Program notes
第9回演奏会 
 
W.A. モーツァルト/
 3つのドイツ舞曲 K. 605

1791年2月12日、この舞曲が生まれた日にはオーストリア皇帝ヨーゼフ2世の逝去から1年が経とうとしていました。内外政策にことごとく失敗し、失意のうちにこの世を去った彼は、死の少し前、1787年に神童モーツァルトを渋々ながら召し抱えました。それは「これほどの才能を持った音楽家を海外に流出させないため」であるという政府文書が残っているそうです。

それなのに彼が神童に与えた地位といえば、かのイタリア人楽長サリエリの部下たる宮廷作曲科。人材の配置に難のある政の失敗とは世の常なのでしょうか。当然のこと、神童には宮廷オペラの作曲などといった美味しい仕事は―特に皇帝の死後は―まわされず、こなすべきルーチンワークとして求められた作品群がこれらのドイツ舞曲でした。意外と現実主義者の神童が、当時人気の高かったこれらの舞曲集の楽譜を上司と出版社に売り込み上手に小遣いを得ていたというのは、まだ救われるエピソードでしょうか。これらは夜通し行われた宮廷円舞会に使われる新作であり、また、現在のポップスのごとく、たちまち流行し様々にアレンジされて多くの大衆に消費されたのです。晩年の神童を思うとき、これらの通俗曲に才能が消費されたとお嘆きの向きもありましょうが、200年を経て別の用途が出てくるとは、神童も予想していたでしょうか。中でも人気の高いのがこのK.605。ニ−ト−ハ長調と下属調進行し、「そり遊び」と名づけられた3曲目にはポストホルンや有調の鈴なども登場する、神童十八番の作品です。

L.v. ベートーヴェン/
 ピアノ協奏曲第2番変ロ長調 作品19

1792年から時の選帝侯より奨学金を受けて、神童亡き後のウィーンに留学していたルートヴィヒは、1794年10月、フランス軍によるボン侵攻を受けて選帝侯が退位したという知らせとともに学費打切りの現実に直面します。自活の道を選択する彼の糧となったのは、ピアノ教師の職と、この年に完成した変ロ長調鍵盤協奏曲でした。この曲を引っさげてルートヴィヒは予約演奏会の初演に大成功し、神童の未亡人コンスタンツェ主催の演奏会でも喝采を浴びるなど、順調に知名度と自立度をあげていきます。

さて、この第二番協奏曲、果たして彼の何番目の鍵盤協奏曲なのか。実はこれ、難題なのだそうです。それは、出版が第一番協奏曲(1798年作曲)と逆になったこと、出版されなかった習作の変ホ長調協奏曲の存在(1784年14歳時の作)によります。さらに、この時期は、鍵盤界が現在のチェンバロからピアノ(ハンマークラヴィア)へ移行していたまさにその時期であり、若きルートヴィヒはその変化に機敏に対応していたとされるようです。変ホ長調はチェンバロだが、変ロ長調以降はピアノだとかなんとか難しい議論が好きな向きもありましょうが、本日は伊藤恵さんという本邦屈指のソリスト(どうしてメロスの演奏に参加いただけたのやら。あ、オケの諸君の気に障ったらスマン)の演奏から答えを見出しましょうか。

L.v. ベートーヴェン/
 交響曲第2番ニ長調 作品36

時は1802年。ベートーヴェンは第二の交響曲の筆を進め、夏にハイリゲンシュタットに赴く。そこで書かれたいわゆる「ハイリゲンシュタットの遺書」には、次の英雄交響曲を生み出す楽聖が難聴の進行と戦う葛藤が表現され興味深い。そのような中で書かれ、1803年に初演された第二交響曲はむしろ、若き楽聖を癒したジュリエッタとの恋愛感情の明るさに終始する。・・・こんな感じの市井の解説の焼き直しを本日の演奏会用に行うのはさすがに気が引けますし、最近はこんな論調は少数派であることを祈ります。

ところで、各曲単位でなく演奏会全体のテーマ性にこだわるメロスの演奏履歴の中でも、本日のプログラムは極めて優れた、また稀有なものでありましょう。なぜなら今日のようなプログラムをもってはじめて、ベルリオーズ、シューベルト、メンデルスゾーンなど数多のプロ中のプロが愛好したこのニ長調交響曲というルートヴィヒの傑作を、「英雄」や「運命」の前菜ではなく、メイン・ディッシュとして楽しめるのです。さらに強弁すれば、このプログラムは、神童の舞曲が様々なアレンジで街を彩る1803年のウィーンにみなさんを誘い、あたかも我々が、傑出した才能を発揮して人気急上昇中だが、北ドイツから上京してきてまだ野暮ったさの残る、そして、愛想が良くてほっぺの赤い32歳のルートヴィヒ(言いすぎかな)が、ピアニスト兼純音楽作家として肩に力を入れまくって完成させたプログラムの初演に立ち会えるかのように聞けるプログラムなのです。このような演奏会は現在そうはないでしょう。


さて、1802-3から200年を経たこの2002-3年。2時の親である私にとって音楽界のトピックといえば、『大きな古時計』との再会でした。この邦訳には3番まで詞がありますが、実は元歌である Henry Clay Work の原詞には4番まであり、邦訳はその3番を省略したものであることはご存知でしたか。そしてそれはなにゆえに?TV放送には長いなどという脱力するような理由なのかなと思う一方、この省略には訳者の意図が反映されているといった可能性も否定はできません。原詞の3番を意訳すると、「♪お爺さんの口癖思い出す、時計のように誠実に」と始まります。原詞は、2番、3番と深く読むと、「おそらくはたらきものだったろう奥さんへの頑固なじいさんの最大限の愛情」が読み取れる素晴しい詩なのですが、その反面、子供へのお小言、教育臭がどうしてもぬぐえないのです。Work の原詞の価値の高さに疑問はなくとも、子供の歌として、またあのメロディーへの歌詞として私をはじめ多くの人が、保富康午氏の訳詞のほうがいいと素直に言える。こんな例は他にあまりないですよね。

せっかくの今日のプログラム。説教くさいベートーヴェンの初期作品として消費されてきたこの2曲を、若く可能性に満ちたルートヴィヒのデビューを見守る1803年の観客のひとりとなって聞いてみませんか。とご提案したい。これが、今日の解説のすべてであります。専門家の楽曲分析でも評価の高いこの2曲。特にニ長調交響曲は、あまりにも構成がうまく出来ていて、欠点のない分個性的魅力もない。という美人過ぎて口説けない式の批評もあるようですが、この曲を最高作とあげる一流作曲家も珍しくないすばらしい作品であり、さきにあげた批評家の妄言など取り上げる価値もないでしょう(だいたい遺書などと誰が認定したんでしょうね)。1803年以降ルートヴィヒは孤高の偉大なる音楽家への道を進み、今日我々の知る存在へと向かうわけですが、果たして別の道はなかったのかどうか。様々な音楽家の初期ベートーヴェン礼賛を読み、このような曲に接するとあるいはこの作曲家には別の名作の森もあったのではないか、たとえば、我々が「保富の大きな古時計」に感じるような存在感をもつ。もし彼が我々の友人や子供だったならば、そういう人生を歩んでほしいと思いますよね。

楽聖の名作にも引けを取らないすばらしい創造物を残して天国に昇られた保富康午氏は、もしご存命であれば本日が73歳の誕生日になります。

(薪傍ご隠居)
 
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