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第13回演奏会 
 
L.v. ベートーヴェン/
 コリオラン序曲 Op.62

何と素晴らしいプログラムだろう。そんな書き出しの演目ノートがあっていいかどうか大いに悩みましたが、初志貫徹、この文を残すことにしました。ということで、この序曲に対し、何歳の楽聖が何某の悲劇に感銘し云々の筋に序曲を献呈などの駄文は皆さんほぼ既にご存知のことあるいは最良の音楽体験に無用のものとして一切排除いたします。 弦によるハ音に顕れるものを、全楽団がヘ短調で打ち砕く冒頭に始まり、約200秒後、丁度150小節後、再現部でありながらへ音に託されたそのものは必然的にしかし事もあろうに変ロ短調によって打ち砕かれる。主にヘ短調の再現部は音楽的(この解説にて偏重する調性的も含め)内的葛藤を露にしつつ、冒頭のハ短調への終幕へ進み、チェロが啓示する第一主題の断片を最後に曲は弦楽のハ音の切れ端のみによる静かな終幕を迎える。

それがどうしたわけがわからん。いや、ごもっともでございます。
しかし、ホールという特殊空間でのコンサートにおいて、例えば家庭での音楽鑑賞と比しての我々の覚知する(意識無意識は別として)最大の変化は静寂であります。この静寂は例えるならば演奏の邪魔をする生活音を排除できることであり、一応壁らしきもので隔てられたアパルトマンの隣家から漏れるムード歌謡漫談の歪んだハ短調と隣人の笑声が我が愛すべき変ロ長調の交響曲の合間の静寂をぶち壊す悲劇との隔絶の安心感に我々は高額の入場代金の対価を見出すことに異論のある方は少ないと信じます。
話は戻りますが、ヘ短調の再現部を誘導する移行部においてト短調が多くの役割を持つことや、前述のチェロによる啓示がEs-D-Asで締めくくられるに至れば、次の演目は、Es-D-Bbの主題に始まるト短調交響曲であり、メインがヘ長調交響曲である音楽会を聞く我々にとって、このような一貫した調性感で進行するプログラムこそ本来の曲の性質を堪能できる最良の選曲と信じます。是非ご堪能ください。

W.A. モーツァルト/
 交響曲第40番 ト短調 K.550

モーツァルトの悲しみは疾走する。涙は追いつけない。©小林秀雄

皆さんはこの呪縛から自由に解き放たれているでしょうか。あるいは呪縛ではなくそれが真実とお感じになるでしょうか。結論としてはどちらでも良い、しかし両者が混在し、相互に否定しないことが理想であるとして納得いただけるか、自身の無いところです。
私自身はこの際どうでもよいのですが、この曲が悲しみを主題とすると悟れたことは未だありません。さりとて、後述のとおり愉悦に満ちたしかし取るに足らない小品とのロマン派的解釈には大反対でもあります。
このそもそもト短調交響曲と呼ばれること自体に違和感のある本作品(安定したト短調にあるのは全体の何分の一でしょう?)、この曲は何にして偉大であり何にして過小評価されてきたのかに興味があります。このK.550という難曲、歴史的に如何に判断されたのでしょう。神童自体はこの曲に対し何のコメントも残しておらず、向後木管編成の改作などでなされた記述の発見が待たれるところですが、期待薄というところでしょうか。
ものの本によれば、初演近辺の聴衆の反応は現代の多数派同様悲劇哀愁を軸とした受け止め方をしていたようなのですが、その方向に変異が生じたのが、ベルリオーズ・シューマンという作曲家としてかつ文筆活動にても著名な音楽史上の巨人達とその周辺に凡作とされ評価を下げた結果、前述のようなロマン派解釈が台頭することになったとされるそうです。
底意地の悪い視点とすれば、冒頭前述のEs-D-Bbのメロディーラインも、短2度下降と短6度上昇の組み合わせ、しかもその頂点がト短調の第3音であるBbに置かれており、あまりにもあこぎで見え見えの西洋ド演歌調で、真の悲しみの表現というより悲劇の風刺ではないかというような、ベルリオーズ的解釈も音楽偏差値の高い歴々にはあるのかもしれません。確かにブラームスは第4ホ短調交響曲1楽章冒頭にhGECと短6度上昇をよりさりげない形で使用し独特の表現を成し遂げているわけです。
神童自身、最も沈鬱な調と称したト短調。その全体の概説は手に余るところですが、この曲の独特の存在感はむしろト短調に耽溺するのではなく、1・4楽章を中心に、むしろありとあらゆる調性への移行・展開・発展・跳躍を時には嬰ヘ短調!までもを試み、その前衛性に比してむしろ透明性・軋み濁りのなさ故か大衆向け凡作と解釈される矛盾をはらみつつ、澱みない音楽が流れていく他に類曲を見ない不可思議。
そういった唯一無二性について、このような仮説はどうでしょう。この曲が示しているのは、孤高というもの。あるいは最も洗練された抜群の能力ゆえの孤独の表現。さすれば、ベルリオーズ・シューマンといった、過剰な孤独型天才がこの曲をば過小評価し、孤独に哀愁を湛える常人が悲哀へのカタルシスの糧となし、孤独を自己愛と自己満足にすり替えかねない困った中心気質者達が、この曲を過剰過大に喧伝することの理由は多少の客観的説明がなしえて、ないですかね。

L.v. ベートーヴェン/
 交響曲第8番 ヘ長調 Op.93

さて、交響曲第8番の登場です。ある意味でもっとも解釈と評価の分かれた楽聖の交響曲。音楽家・音楽評論家の既成の著述が百禍繚乱・混沌としているのは世の常としても、かの大指揮者・研究家ワインガルトナーが最も議論の余地が無い(悪名高いテンポ設定をのぞけば)完成度の高い曲と評して以来、批判されることの少ない曲でありながら、楽聖本人が、自信作であるのに世の評判が芳しくないと述べたあたりにその核心があるかもしれません。
この交響曲は、古典回帰傾向などとされる諸相が有名ですが、むしろ個人的には、最後の長調交響曲であり、それと関係して2度目のへ長調交響曲であること。さらに第4楽章の主題の特殊さの方が興味深いのです。ベートーヴェンは第5番以外のそれまでの6つの長調交響曲を(第2回の解説でも書きましたが)ハ、ニ、変ホ、ヘ、イ、変ロ、とト長調以外の主だった調で各々1曲を書いているのです。そこにハイドン師匠ばりのこの曲ですから、なんでト長調にしなかったのでしょう。ティンパニを1オクターブで鳴らしたかったが、ソーソの調律が当時の楽器では出来ないため、1音低い調で妥協したといった話を聞いたことがありますが、確証の記述は得られませんでした。しかもそれならば、なんで現代の楽器でト長調版演奏の試みが世界的にないのでしょうか。

第4楽章の冒頭にヴァイオリンと一部ヴィオラで演奏される主題の特殊さ、とはなんでしょうか。本当は種明かしを演奏前にするのは反則なのかもしれませんが、あのトレモロのような細かい音符は実は6連符(正確には4分音符への3連符2つ)なんです。恥ずかしながら、私も楽譜を見るまでは分かりませんでした。これは楽聖が書いた交響曲のなかで、唯一の例外です。つまり、管楽器には早すぎて弦楽器にしか演奏できない主題、しかも現実的には非常識な遅いテンポをとらない限り、弦楽器セクションとして正確に演奏することが出来ない。このような主題を楽聖が交響曲に採用した例は、この楽章にしかありません。

さてここで、少し算数的議論になるのをご勘弁ください。
この6連符は楽聖の指定では全音符=84(=1小節)なのですから、1小節で0.714秒さらにその1/12の一音符分の与えられた時間はわずか0.059秒しかありません。それがどうしたと思われるでしょうが、この0.06秒という時間を熟考するとき、オーケストラのある種の存在矛盾のようなものが出現するというのは過言でしょうか。
すなわちこれはわれらが音速の空気中での極めてつきの遅さの問題でもあります。
音速はご存知のとおり約時速1200km、秒速で330m程度のものです。よく考えると地球の自転は赤道上では一日40000kmですから時速1600km以上。それよりだいぶ遅いわけです。
この遅い遅い音速も今頃の季節ですと花火の光と音の乖離などで風流に解釈されたり、雷と自分の距離の推定に利便性があったり、決して不都合なものではないでしょう。
一方大規模楽団にとっての音速の遅さとはいかなるインパクトをもたらすか、既存の文献に記述があまり無いのが残念です。
0.06秒で音が進む距離はわずか20m。この距離は音響ないし音楽知覚・認知的に無視できる距離でしょうか。否ですね。例えばそう広くないウィーン楽友協会大ホールでも下手Vlの最後列と上手violaの最後列の間に15m程度の距離が発生します。この状況下では上手の最前列上席のお偉方には、この6連符は5m離れたヴィオラ最後列と16m先の1stvl最後列の直接音は実に記譜の半音符分ずれることになります。(これは勿論無限遠の仮想客席に向けて楽団が点音源となり、一つの音塊を形成すべく全奏者が同時に音を出した場合)勿論完全主義の指揮者に理想的定位となるためには、奏者は指揮者から1mはなれるごとに330分の1秒ほど早く演奏する必要が出ますが、10m先の奏者は1/33秒ほど早く1/17(=0.059)秒ごとに繰り出す音符を調節せねばなりませんが、無限遠の聴衆にはこれは先の例同様、実に音符半分のずれと知覚されるはずです。
このことは、室内オケ派には非常に心地よい結論かもしれませんが、楽聖自身がこの曲の演奏に対して、パトロン前の試演で弦楽器10人程度の小編成で演奏させたものの、公開初演での編成には弦楽だけで60人近くの現代オケもびっくりの大編成を要求している点も見逃せません。
楽聖がこの音符はすなわち大楽団にとって、すべての座席の観客に正しい演奏を聞かせられない確信犯的な意図を持って作曲したのを疑う理由こそが発見困難でしょう。どうでしょうか、これでもホールの全聴衆への正確な演奏が可能な曲と皆さんは判断されますか。

さて、このような難儀な曲をメロスはジュピターなどと並んで2回目の演奏を行います。
しかも神童の大ト短調交響曲、両曲の調性進行をなぞる、コリオラン序曲とともに。調性感上かつテーマ上も素晴らしい選曲であり、次の演奏会の選曲を見据えた意図を感じさせる本来はそちらの解説を中心とすべきかもしれません。

一方で、千の風のハ長調が吹き荒れた昨今の音楽界において、今回の選曲はいずれも風が逆風であるような印象を受けませんでしょうか。序曲は言うに及ばず、K550においては、平行長調である変ロ長調へ抱かれんとするも成功せず、さりとてBbの音符をhに転じて同主調のト長調への安易な解決を拒み、紆余曲折の末ト短調の終局を受け入れる4楽章反復前後の有名かつ秀逸な処理であったり、楽聖の作品に置けるあまたの意図的な不自然な主題処理であったり、いずれも安易な風へのアンチテーゼと解釈するのもまた一興ではないでしょうか。
不自然な主題処理とは以下のようなものです。第1楽章のヘ長調冒頭主題が突然寸断され(Bb音で!)、第2楽章はメトロノームの安定と64分音符の痙攣、第3楽章はラッパ・低弦などの変な合いの手が入り、第4楽章の喧騒、すなわち6連符の弦と3連符の管が相譲らず、楽章も後半になってから基礎練習を始めてまで6連符の正確な演奏にこだわる弦楽器と、演奏可能な3連符にしろよとなだめる管楽器は、終わり間際の438小節目で歩み寄るかに見えましたが、4小節後には決裂して、さらに中間派のティンパニが4連符で割り込んで滅茶苦茶となった後、無理矢理のように訪れる終局。
ある一個人の心の中において千の風は心地よく吹き渡るにせよ、時々辟易させられるのは、例えば神童のk.550交響曲をリバイバルした巨匠作曲家個人の価値はともかく、その政治的言動が今も−ネリアンなどと称する人々の手によって千万の風となってどこかのホールでブーイングを鳴り響かせるような事態をみるに故人の意思の風なんぞ吹いてどうなると言ったらまた敵を増やしてしまうでしょうか。
時に政党を震撼させ、無用の訴訟を起こさせ、メディア批判レベルを下げ、戦争すら起こさせる。
防衛大臣の失言への風はすぐ起こるのに、核保有国謹製の<The Sun is burning.>以上の反核歌を子供たちに教えられないこの国と今の状況を憂うる一音楽好きとしては、少なくとも神童と楽聖が多くの音楽愛好家にとって巨大で尊ぶべき存在であることの大いなる理由の一つが、彼らの音楽に風の後押しが不要なことであり続けることを祈ってやみません。

中心気質論と疾走するファントム空間論の愉悦にふれて5周年のある一日に。

安永がウォーコップを越える日を楽しみにしつつ。

薪傍ご隠居
 
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