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第12回演奏会 
 
L.v. ベートーヴェン/
 エグモント序曲 Op.84

1809年、激動の年でありました。前年の有名な公開演奏会の大失敗や楽員による練習ボイコット事件などでウィーンを離れる決心を半ば決めた楽聖は、結局有志の働きかけにより年金と引き換えに留まることと相成るのですが、その矢先に再び音楽の都はフランス軍の占領下となり、師のパパ・ハイドンが死去します。その直後に劇場支配人から要請のあったゲーテの戯曲"エグモント"に作曲する契約に同意します。翌年、シューマンとショパンの生まれたこの年、作品は完成され初演されますが、戦時下のためか演奏会の成否などは伝わっておりません。実在のエフモント伯に由来するオランダのスペイン占領下での悲劇ですが、楽聖にとっては長らく憧れ尊敬した大文豪ゲーテの作品への接近という意味がより正確であろうこの序曲、あまりに有名ですので4部形式で云々の解説は省略させていただきます。
むしろメロス的に興味深い事といえば、冒頭のF(ファ)のユニゾンの響き、これに尽きるのではないでしょうか。皆さんは冒頭オーケストラ全奏でホールを満たすファの音のみのこの響きをいかに聞かれるでしょうか。ただのファの音だよ派から、ヘ短調の悲劇の幕開きの音にしか聞こえない派まで分かれるのでしょうが、しかし何度聞いてもこのヘ音の管弦楽の咆哮はどこか悲劇色を帯びるように思えてなりません。かのストラヴィンスキー御大は、それこそ楽聖の管弦楽法の驚異的能力と賞賛しました。私はどちらかといえばF音の特色、頻用されるニ短調の短3度音でありかつ極めて稀なる嬰ハ長調の長3度音で平均律的には同じ音であるから、やはりニ短調寄りに響くと考えておりました。楽聖の音法畏るべしと。しかし最近ホルン8重奏などで耳にすると、やはりただのへ音。楽聖や御大の作曲解析力にはただ脱帽するばかりです。

W.A. モーツァルト/
 交響曲第38番 ニ長調 「プラハ」 K.504

1720年モーツァルトは南ドイツの自由都市アウグスブルグに生まれます。世評によれば彼は有能な製本職人の息子にして幼時より優駿誉れ高く勤勉実直。そんな北ドイツ的職人気質を有する彼は一方で南ドイツを超えてさらに開放的なイタリア音楽とその作曲法またその権化であるヴァイオリンという楽器に惚れ込みます。18歳にして当時ドイツのローマと称されたザルツブルグへ単身乗り込んだ彼は、名目上哲学法律学を志しザルツブルグ大学の門をくぐるものの、その卓越し後に教本を記すこととなるヴァイオリン技術と作曲技術において頭角を現し名門貴族の楽師に登用、程なく24歳で宮廷音楽家にと卓越した音楽職人としての立身出世に邁進します。そんな彼が28歳にして結婚する相手としたのは宗教都市から東に10kmほどのウォルフガング湖の畔サンクトキルゲンの地方官吏ペルトゥル家の育ちの良い田舎娘アンナ・マリア、庶民的かつ陽気なイタリア的良妻賢母の女性でありました。当然のように二人は万人認める幸福な夫婦でしたが、唯一子供に関しては第3子の長女ナンネルを除いた5子を生後間もなくの病気で亡くす不幸が続きました。X連鎖伴性遺伝などの知識のない当時、敬虔なキリスト教徒の苦悩は想像に余ります。ようやく難産の末授かった7番目の子である男児の命名にはその祈るような思いが伝わります。母親の成長を常に静かに美しく見守った湖の名と神に愛されますことをという祈りの名(Johannes Chrysostomus) Wolfgangus Theophilus Mozartを拝命された子が1756年1月27日この世に生を授かりました。後に希→伊翻訳されアマデオ(神に愛された)と呼ばれることになる神童の父親となることそして、奇しくも同じ年に彼が生み出した『ヴァイオリン教程』が彼の後の人生にこれほどの決定的な転機となることは誰も予想できなかったでしょう。

一貫してアマデウス・モーツァルトを神童と記述するこのnoteに於いて、わざわざ父のレオポルトを敢えてモーツァルトと記述する天邪鬼を勘弁ください。
2006年1月27日、皆さんは何をして過ごされたでしょうか。古典音楽愛好家にとって不可避の存在である神童の250年生誕際である本年のメロス演奏会にて上梓されたこのニ長調プラハ交響曲に関してのnoteには、プログラム前半のメイン曲の扱いをお許しください。
満を持して今回申し上げたいこととは、神童の才能はもとよりまったく疑問のないことなのですが、世の耳目は神童のcharacterに集まり、その分析は枚挙に暇がないのですが、彼のtemperament(気質)に関しての世の記述と分析は貧弱な印象があることに一石を投じたい、なぜならこのプラハ交響曲という偉大な作品にもその影響ありと考えるからです。
ご存知のとおりこの作品は後のハ長調ジュピター交響曲の鋳型とも言えるような、主題構成・対位法的フゲットなど高度に構成された第1楽章に対し、プラハ初演への間に合わせでやっつけ仕事のメヌエットを欠いた3楽章構成で、むしろオペラ的主題が多用された娯楽的作品などと表現する音楽グルマン達の評価にさらされる作品であり、後期3大交響曲とは一線を画されるそうなのですが、それでいいのでしょうか。
敢えてこうしましょう。どうぞ、一線を画しなさいと。なぜなら、この曲は彼らの偏愛する古典−ロマン派交響曲の真の黎明の一端ではなく、それまでのシンフォニアを総括する史上最高峰の作品なのだからと。
イタリアはミラノのサンマルティーニがオペラ序曲からシンフォニアを独立させ、交響作品としての交響曲を世に広めることに初めて成功した時から、本来シンフォニアとはイタリアに起源のあるものです。そこにメヌエットというフランス原産の舞曲を加え、後にベルリオーズの管弦楽法に集大成される20代の神童を感嘆せしめた管弦楽的色彩の先駆的業績でシンフォニアのメッカはパリに移りますが、その流れで出遅れたドイツがしかし現代は交響曲形式の玉座に鎮座しているのは何故なのか。興味はつきません。
この曲が初演される状況は確かにプラハでのフィガロの大成功に際して神童が凱旋表敬する手土産なのですが、その作曲動機には以下の点が非常に重要でありましょう。

  • 神童は作品の投資先を貴族階級から市民階級に移行する可能性を考えたこと。
  • 当時、交響曲は演奏会において必ずしも連続して演奏されず、人気の歌手のオペラアリアをメインにその前奏、休憩曲として切れ切れに演奏されていたこと。
  • 交響曲自体が、逆に見ればオペラ序曲やアリアなどの作曲能力を示す短い名刺代わりとして機能した可能性すらあること。

そうした視点で見直してみるとこの曲に下記のような評価も可能でありましょう。
1楽章の完璧性はもとより、2楽章はテンポにより舞曲風にも、アリア的にも解釈できるだろうし、3楽章は最大の自由性を最小の負荷で、すなわちテンポや繰り返しの扱いにより4分弱から10分近くの調整も容易に出来、終幕の時間を気にする聴衆を配慮する興行主や演者への名刺としても優れたものではないでしょうか。

この曲にはイタリア的オペラ的性格の影に、舞台芸術職人気質の配慮を欠かさない一面を有している。これ即ちモーツァルトの性格と気質を代弁するものではないかと。
とすれば外面上優れた名刺である本作が、さらに深読みすれば、内面的には急速に加齢衰弱していく父モーツァルトに対して贈られた、父親が憧憬してやまないイタリア的音楽の集大成としての神童の手によるイタリア的シンフォニアの卒業作品なのではないかという見方は大げさに過ぎるでしょうか。本作初演の4ヵ月後にモーツァルトは永眠し、神童は以後3楽章交響曲を記さず、また以前紹介した神童のニ長調交響曲に於ける謎の古典的傾向(3楽章構成が優位にニ長調作品に多い)という特殊性などはいずれもたまたま偶然なのでしょうか。さらに視点を変えれば、独墺的交響曲群はともあれ、この作品以上のイタリア的シンフォニアはこの作以降出現したでしょうか。とすれば先の交響曲の玉座の交代はこのような神童による過去の作品の集大成に端緒を発するとすら思えませんでしょうか。
本日は皆様是非、楽聖の前菜ではなく、この史上最高峰の作品を神童生誕四半千年紀にお楽しみください。

L.v. ベートーヴェン/
 交響曲第4番 変ロ長調 Op.60

1806年、いわゆる傑作の森前半期の作である本変ロ長調交響曲は、ラズモフスキーQt.3曲とヴァイオリン協奏曲などとほぼ同時期に作曲され、これらに前後を挟まれて出版された作品。昨年心血を注いだ初のオペラ作品フィデリオが興行的に大失敗し(初演当時はウィーン自体がフランス軍占領下にあり、客にいつもの高感度の貴族や一般聴衆がほとんどおらず、フランス兵士にうめつくされていては当然であるとしても)知己には改作を強く示唆されるなど、この時期の楽聖には珍しい挫折体験ではあるものの、本来得意とする純音楽に還っての筆の冴えは留まることを知らず、数々の名作が送り出される。
変ロ長調交響曲は彼の偶数交響曲ならではの優雅さと暖かさを備え、テレーゼとの幸せな恋愛を髣髴とさせる陽気な気分に満ちている。かのシューマンはこの曲を二人の巨人に守られたギリシャの乙女のような作品とも賞賛している。

と、私は数十年前にそう読まされた記憶があるのですが、最近の論調もこのようなものなのでしょうか。ルートヴィヒのニ長調交響曲2楽章冒頭くらいならまだしも、この交響曲に楽聖の恋愛を見る輩という人々は、はて、手編みのセーターをプレゼントして或は恋人を想う連作七言律詩集を贈って感激されるどころかドン引きされてしまったというような経験すらしたことがないのでしょうか。ピアノにおける弟子の女性に練習曲として送る小品と交響曲の大伽藍を同等に扱う神経はいかがなものかと常々想うのは私だけでしょうか。
本来変ロ長調という気の置けないアンサンブル曲などで多用される調性は、シューベルトの5番交響曲のごとく攻撃性に縁遠い印象なのですが、何故か、楽聖はこの変ロ長調で本日のOp60、ハンマークラヴィーアソナタop106、op130SQなど問題作、大作、難曲を人生の節目節目で書く傾向があり、興味をそそられます。このような見地は聞き手の立場というよりは奏者の立場に近いことはまず申し述べておくべきでありましょう。いわゆる演奏困難な曲という特殊な状況についてです。
後年他の作曲家の作品に乱発された演奏不能のレッテルと異なり、楽聖の演奏困難というのは耳の機能低下と不確かなメトロノーム表示の問題として処理されることが多い印象があり、この曲も例外ではありません。
しかし、それ以外にも楽聖はこの曲の中に様々な意図的困難性を配置しているように思えてなりません。たとえるに1楽章の長大な抑圧的序奏やら再現部前の異様な転調、変ロ長調から最も遠いロ長調を配したり、2楽章では管楽器に突然高い音をpp で要求したり弦楽器には常に律動的な音符を要求し、3楽章は前編これアルペジオの練習にして高尚なスケルツォ!、そして4楽章に至っては、どう考えても早いテンポを要求される音楽にわざわざ早すぎるなと指定をし、メトロノーム値は演奏不可能なほど早い。これらは何を意味するのでしょう。

個人的に楽聖のデモクラシーへの傾倒に興味のある私としては、いくつかの要因の中でも、貴族社会の崩壊とともに出現した、音楽における奏者・楽団員と称する第3権力の出現への楽聖の反応と見れば面白いと思えるのです。
パパの当時は考えられなかった作曲家がパトロン以外の意向に従うということが、楽聖の時代になり、決して特殊な事情でなくなります。さらに現代ではまず第一に奏者という厄介な批評家が台頭し、まず作曲家は聴衆に受け入れられるかの前に、奏者を強く納得させる技量が要求されます。
これをポジティブに解釈すれば、神童が演奏におけるアマチュアリズムを嫌ったことと同値となり、神童の曲を自然体で優秀なプロとして演奏すればより豊饒な音楽になるわけですが、楽聖のこの曲は優秀なプロとして演奏しなければ形にならないという圧力、むしろこの作品程度を楽に演奏してしかるべきというような、奏者に対する十字架を与える印象があるのは私だけではないと推察します。

これはしかしながらこの時代において例えばエロイカ交響曲などを世に送った前衛的芸術家であれば必ず直面する問題のようにも思えます。昨今の音楽界でも若くして独創的な解釈をする音楽家ほど(私はcrazyかもしれないがstupidではない)などと自己弁護する場面を見かけます。楽聖が放ったこの交響曲というのはそのような言語で通常処理されるものが形になったのではないかと想うのです。実際この1810年前後において、ちょうど10年前にルートヴィヒの変ロ長調ピアノ協奏曲が果たしたように、この変ロ長調交響曲も当時の神童のリバイバルブーム下の聴衆には受け入れやすく、楽聖の演奏会で頻繁に取り上げられたと記録されています。その影で当時の奏者達は・・・。

さて、昨今の情勢のなかで、本論と同調する話題はないかとあきらめかけたところでしたが、オリンピックに面白い着眼点がありました。件の冬季五輪日本惨敗と報じられる件についてです。私はヤワラちゃんの金メダルより判定負けした篠原の銀メダルにより価値を感じる(どちらも大変貴重なものですが)変人だと断った上で、以下のような対比はどうでしょう。金メダル一つと大敗した日本でしたが、そのメダルが斜陽であったスケート界にもたらされたこと、そしてお家芸であるはずの日の丸スキー陣の苦悩は、たるんどるの一言ですます御仁もありましょうが、じつはその高コストの冬季スポーツ陣をささえた雪印や拓銀といったパトロンの相次ぐ崩壊が選手強化に大きな影を落としたことはあまり知られていないでしょう。神童と楽聖のprofessionalismに対するアプローチは、ある意味において、自己変革のメダリストの美しさと、200gの体重不足を理由に後進に機会を与えた老練な策略家が発した処方面への圧力との対比に私には重なってなりません。(でもあの人がやると天然ボケにしか見えない気もしますね。)皆さんはどうお考えになりますか。

モーツァルト年に地味に出版されたベルリオーズ/シュトラウスの管弦楽法完全邦訳。その労をなした諸氏に感謝しつつ。

薪傍ご隠居
 
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