1788年、前年フィガロで貴族社会からの反感を受け、父親を亡くし、プラハでのドン・ジョバンニの大成功にもかかわらず、経済的に逼迫を余儀なくされる齢30にして彼の晩年を迎える神童は、何ゆえか献呈先も明らかでないいわゆる後期3大交響曲群を矢継ぎ早に完成させます。その3作の最終作品がこのハ長調大交響曲。彼の生涯の交響曲を俯瞰すると、ハ長調の交響曲にはK100番台後半あたりから独自性と新進性が目立つようになり、父レオポルドの好んだニ長調の作品で見せる古典的作風と対をなしているなどとの分析がありますが、私の手には余るところです。
さて、この名曲を解説できる言葉は簡単には見つかりません。この曲が調性、構成、オーケストラ編成ともにハイドン由来の古典的なスタイルで最高度に完成されたものであることは、ほぼすべての楽曲分析に共通する結論です。中でも殊に有名な4楽章の中軸をなすジュピター音形[C-D-F-E]について、この主題が実はモーツァルトの書いた最初の交響曲とされる交響曲第1番変ホ長調K.16の第2楽章でホルンに伴奏音として変ホ長調で演奏されます。非常によく使われる音形ですから、偶然の産物と考える方が妥当なのでしょう。が、同じホルンのハ長調のジュピター音形に、第4楽章の終結に向かう堂々たるフーガの開始を告げさせたモーツァルトは、弱冠32歳にして、自己の交響曲作曲史の大いなる環を一度(結果的には永遠に)閉じると同時に、ホルンのオーケストラにおける将来の姿をみていたかのようです。
さて、今回のプログラムを見て、面白い着眼点とは何でしょうか。素直な感覚では、パパの曲は半世紀ほど古臭く響く。が、驚くべきことに作曲順で見れば、K551が最も古い曲であり、次いで序曲、ロンドンが最も新しい曲という事実。しかし、それも曲がそれぞれいかなる聴衆へ向けての音楽かと考えると、序曲は古式の宮廷関係者であり、ロンドンは往時英国聴衆向きであり、K551は謎だが、ひょっとして全人類向けのglobalな音楽と見れば、この時代、対象聴衆の拡大こそが、曲の進化、先進性を示すのではないか。てなことが本来優先度がより高いかもしれません。
しかし、この2005年演奏会において、内輪のことを優先して言及することをご容赦ください。それは、今回がメロス発足より10年の記念でありかつ、初心に帰って第1回の演奏会と同じ神童のK551交響曲をメインとしていることによります。メロスが発足した1995年、年明けから阪神大震災があり、青島・ノックが相次いで都府知事となる驚愕の年でありました。それから10年を経てこのシーズンが他の点でいかなる驚くべき年であったか、といえば、皆さんは何を列挙されるでしょう。極私的にはメロスのこの10年の地道ながら確実な成長、また音楽家中田延亮の進歩は、発足時を知る私からすれば何よりの驚きという話も大いにありますが・・・。例えば、五輪選手団の活躍、プロ野球騒動、種々の自然災害、大統領選、等々。中でも私は圧倒的に、IchiroとGodzilla Matsuiの活躍に一票投じます。何故ならば、何でもありの1995年当時にあっても、10年後、大リーグにおける歴代最多年間安打記録保持者とあのヤンキースの4番打者が双方日本人であると、果たして誰が予想しえたか。否ですよね。前記の2つの横文字日本名はおそらく、圧倒的に世界を震撼させたtsunamiの襲来無かりせば、最も世界を席巻した今シーズンの世界的和語となったはずでしょう。
この神童とパパの最後の交響曲が覇を競う今日のプログラムを見たとき、ふと、Ichiroと神童の、Matsuiとパパの対称を見つけてしまうのは僕だけでしょうか。シーズン半ばからチームの低迷を見るや、自らの記録追及を公言した天才肌の自己追及型。常にチームの核としての自分を意識し、優等生のプレイと発言・コメントで全方位に配慮を欠かさない調整型。結果は片や大リーグ記録更新を成し遂げ、こなたはリーグ優勝に球団を導く直前までの活躍をしている。(ヤンキースが優勝に届かず本当に残念)いずれにしても球団の収益という意味においては2名とも自らのなすべき理想的な方策を採ったと評価できるわけであり、両者の好き嫌い、ないしどちらをより評価するかは個人的趣味の域になるでしょう。皆さんはイチロー派、松井派どちらでしょう。しかし、この2名の日本人の活躍についてのコメントを是非にも聞きたかったグールド師匠はもうこの世にありません。といってもグレンではありませんよ。彼は日本をこよなく愛したハーバード大教授。大リーグとトランプゲーム、モーツァルトを筆頭にクラシック音楽を趣味とした古生物学者でした。バッハとモーツァルトの作品への著作物すら有する彼は、進化=進歩・発展という古典的進化論図式に強固に反対し、断続均衡説という専門論文外にpopular scienceの名著を多数世に送り出します。彼のある著書について彼自身、進化という一大自然叙事詩を4幕とエピローグ付オペラのように書いた、と公言する教授は、巻貝の解剖学的形態という極微細世界の専門的研究から最も広大な生物学の骨格である進化論の論客としてダーウィン修正論の頂点に立つ人物。生物進化と生態系システム進歩が生物種の発展を意味し、その結果として地上に現れた人間を万物の霊長と呼んでしまうような解釈を、野球界全体の進歩は4割打者を絶滅させたなどのユーモア溢れる論調でいなしてしまう彼は、こんなことも書いているのです。
生物学の白眉はその論理ではなく、生物各種にみられる視覚的機能的美にある。
進化論の骨格にも増して巻貝の微細構造に生物学の白眉をみた教授の視点は必ずしも特殊なものではなく、たとえば水族館の白眉は、大水槽を泳ぐ無数の魚たちの輝きであり、ペンギンの骨格標本ではない(一部の人々を除く)でしょう。では音楽の白眉はどうでしょう。
実は、この教授の一文と非常に似た発言を我らが神童も述べています。どこかで聞いた文句と思った方、そうでない方、後日メロスのHPをご覧ください。このメロスの名の由来となった神童の発言があります。
何故Matsui/Ichiroかですか。Stephen Jay Gould 教授も得意としたK.551のアナグラムです。教授の2周忌に寄せて。
薪傍ご隠居