第1楽章 ハ長調 2分の2拍子 アンダンテ−アレグロ・マ・ノン・トロッポ
第2楽章 イ短調 4分の2拍子 アンダンテ・コン・モート
第3楽章 ハ長調 4分の3拍子 スケルツォ:アレグロ・ヴィヴァーチェ
第4楽章 ハ長調 4分の2拍子 フィナーレ:アレグロ・ヴィヴァーチェ
シューベルトは1797年1月31日にウィーン近郊に生まれ、早くから音楽の才能を現わした。11歳のときに宮廷礼拝堂の合唱児童としてコンヴィクト(寄宿制神学校)に入り、当時のウィーンで最高レベルの教育を受け、また、シュパウン、ホルツアプフェルなど能力ある友人を得た。コンヴィクトにはオーケストラがあって、そのメンバーになったシューベルトはヴァイオリンを弾き、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンなどの作品に親しんだ。1813年にコンヴィクトを離れる直前には、ニ長調の交響曲(D82、第1番)を書いた。この作品はモーツァルトやハイドンの影響を受けつつ、シューベルトのいきいきとした若さに彩られており、いわばコンヴィクト時代を総仕上げする作品だった。
コンヴィクトを出たシューベルトは、一時は助教員として学校の教壇に立つものの、1816年ころからは友人宅を転々とするボヘミアン的な生活を送った。王侯貴族に仕えるでもなく印税収入を得るのにあくせくするでもなく、友人たちに支えられて自由気ままであった。1825年の初夏から秋にかけて、シューベルトは友人で宮廷歌手のフォーグルと、シュタイアー、グムンデン、リンツ、ガスタインあたりを旅し、その間に交響曲の作曲にとりかかったとされる。しかしそれに該当する作品がみあたらず、長い間、幻の作品《グムンデン=ガスタイン交響曲》と呼ばれた。音楽史家たちの研究の結果、現在では《ザ・グレート》と呼ばれる《大ハ長調交響曲》こそが、この作品であると考えられるようになった。ちなみに《ザ・グレート》という呼称は、1818年完成のハ長調の交響曲(D589、第6番)と区別するために出版社がつけたもので、「偉大な」というよりも「大きな」という意味合いが強い。
《大ハ長調交響曲》は、いまでこそシューベルトのみならずクラシック音楽の代表的な作品のひとつとして親しまれているが、シューベルト存命当時に日の目を見ることはなかった。シューベルトは1828年に、その年の12月の演奏会で取り上げてもらえるようウィーン楽友協会に提出したが、作品があまりに長大だったせいか黙殺されてしまった。それにシューベルトはその年の11月19日に死んでしまった。享年31歳10カ月ほどである。
話はかわるが、2010年はシューマンとショパンの生誕200周年にあたる。シューマンは1830年代のはじめ、手の故障によりピアニストになることを諦めて、作曲家を目指すようになったが、その頃から批評家・文筆家としても活動していた。シューマンが1831年の評論「作品二」で同い年のショパンを、「諸君、帽子をとりたまえ、天才だ」と熱狂的に紹介したことはよく知られている。シューマンは1940年代には評論家としての活動を途絶するが、1853年に評論「新しき道」を発表する。シューマンに久しぶりの筆をとらせたのはヨハネス・ブラームスである。シューマンは、シューマン家にやってきて自作のピアノ・ソナタなどを弾いて聴かせた弱冠二十歳のブラームスの才能を認めて、「彼の同時代人として、私たちは世界への門出に当って彼に敬礼する」と記し、「新しき道」を歩む若き芸術家を讃えたのだった。シューマンはその他にもメンデルスゾーンを盛んに擁護し、ベルリオーズの《幻想交響曲》をドイツに紹介するなどした。
シューベルトの《大ハ長調交響曲》を世に送り出すのに一役買ったのもシューマンである。シューマンはウィーン在住時代の1838年、シューベルトの墓に参り、その帰りにシューベルトの兄フェルディナンド宅を訪れた。その時にシューマンは《大ハ長調交響曲》を含むシューベルトの数々の作品の自筆譜を手に取る機会を与えられたのである。
シューマンは《大ハ長調交響曲》を、「堂々たる音楽上の作曲技術以外に、多種多様多彩を極めた生命が最も微妙な段階に到るまで現れている上に、到るところ深い意義があり、一音一音が鋭利を極めた表現をもち、そうして最後に全曲の上には・・・深いロマン性がまきちらされている」、そして「ジャン・パウルの四巻の大部の小説に劣らず、天国のように長い」と評した。「天国のように長い」というよく知られたこの言葉は、もともとシューマンがクララ・ヴィークに送ったラヴレターに現れた言葉である。「長さときたらただもう天上的で、すばらしいの一言につきる。四巻本の小説とでもいったところかな。なにしろ「第九」よりも長いんだ。僕はもう嬉しくて嬉しくて、これ以上の望みと言えば、君が僕の妻になって呉れて、自分であんなシンフォニーが書けたらということだけだ」。
フェルディナンド宅で発見された《大ハ長調交響曲》の楽譜はライプツィヒに送られ、1839年3月21日、ライプツィヒ・ゲヴァントハウスにてメンデルスゾーンの指揮により初演された。日本初演は日本青年館にて、1927(昭和2)年、近衞秀麿指揮新交響楽団(現NHK交響楽団)による。
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本日のプログラムは、変ホ長調の序曲、変ホ長調の第2楽章をもつハ短調の協奏曲、イ短調の第2楽章をもつハ長調の交響曲から構成されている。登場する調は変ホ長調、ハ短調、ハ長調、イ短調の4つで、変ホ長調とハ短調は平行調、ハ短調とハ長調は同主調、ハ長調とイ短調は平行調だから、みな近く、シンプルで緊密なプログラムである。ひとことで言えば、シブい。
昨年のプログラム――ベートーヴェン《レオノーレ》序曲第3番、同ピアノ協奏曲第3番ハ短調、メンデルスゾーン《フィンガルの洞窟》、シューベルト《未完成交響曲》――との関係も面白い。音楽学者アルフレート・アインシュタイン(かの物理学者アルベルト・アインシュタインの従弟)によると、モーツァルトのハ短調協奏曲に感嘆したベートーヴェンは、自身のハ短調ピアノ協奏曲の中で、モーツァルトの協奏曲に対して2、3の貢物を捧げたというから、両者は因縁浅からぬ関係にある。また、《大ハ長調交響曲》は、《未完成交響曲》の次の交響曲であり、《フィンガルの洞窟》の作曲者メンデルスゾーンの指揮により初演された作品でもある。偶然かもしれないが、偶然とは思えないほどの関係が見えてくる。
メロスフィルは特別演奏会と今回を含めてこれまでに16回の演奏会を開き、延べ46の作品をとりあげた。そのうち複数回とりあげられたのは《ジュピター交響曲》(第1回、第11回)、ベートーヴェンの交響曲第8番(第4回、第13回)、そして《魔笛》序曲(第1回、第15回)の3曲のみである。そう、記念すべき第1回演奏会の冒頭でも、今回と同じあの和音が鳴り響いたのであった。
第1回演奏会はオール・モーツァルト・プログラムで、《魔笛》序曲のほか、ニ短調のピアノ協奏曲(K.466)、《ジュピター交響曲》(K.551)が演奏された。《魔笛》序曲、モーツァルトには数少ない短調を主調とするピアノ協奏曲、ハ長調の巨大なシンフォニーという今回のプログラムは、第1回のプログラムとよく似ている。しかしただ似ているわけではない。第1回と今回の間には、メロスフィルがその間に果たしたオーケストラとしての進歩を示す差があるはずである。譬えればメロスフィルは15年かけて、螺旋階段を上がるがごとく、音楽の世界をひとめぐりして、同じ緯度・経度の、しかしそれまでより標高が高い地点に立ったのである。螺旋階段の2周目に入ったメロスフィルは今日、どのような音楽を聴かせてくれるだろうか。たのしみである。
酒井健太郎