がに ちりばめられて面白いですよ。
W.A. モーツァルト/
 オーボエと管弦楽のための協奏曲 ハ長調 K. 314


メロスフィルの過去の演奏会(第3回)で、大バッハのヴァイオリンとオーボエのための協奏曲を取り上げたときと同様、この曲への本当に面白い解説は、長く存在が噂され20世紀になって発見されたこの曲にまつわる考古学的ドラマにありそうな気がします。

要約を示すと、1777年に当時のオーボエ奏者ジュゼッペ・フェレンディスの依頼により作曲されたハ調のオーボエ協奏曲があり、神童の家族の手紙から存在は確認されるものの、長く完全に失われたと考えられておりました。しかし1920年、モーツァルト研究者パウムガルトナーがザルツブルク・モーツァルテウムの書庫から18世紀に印 刷されたハ長調オーボエ協奏曲のパート譜をみつけたのです。これが果たして神童のニ長調フルート協奏曲の移調されたものだったことから、かの研究者はオーボエ原曲説を提示し、論拠に富むことから支持されています。今日の古部先生とのすばらしい演奏をもって、メロスがオーボエ原曲説を確信させてくれるかどうか、楽しみですね。 真偽の程を批評する力がない者としては、この有力な説をもって、この曲が1777年、21歳の神童ヴォルフガングの作品であることを前提に筆をすすめましょう。

この年の神童の動向といえば、例のベーズレ書簡が始まった年である。といっても、多くの方には何の興味もないでしょうか。この書簡は、いとこ(ベーズレ)のマリア・アンナ・テークラ・モーツァルトとかわされた、『メリメリと音を立て花壇に糞をしな。そしておやすみ。』というような、なんともな下品が満載で、しかし親愛の心に満ちた手紙なのです。市井には、「この手紙は神童の創造性の蠢動を示す」なんてな分析をしている解説もあるのですが、神童のブルジョア意識のある種の表現以上のなにものでもない気もします。興味のある方はその一部が出版されてますので是非ご覧ください。下手なモーツァルト解釈論より、よほど神童の音楽を彷彿とさせる面白いものですよ。
F. メンデルスゾーン-B./
 交響曲第3番 イ短調 「スコットランド」 op. 56


ユダヤ系作曲家・指揮者にして、古典派とロマン派の掛け橋であるフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ(FMB)。彼の交響曲第3番イ短調は、出版順位としては5曲中3番であるが、実際は38歳にて急死するFMBの最後の、そしてあしかけ13年もの最長の期間(実質4年)をかけて作曲された堂々の大作。指揮者でもある作曲家のアイデアで、拍手封じのためすべてアタッカ(つなげて休みなく)で一気呵成に演奏される4つの楽章は、一貫してスコットランドの民謡旋律の基本である5音音階を元に旋律づけられ、第2楽章のスコッチ・スナップ・リズムの使用などとあわせ、副題の『スコットランド(風)』を体現している。本人の様々な言語で流暢に書かれた手紙などから、この楽想の霊感はイギリス−スコットランド旅行のたびに積み重ねられ、この曲の作曲に影響したことは本人の弁より明らかとされる。しかし、この曲は単なる叙景的作品であるにとどまらず、楽聖ベートーヴェンの圧力を軽々とかわしつつ、FMBが若年から傾倒したバッハ・ヘンデルの古典的精神を反映した古典的均整を保ち、一方で第1楽章冒頭の廃墟のテーマであるアンダンテ主題から民族的スケルツォ(第2楽章)、アダージオ・カンタービレ(第3楽章)を経て、戦闘的アレグロ(作曲家本人の指定、第4楽章)から一転して荘厳なフィナーレを迎えるまで、ロマン的な感情に満ちた感動的作品である。

さて、古典的均整の解説はこの程度にして、メロス的解説・・・といきたいところですが、今回は楽聖の曲がないのでこれまでです。では、また来年。

・・・という原稿にしたら怒られてしまいました。さて、どうしましょう。

しかし、今回のプログラムは個人的にはすごく刺激的です。たてまえとして、

・いい調性配置(ハ長調、ハ長調、イ短調→イ長調)だな。シンフォニーの第1楽章展開部最初の弦楽トゥッティのC(ハ)の音がどう響くか楽しみだな。
・ほう、こうやってロマン派に入るつもりか。やるなぁ。

なんてのもあれば、ホンネとしては、

・ブルジョア的なプログラムだこと。
・しかし、こんなプログラムでお客は入るんかいな。東京はすげえな。
・どうでもいいけど、プロオケみたいな選曲してるなぁ。

あたりまで、しかし、いずれもおもしろい展開にはできそうにないので、ここはひとつ、メイン曲の作曲家に注目したいと思います。

「メンデルスゾーンといえば、作曲家フェリックス」。このフレーズは今や一部の業界(銀行・哲学界)を除き、何の違和感もないでしょう。しかし、「オザワといえば、ケンジ或いはミキオ」などと言えば、「おいおい世界のセイジはどこに行った?」となるでしょうね。(誰ですイチロウなんていってるのは?) メンデルスゾーンを語るとき、意外と欠落しがちなこの視点に着目しましょう。
FMBから3代遡ると、メンデル・デッサウ(デッサウ・ゲットーのメンデル氏)にいきあたります。その子つまりメンデルの子(ドイツ語でメンデルスゾーンとなる)を初めて名乗ったのが、モーゼス・デッサウ(デッサウ・ゲットーのモーゼ!!)、後の大哲人モーゼス・メンデルスゾーン。すなわちフェリックスの祖父です。大思想家不在の現在、比較できる人材を探すのは困難ですが、世界のブルジョアに個人思想が影響を与えるという意味では P. F. ドラッカーとかあたりでしょうか。 父親は有名銀行家アブラハム。経済的大成功者でした。フェリックスを悲劇の大作曲家などと書く音楽解説などがありますが、この論は根拠に乏しいように思えます。
実際、彼の人生をみると、夭折したことと家系があまりにも偉大すぎることによる負担を除いては、何をもって悲劇と見るかわからないのです。 彼はユダヤ系ですがクリスチャンであり、ゲーテなど名だたる名士たちと交友し、また作曲と指揮の才能を若くして認められ、時にユダヤ系だとの排斥を受けることがあっても、彼を排斥した一例のベルリンのアカデミー自体が、人気を失って衰退していくといった有様で、小児期の被差別体験を除けば、むしろ彼は本当の順風満帆の人生を歩んだと申せましょう。つまり、彼は現代で言えば作曲もするカラヤンのような存在だったのです。彼への誹謗・反対があったとしても、むしろ蟷螂の斧だったと考えます。
しかし、そのフェリックスが、実は彼の祖父や父親と同じように、若くして突然亡くなったこと。これは確かに悲劇でした。しかしそれはFMBにとってのそれではなく、ひょっとすると音楽界にとっての悲劇だったのではないか。と言ったら驚かれるでしょうか。
彼の死後、台頭してきた勢力は何だったか、それは4歳年下のワーグナーを中心とする派閥でした。音楽界のその後の状況の分析は私の手に余りますが、ワーグナーの他派批判はその後、熾烈さを増していきます。その矢面はブラームスとなったわけですが、本来そこには、リヒャルト・シュトラウスが指摘したとおり、メンデルスゾーンがいるはずだったのです。もし、20年前のカラヤンよろしく、フェリックスが音楽界に君臨していたら、その後の音楽界の悲劇はどのように変わっていたでしょうか。

今回のプログラムでは、30代で夭折した3人の天才の作品が並んでいます。世評では、神童モーツアルトは若くして完成して天に召されたのであるが、フランツはまさにこれからの時期に突然消えたのであり、彼があと30年生きたならばどのような作品群が現れたであろうかとよく書かれています。
では、メンデルスゾーンについての記述は? まったく誰も指摘していません。もし、神童・フランツ・FMB、いずれもが延命したとして、音楽界を最も変えたのが誰になるか。そんな想像をするとして、皆さんは誰に一票を投じますでしょうか。私は、メンデルスゾーンに一票を投じるでしょう。しかし、その場合にこそ、FMBがまさに悲劇の音楽家になるような気がしてなりません。夭折したからこそ、フェリックスは『妖精の音楽(前記シュトラウスの言)』の作者で居続けられたのではないでしょうか。何故かと言われても困りますが、たとえばこんな話で落ちとしてよろしいでしょうか。「大衆を扇動する強力な人格に対し、ブルジョアはあまりに無力」なのです。ほら、この国の昨今の更迭問題の3重構造もまさにこれではないですか。皆さんは、3人の誰を選びますか。または、第4の誰かがいるでしょうか。

成功してしまった被差別民族としての共感を寂しさをもって・・・
オリンピックの判定など平和な次元で悩める現代に感謝しつつ
(薪傍ご隠居)
 
 
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