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特別演奏会 
 
L.v. ベートーヴェン/
 交響曲第9番ニ短調 Op.125

Das Abenteuer eines Zuschauers (Adventure of a bystander) ニ短調交響曲に寄せて

(ベートーヴェンの)第9交響曲について議論することは、最も偉大でありもっとも難しい管弦楽作品に近づくことを意味しているのである。Felix Weigartner/糸賀 英憲 訳

メロスフィルというアマチュア小編成オーケストラの演奏会のプログラムノートを、ワインガルトナー教授の引用をすることにノート書きという傍観者の迷走を感じられる方、正解です。何故なら彼は、この曲には強力な弦楽セクションと倍加された管楽器などを用意できない団体はこの曲を演奏すべきでないと述べた人物。第2次大戦中に天寿を全うし、あのリストに直接師事した一世紀前の指揮者であり上記はその20世紀初頭の著作引用ですから。しかし、彼は同じモノグラフの中で、以下の発言もしているのです。

毎年たびたびよくない演奏で聞くよりは、10年に一度よい演奏で聞いたほうがはるかに有意義なのである。

今回の演奏会が、すべての皆さんの期待する良い演奏であることを保証するものは何もありませんが、我々メロスと中田延亮が目指したこの10余年の総決算が本日結実します。是非お楽しみください。

第一楽章は有名なイ・ホ音のみによる空虚イ調(長調短調が明確化しない)により開始され、第8交響曲において道化役であった32部音符がニ短調の決然たる主題として現れ、楽章全体の緊張を保ち、一方第二主題は変ロ長調かつ8分音符にアクセントが付けられたソナタ形式上予想を裏切る構成となり、これらが伝統的単純な反復なしで後の巨大交響曲作曲家に引き継がれるオスティナート付き終結部に至る1/4時間の巨大なソナタ。このようなクールな分析の一方、共和主義の迷走による恐怖政治(テロリズムの語源であることをご存じの方も多いでしょう。)やナポレオンなどによる繰り返される戦争など、狭い欧州のみで二百万人以上の戦死者を計上した往時の世相を反映した戦時心理の音楽の最高傑作とも評価され、第2次大戦でも軍のfilmなどで多用される経歴を有する。
第2楽章はベートーヴェンの交響曲を性格付けるスケルツォ楽章。二長調のトリオを有するソナタ形式。通常の緩徐楽章を予想した聴衆を冒頭の動機が不意打ちする。特にティンパニのへ音オクターブがニ短調短3度へ音をsfで提示し、第8交響曲終楽章と同じ調律ながら全く異なる用法でこの楽章が単なる諧謔音楽から隔たった存在であることを示す。トリオは第4楽章主題を彷彿とさせ、終楽章がとってつけのアイデアでない証左となる。一方、圧政・戦後貧困・自由の制限などの拘束・抑圧の音楽的表現の極北との評価も面白い。
第3楽章は変奏曲・ロンド形式・展開部なしのソナタといずれの形式とも解釈できる緩徐楽章。1楽章第2主題の調性に始まる冒頭のアダージョと二長調アンダンテの織りなす変奏が16部音符を含む運動性・自由なテンポ・調性的飛躍を含め2楽章と対をなす癒し効果抜群の名曲。前記大指揮者が<すべての交響曲の緩徐楽章の中で最も美しくも深遠な><ベートーヴェンの耳の障害が交響曲のあちこちにその無残な痕跡を示すにかかわらず、この楽章において奇跡のように完璧な管弦楽法を作り上げたことは、時代を問わず我々をして新たな驚異と賛嘆の念をもってこの唯一の天才を仰ぎ見させる>この曲全体の白眉として称した楽章。
第4楽章 この交響曲の性格を決定せしめる長大な合唱付き変奏曲。<驚愕のファンファーレ>(ワーグナーの命名)に次ぐレシタティーボが、それまでの3楽章の楽想を否定し、新たな主題を誘導せしめ、管弦楽による大団円の予感が再びの驚愕で破られると、楽聖自身の詞による否定内容の開示がバリトン独唱によりなされ、4声独唱の精密な楽想と合唱大声部の効果によって交響曲主題とシラーの謳歌が二長調と変ロ長調を中心に祝祭的に発展され、有節歌曲・4部構成拡大ソナタ・主題変奏様式混合など、それぞれ大バッハのバロック・古典・浪漫期以降の流行形式の混合する人類全体の謳歌として圧倒的終曲に至る。

この曲の存在感は、この10倍もの言論を引用しようとも説明は不可能でしょう。
しかし、ここで伝統的によく論述される、この交響曲の認知史やシラー原詩の楽聖による自由な編集のトリビア、そして政治・戦争・偏奇な思想の結託のような不幸なこの曲の演奏史は、丁度似たようなオリンピアード-オリンピック史の垂れ流しに辟易する昨今、由緒正しい評論家諸氏の記述にお任せしたいと思います。

この曲を巡るエニグマの最たるものは上記ではなく、こうではないでしょうか。独逸の一音楽家が弐世紀前に発信した非世界言語音楽が(どなたかドイツ語ポップスの名曲を今歌えますか?)、約200年間世界中で人類賛歌として受け入れられ、また独逸語を主要言語としない、我らが極東の島国において年末を中心に数百もの演奏会でほぼ満員の聴衆のもとにこの合唱が感動的に演ぜられる、この不可思議な現象を如何に認識すればよいのか。皆さんは何か納得のいく分析をご存知でしょうか。

一つの非常に簡便な方法論があります。このシラー/ベートーヴェンのドイツ語歌詞に不慣れな者ども、つまり、あくまで合唱は天や神の声であり意味は問う必要はないと割り切れる人々こそが、この作品の神の声を聞くもっとも良い聴衆なのである。このような実にクールな、現在であればアディエマスの作品群やらアニメにて野菜の妖精の話す喃語のような効果の先取りとして分析する悪魔の囁きはとても魅力的に思えます。確かにこの曲の理想の邦訳を誰ぞ天才がなしえたとして、人類みな兄弟、と高らかに母国語で謳われる第9演奏会に果たして皆さん好んで足を運ぶでしょうか。

現代の音楽、たとえばストラビンスキーやメシアン、ブーレーズなどすら多少古びた御大と考えるコンテンポラリーな少数派の人々には(芥川賞と聞いて現代音楽のコンクールを何割の日本人が想定できるでしょう)このベートーヴェンの交響曲は特にその終楽章は古臭い、大衆受け狙いの、楽聖のそれまでの業績を自己否定するようなものだ。という論調も古くはシュポーアから若き岩城宏之氏に至るまでありなのでしょう。
初演当時ですら、大衆の代弁者と自認する評論家集などが、3楽章までの楽聖作品を称賛する一方、終楽章を妥協と迎合の産物と見る批判を初演後間もなくから展開しているのは興味深いですね。有名なものでは、4楽章を2番交響曲の終楽章と取り換えれば最高の作品である。なんてな妄言が有名です。

しかし、現代において、この曲から終楽章を除いた演奏会を行ったとして、誰が喜んで参加するでしょう。僕自身合唱・独唱の手配のいらない、管弦楽のみのニ短調交響曲を生演奏するおそらく crazy なアマチュア楽団がいつ出るか期待しているのですが、今のところ愚かな、あるいは出来すぎた集団はいないようですね。

第4楽章冒頭低弦部が、第一楽章の緊張を、第2楽章の諧謔を、第3楽章の天国的美をそれぞれ楽章の動機を提示させたうえそれぞれ否定するこのプロセスのものは、第8交響曲終楽章中間部において6連譜主題への妥協を否定する低弦の用法を知る我々には特に違和感を感じないのは当然なのでしょう。
しかし、ここで我々はある事を長くそして半意図的に無視していることに気付かされます。即ち、楽聖の3章を否定する4楽章冒頭に突如出現する人格/意思主体は誰であるかということなのです。

明確に3楽章までの純音楽技法上非の打ちどころのない楽聖の音楽的意思を否定する主体を考察するに際し、その彼女か彼かはチェロとコントラバスを代弁者として、前の楽章の完璧な美の結晶を締めくくる変ロ長調を受け継ぐ木管群和音をイ音(1楽章冒頭空虚和声主音ですね)で蹂躙する奇妙なラッパと太鼓のファンファーレに導入され降臨します。なるほど奇妙なファンファーレどころか、これを正に tuba mirum ではないかと解釈すればどうなるでしょう。

5/6、7/8番交響曲、嬰ハ短調/ヘ長調弦楽四重奏のように楽聖は対極的性格の大作を同時期に産する奇癖を持ち、この第9交響曲の兄弟作品はミサ・ソレムニスであることに疑問を呈する向きは皆無でしょう。今を生きる民の champion である楽聖が、レクイエムでなくミサを作曲するのは当然であるとしても、結果として、ミサ曲で外される典礼文の中でも特に最後の審判を扱う続唱(Sequentia)すなわち怒りの日(Dies irae)から涙の日(Lacrimosa)までの死への畏怖を扱う圧倒的テキストへの楽聖の答案が作品として現存しない不幸を悲しむ方は居られませんでしょうか。例えば神童アマデウスをして晩年の二短調レクイエムで作中の頂点を形成する二短調続唱に於いて変ロ長調で提示される tuba mirum を知る我々は、楽聖がレクイエムを創作する際の続唱を想像することが許されるならば、この大二短調交響曲の変ロ長調をかき消さんとする奇妙なイ音 tuba/trombe は、裁かれるすべての物を玉座に集合させ、審判者の出現を高らかに宣言していないでしょうか。この審判者とは?神の意志、聴衆の意思、演奏主体者、ロンドン楽友協会、楽譜出版社、楽聖の幻聴、いずれも抱腹絶倒の解釈につながりそうです。

我々は、意識無意識的に、この審判者を知っているということはないでしょうか。
その彼こそ楽聖に対して傍観者に封じられたルードヴィヒその人以外の何物でもない。

ベートーヴェンという人物像を概観し、こうまとめてみましょう。田舎の音楽エリート一家の傑物として、意気揚揚往時音楽会を席巻した作曲家兼ピアニストであるルートヴィヒは、耳の障害などの挫折を経て、学術論文的現代音楽作曲家の楽聖ベートーヴェンと自らの変容を宣言し、ハイリゲンシュタット誓書/遺言状をもって、自ら原人格を楽聖である自己の傍観者へと封印する。楽聖と化身した彼は後年ゲーテを困惑させる頑迷な言動の増える一方、傑作の森を築きあげる。しかし晩年に向け弟とその息子である2人のカール問題や相次ぐ作品や生活を巡る訴訟など、偏狭な音楽批評家連に楽聖の作曲意欲低下の誘因と片づけられる実務的労苦によって、彼の中にある傍観的ながら実生活者人格はその苦悩と解決への努力により彼本来の高潔・慈愛・堅牢・現実的性質を深めていく。楽聖としての不滅の恋人との邂逅、ゲーテなど並みいる高邁な交際など高められる一方、政治的にブルジョアと遊離し大衆の支持も盤石とはいえない作曲対象への不安、試みの迷走(ウェリントンの勝利の経済的成功と楽聖の堕落という酷評の矛盾など)も続き、さらに自らの健康状態の悪化に苦しめられる。1818年前後、二短調交響曲の作曲が始められ、当初別作品として合唱付き交響曲の作曲意図が初出し、また恩人ルドルフ大公の大司教就任が内示され二長調ミサ・ソレムニスの作曲が開始されるまさにその時代の楽聖をとりまく状況が以上のようなものだとすれば、まさに1-3楽章は、往時の楽聖を取り巻く心理社会状況の見事な表現とも考えられないでしょうか。
それを否定する審判者人格は、だとすれば、楽聖という対社会的鎧を脱ぎ棄て、本来の自らの音楽を作曲する宣言として、苦悩する芸術主体者である楽聖に対して、長く傍観者人格に徹した本来の若きルートヴィヒ以外に誰あろう。

因みにシラーの原詩は、1785年初出し、1803年に再編集発行されるのですが、ルートヴィヒの年譜上でこれらはそれぞれ宮廷オルガニスト就任(楽会デビュー)と誓書をしたためた数か月後であることを皆さんご存じでしょうか。シラーは、若きルートヴィヒと絶妙に時代的に同調しているのです。

4楽章冒頭に於いて木管楽器が提示した二長調の新しい動機をメロスの萌芽として礼賛した審判者が紡いだ4楽章合唱主題という輝かしいメロスは、奇しくもかつ必然的にまるで葬送行進曲の如く開始される。それが純器楽的に対位法的に見事に拡大する中、再び審判者の登場が tuba に示される。そしてその直後に現れるのは低弦ではなくバリトンの司祭。彼が放つ<おお友よ、このような調べではない!>の呼びかけは、シラーの作品に精通した聴衆にとって、全く耳慣れない文言。では誰のテキストか。かの誓書を<おお君ら人々よ!私を正しく理解されていない…>の冒頭文言で吐露したことを知る聴衆は少なくとも初演時には皆無であったとしても、それを知る現代の我々は・・・。

ベートーヴェンという偉大な人格を礼賛するに出現する大いなる疑義、誰が為に彼は崇高な音楽を紡いだか。活動を共感・支持した最大の存在は何か。それこそが不滅の恋人であるが如きご立派な解釈も心に響くでしょう。愛は偉大です。

しかし、偉大な創作の源になる存在とは、神童にとってのダ・ポンテ、シュトラウスにホフマンスタール、安永浩にウォーコップ、山岸涼子に梅原猛、その梅原に上山春平、クラークにキューブリック、タモリに赤塚不二夫(暴走気味ですね)。単なる共同作業者ではない、適切な傍観者なのではないか。

そして、楽聖の傍観者の代表とは、不滅の恋人でもなく、ゲーテでもなく、もう一人の自分ルートヴィヒであり、その存在をもって、楽聖は当時の音楽界と自らの人生を苦難の中で高度に生き切ることに成功したのではないか。それこそが、楽聖ベートーヴェンの存在感の根源であり、我々が彼に今日も傾倒して止まない理由ではないか。

冒頭の note への表題はP.F.ドラッカーの本年再販された名著の書名によるものですが、この傍観者の冒険と直訳される本の本質が著者の半生自伝でありながら、このなかで著者は自らの人生を語らず、祖母や教師、オーストリアの高橋是清まで、自らの人生の関係者を傍観者としての彼自身の視点成長期として述べた独創的著作。未読の方々には note での傍観者の用法は違和感をもたれることをお詫びいたします。
この本の邦訳は<傍観者の時代>。
この意訳にも評価はありましょうが、常に迷走の危険をもつ傍観者である著者自身が、正しい冷徹な分析を続けてきた冒険を自らの半生と定義する重みを失わせました。
かくて常に批判者であるメディアや野党の政策も現代において迷走を極めています。
例えば、資本主義国家で非互換通貨を発行する責任者たる日銀総裁を空位にして対案を渋る党が政権責任政党として如何なものか、しかし対案を出し渋る背景に一方政権交代を狙う野党の対テロ政策対案に徹底的にネガティブキャンペーンをしてしまうメディアの存在も如何なものか。
高度な医療や航空業の判断を素人の警察検察が介入するのも如何か。など、現代における無数の傍観者の暴走迷走の類。評論家・コメンテーターなる迷走を生業とする陳業種の出現。これらにより、航空機衝突防止を機械のみに委ねるべきか、些細な胎盤の癒着をすべて判例により子宮全摘出する手術をするべきか困惑する航空医療現場の実務者たち。

唐突ですが、惜しくも2010年キャンペーンを待たず、今年亡くなられたSF作家クラークがキューブリックを傍観者として1960年代初頭に書き上げた2001年宇宙の旅に対する名作の評価は揺るぎないものの、現代から未来へ宇宙飛行の主体は既に人間でなくコンピュータに代わられ、人類である乗組員はその傍観者として在り、その傍観者の迷走で実務者である意識アルゴリズムを有するコンピュータ人格主体がパラノイアを発病するという基本コンセプトが、宇宙船の内外部映像などよりよほど先進的で現代の病巣の預言と評価する傾向は残念ながら世界的少数派であり、アカデミー賞も主演・助演賞を非人間が受章する勇気を持ち合わせませんでした。

しかし、われらがベートーヴェンは、自らの若き傍観者人格を常に成長させ、晩年のより成長した楽聖としての自らに取り込んだ。その宣言をこの曲に見るとき、我々一人一人が、例えば若きエリートであれ、企業者であれ、単純労働者であれ、子供を持った途端父母の人格を要求され、学校等では悪平等が優先され、馬鹿者もモンスターと敬称を付けざるをえず、子供の幼弱な自我と付き合わざるを得ない。そんな自らの日々の苦悩をこの交響曲が代弁してくれる。悩める自己こそ、神々の麗しき輝きを尊ぶ素晴らしい自己なのだと。さらには、それを無意識にこの曲に感じ、難しくこの曲を解釈せず、単純に楽しめる聴衆こそ、時の流れが強く切り離した社会の実務者にして、音楽の素晴らしい傍観者であり、すべての人々は兄弟となると楽聖・ルートヴィヒ・ベートーヴェンが謳っているのではないでしょうか。

現実に苦悩し、かつその苦悩する自分自身を抱擁できる全ての人々へ。

薪傍ご隠居
 
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