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第15回演奏会 
 
W.A. モーツァルト/歌劇「魔笛」序曲(K.620)
変ホ長調 2分の2拍子 アダージョ−アレグロ

  フリーメイソンをご存知だろうか。一般的に、フリーメイソンとは18世紀にロンドンで組織された国際的友愛団体で、人種、階級、国家を超越し、相愛的な平和人道主義を奉じる、一種のコスモポリタニズム運動であると説明される。しかしその活動の詳細は明らかではなく、ロータリー・クラブやライオンズ・クラブのような結社だと言われることがある一方で、何らかの陰謀を企んでいると噂されることもある(最近は実態がだいぶ明らかになっているようである)。1784年、モーツァルトはこのフリーメイソンに入会した。《魔笛》序曲の冒頭に鳴り響く和音は、フリーメイソンの儀式を象徴しているといわれる。同じような和音は《魔笛》劇中にも2度にわたって登場し、そのたびにザラストロのアリアや僧侶たちの合唱が導かれる。たしかに象徴的な使われ方である。
  《魔笛》は、おそらくフリーメイソン仲間で、現代ならさしづめ辣腕プロデューサーといったところのシカネーダーの依頼により、彼が劇場支配人を務めるヴィーデン劇場のために書かれた。1791年7月には大部分ができあがり、9月28日に序曲が書かれ、その2日後に初演された。初演は大成功で、劇場は熱狂の渦であったという。
  ところが不幸なことに、その頃にはモーツァルトの寿命はほぼ尽きていた。11月には病床についたままになる。12月4日の晩には、モーツァルトは未完のままの《レクイエム》(K.626)を気にかけて、弟子ジュスマイヤーに完成に向けての指示を与えたが、ほどなくして昏睡に陥り、翌日未明に絶命した。1756年1月27日生まれだから享年約35歳10カ月であった。妻コンスタンツェの妹ゾフィーは「その最期は、口で《レクイエム》のティンパニを表わそうとするような様子」だったと記している。
  オペラ《魔笛》の日本初演は1913(大正2)年、帝国劇場での部分上演(ローシー演出、小林愛雄訳)のようである。演奏会形式では1940(昭和15)年に東京音楽学校による公演が、本格舞台上演としては1953(昭和28)年のグルリット・オペラ協会による公演が日本初演とみられる。

W.A. モーツァルト/ピアノ協奏曲第24番(K.491)
第1楽章 ハ短調 4分の3拍子 アレグロ(ソナタ形式)
第2楽章 変ホ長調 2分の2拍子 ラルゲット(ロンド形式)
第3楽章 ハ短調 2分の2拍子 アレグレット(変奏曲形式)

  モーツァルトは1772年8月から、生まれ故郷ザルツブルクの宮廷音楽家として俸給をもらう立場であったが、オペラ劇場がなく、思うような音楽活動ができないこの街に満足できず、1777年8月に辞職して求職の旅に出かけた。ミュンヘンでバイエルン選帝侯マクシミリアン3世ヨーゼフと会見し、マンハイムではプファルツ選帝侯カール・テオドールの前で演奏して気に入られたが、職を得るには至らなかった。目的地パリには1878年3月に到着したが、15年前に初めてパリを訪れた神童アマデウスに対して示されたような歓迎のムードはもはやなかった。さらに悪いことに同行の母アンナ・マリアが7月にパリで客死してしまう。モーツァルトはパリに未練を残しつつも、父レオポルトにせきたてられ帰郷し、ザルツブルク大司教コロレドに復職を嘆願する。復職は1779年1月25日に認められ、約1年10カ月にわたって刺激のないザルツブルクで宮廷音楽家として仕えることになる。
  1781年、大司教コロレドは滞在中のウィーンにモーツァルトを呼び出した。ウィーンに赴いたモーツァルトは、せっかくウィーンにいるのに、自分のしたいような音楽活動をすることが許されないことに不満を募らせる。そして遂に5月、ザルツブルクに帰郷せよという大司教の命令に対して、モーツァルトは猛然と反発して、大司教の下を飛び出したのであった。
  モーツァルトはウィーンで希望に満ちた生活をはじめる。作曲、演奏、ピアノ教師、楽譜の出版などで多忙な毎日を過ごすうち、待望のオペラの仕事が舞い込み、ジングシュピール《後宮からの誘拐》(K.384)として結実した。1782年8月にはコンスタンツェ・ウェーバー(モーツァルト初恋の相手アロイジアの妹、C. M. v. ウェーバーの従姉でもある)と結婚し、充実した生活を送る。1785年から翌春にかけてモーツァルトは《フィガロの結婚》(K.492)の作曲に取り組んだ。本日演奏されるハ短調のピアノ協奏曲はその合間を縫って作曲されたもので、痛烈な貴族批判を軽妙洒脱にやってのけた《フィガロ》とは対照的に、暗く、かつ情熱的な音楽である。
  音楽史家O. E. ドイチュ(シューベルト作品に与えられたDがつく番号はこのドイチュによる)の研究によると、この作品は1786年4月7日にブルク劇場での予約演奏会にて初演された。日本初演は1950(昭和25)年に日比谷公会堂にて、クロイツァー独奏、上田仁指揮東京交響楽団による。

F. シューベルト/交響曲第8番「ザ・グレート」(D.944)
第1楽章 ハ長調 2分の2拍子 アンダンテ−アレグロ・マ・ノン・トロッポ
第2楽章 イ短調 4分の2拍子 アンダンテ・コン・モート
第3楽章 ハ長調 4分の3拍子 スケルツォ:アレグロ・ヴィヴァーチェ
第4楽章 ハ長調 4分の2拍子 フィナーレ:アレグロ・ヴィヴァーチェ

  シューベルトは1797年1月31日にウィーン近郊に生まれ、早くから音楽の才能を現わした。11歳のときに宮廷礼拝堂の合唱児童としてコンヴィクト(寄宿制神学校)に入り、当時のウィーンで最高レベルの教育を受け、また、シュパウン、ホルツアプフェルなど能力ある友人を得た。コンヴィクトにはオーケストラがあって、そのメンバーになったシューベルトはヴァイオリンを弾き、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンなどの作品に親しんだ。1813年にコンヴィクトを離れる直前には、ニ長調の交響曲(D82、第1番)を書いた。この作品はモーツァルトやハイドンの影響を受けつつ、シューベルトのいきいきとした若さに彩られており、いわばコンヴィクト時代を総仕上げする作品だった。
  コンヴィクトを出たシューベルトは、一時は助教員として学校の教壇に立つものの、1816年ころからは友人宅を転々とするボヘミアン的な生活を送った。王侯貴族に仕えるでもなく印税収入を得るのにあくせくするでもなく、友人たちに支えられて自由気ままであった。1825年の初夏から秋にかけて、シューベルトは友人で宮廷歌手のフォーグルと、シュタイアー、グムンデン、リンツ、ガスタインあたりを旅し、その間に交響曲の作曲にとりかかったとされる。しかしそれに該当する作品がみあたらず、長い間、幻の作品《グムンデン=ガスタイン交響曲》と呼ばれた。音楽史家たちの研究の結果、現在では《ザ・グレート》と呼ばれる《大ハ長調交響曲》こそが、この作品であると考えられるようになった。ちなみに《ザ・グレート》という呼称は、1818年完成のハ長調の交響曲(D589、第6番)と区別するために出版社がつけたもので、「偉大な」というよりも「大きな」という意味合いが強い。
  《大ハ長調交響曲》は、いまでこそシューベルトのみならずクラシック音楽の代表的な作品のひとつとして親しまれているが、シューベルト存命当時に日の目を見ることはなかった。シューベルトは1828年に、その年の12月の演奏会で取り上げてもらえるようウィーン楽友協会に提出したが、作品があまりに長大だったせいか黙殺されてしまった。それにシューベルトはその年の11月19日に死んでしまった。享年31歳10カ月ほどである。
  話はかわるが、2010年はシューマンとショパンの生誕200周年にあたる。シューマンは1830年代のはじめ、手の故障によりピアニストになることを諦めて、作曲家を目指すようになったが、その頃から批評家・文筆家としても活動していた。シューマンが1831年の評論「作品二」で同い年のショパンを、「諸君、帽子をとりたまえ、天才だ」と熱狂的に紹介したことはよく知られている。シューマンは1940年代には評論家としての活動を途絶するが、1853年に評論「新しき道」を発表する。シューマンに久しぶりの筆をとらせたのはヨハネス・ブラームスである。シューマンは、シューマン家にやってきて自作のピアノ・ソナタなどを弾いて聴かせた弱冠二十歳のブラームスの才能を認めて、「彼の同時代人として、私たちは世界への門出に当って彼に敬礼する」と記し、「新しき道」を歩む若き芸術家を讃えたのだった。シューマンはその他にもメンデルスゾーンを盛んに擁護し、ベルリオーズの《幻想交響曲》をドイツに紹介するなどした。
  シューベルトの《大ハ長調交響曲》を世に送り出すのに一役買ったのもシューマンである。シューマンはウィーン在住時代の1838年、シューベルトの墓に参り、その帰りにシューベルトの兄フェルディナンド宅を訪れた。その時にシューマンは《大ハ長調交響曲》を含むシューベルトの数々の作品の自筆譜を手に取る機会を与えられたのである。
  シューマンは《大ハ長調交響曲》を、「堂々たる音楽上の作曲技術以外に、多種多様多彩を極めた生命が最も微妙な段階に到るまで現れている上に、到るところ深い意義があり、一音一音が鋭利を極めた表現をもち、そうして最後に全曲の上には・・・深いロマン性がまきちらされている」、そして「ジャン・パウルの四巻の大部の小説に劣らず、天国のように長い」と評した。「天国のように長い」というよく知られたこの言葉は、もともとシューマンがクララ・ヴィークに送ったラヴレターに現れた言葉である。「長さときたらただもう天上的で、すばらしいの一言につきる。四巻本の小説とでもいったところかな。なにしろ「第九」よりも長いんだ。僕はもう嬉しくて嬉しくて、これ以上の望みと言えば、君が僕の妻になって呉れて、自分であんなシンフォニーが書けたらということだけだ」。
  フェルディナンド宅で発見された《大ハ長調交響曲》の楽譜はライプツィヒに送られ、1839年3月21日、ライプツィヒ・ゲヴァントハウスにてメンデルスゾーンの指揮により初演された。日本初演は日本青年館にて、1927(昭和2)年、近衞秀麿指揮新交響楽団(現NHK交響楽団)による。

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  本日のプログラムは、変ホ長調の序曲、変ホ長調の第2楽章をもつハ短調の協奏曲、イ短調の第2楽章をもつハ長調の交響曲から構成されている。登場する調は変ホ長調、ハ短調、ハ長調、イ短調の4つで、変ホ長調とハ短調は平行調、ハ短調とハ長調は同主調、ハ長調とイ短調は平行調だから、みな近く、シンプルで緊密なプログラムである。ひとことで言えば、シブい。
  昨年のプログラム――ベートーヴェン《レオノーレ》序曲第3番、同ピアノ協奏曲第3番ハ短調、メンデルスゾーン《フィンガルの洞窟》、シューベルト《未完成交響曲》――との関係も面白い。音楽学者アルフレート・アインシュタイン(かの物理学者アルベルト・アインシュタインの従弟)によると、モーツァルトのハ短調協奏曲に感嘆したベートーヴェンは、自身のハ短調ピアノ協奏曲の中で、モーツァルトの協奏曲に対して2、3の貢物を捧げたというから、両者は因縁浅からぬ関係にある。また、《大ハ長調交響曲》は、《未完成交響曲》の次の交響曲であり、《フィンガルの洞窟》の作曲者メンデルスゾーンの指揮により初演された作品でもある。偶然かもしれないが、偶然とは思えないほどの関係が見えてくる。
  メロスフィルは特別演奏会と今回を含めてこれまでに16回の演奏会を開き、延べ46の作品をとりあげた。そのうち複数回とりあげられたのは《ジュピター交響曲》(第1回、第11回)、ベートーヴェンの交響曲第8番(第4回、第13回)、そして《魔笛》序曲(第1回、第15回)の3曲のみである。そう、記念すべき第1回演奏会の冒頭でも、今回と同じあの和音が鳴り響いたのであった。
  第1回演奏会はオール・モーツァルト・プログラムで、《魔笛》序曲のほか、ニ短調のピアノ協奏曲(K.466)、《ジュピター交響曲》(K.551)が演奏された。《魔笛》序曲、モーツァルトには数少ない短調を主調とするピアノ協奏曲、ハ長調の巨大なシンフォニーという今回のプログラムは、第1回のプログラムとよく似ている。しかしただ似ているわけではない。第1回と今回の間には、メロスフィルがその間に果たしたオーケストラとしての進歩を示す差があるはずである。譬えればメロスフィルは15年かけて、螺旋階段を上がるがごとく、音楽の世界をひとめぐりして、同じ緯度・経度の、しかしそれまでより標高が高い地点に立ったのである。螺旋階段の2周目に入ったメロスフィルは今日、どのような音楽を聴かせてくれるだろうか。たのしみである。

酒井健太郎
 
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